13

 机に伏せて寝ていたエドガーの肩を叩いて起こす。エドガーは枕がわりにしていた書類を握りつぶして、頭を上げた。


「まだ報酬を貰っていなかったな」


 アーネストの発言を聞いて、エドガーは顰め面をやめてほくそ笑む。取引をする気の顔だ。


「なにがいい? その年なら欲しいもんなんて山ほどあんだろ」


 あくまで会話のイニシアチブはこちらに譲るが、しかし心理的には上に立ったまま。エドガーは寝癖を手で梳りながらこちらを向いた。


 アーネストは、後ろに控えていたソフィアの小さな背中を押して、エドガーの前に突き出した。


「ぼくが要求するのは情報だ」


 エドガーは途端に口元の笑みを鎮め、厳しい表情に転じる。珍しく真一文字に結ばれた口が、続きを要求しているように思えた。


「ソフィアの戸籍が存在しない理由を教えてもらおうか」


 エドガーが、初めて眉間にしわを深く刻んだ。ラテン系の彫りの深い顔立ちや、その太い眉とが相まって、アーネストを嚇するのに十分な迫力がそこにはあった。


 エドガーは、しばらく黙っていた。触れられたくない過去と強制されている現在とが、彼の中でせめぎ合っているようだった。娘のソフィアは、興味深そうな視線でそんなエドガーを見ていた。


 二分ほどの無言が続き、やっとエドガーが重い腰を上げる。


「……俺とソフィアは、もう死んだことになってるからだ」


 エドガーは言い終えると、ちら、と上目遣いをアーネストへ寄越した。「これでいいか?」とでも言いたそうに。


「何故そうなったか、は聞かせてくれないのか」


「大人はそこまで都合よく動かねぇよ」


 はんっ、と鼻で笑い飛ばし、いつものエドガーが戻ってくる。


 とにかく、アーネストの現在抱える彼への謎はだいぶなくなった。死んだことになっているのなら警察に頼れないのは当然だし、公的機関に見つかると色々辻褄合わせが要るから警察から逃げる。


 だいぶなくなったのは確かだが──まだ彼についての謎は多い。アーネストが彼に対して憧憬の念を抱いてしまった以上、その対象を知りたいと思うのは自然の摂理だ。


「俺は娘を取り返せたし、あんたは俺の代わりに手柄を立てられた。ハッピーエンドだ。


 ってことで、俺たちはここで解散。またどっかで会えたらいいな、アーネストくん」


 エドガーは左手の人差し指と中指にペンを挟み、ひらひらと揺れ動かす。ここで縁を切れ、とでも言いたげに。


「……その話なんだが」


 アーネストは、もう一度要求をする。今度はこちら側にしか得のない報酬ではなく、双方に利益がある交渉という形で。


「ぼくの家の近くに住まないか」


 その提案に、ファーディナンド親子は一斉に声を上げて驚いた。親子だからか、声の相性もよかった。


「戸籍ねぇっつったろ。働けないし、家も借りらんねぇ。どうするつもりなんだ?」


 エドガーが憮然としてアーネストに尋ねる。


「ふんっ、ぼくを舐めるな。


 ぼくの住んでいる町規模なら、大家に一言『アーネスト・ベネディクトの知り合いだ』と言うだけで入居させてくれるさ」


 アーネストはここ一番のしたり顔を決めると、エドガーの反応を窺った。


 すると目を丸くしていたはずの彼は、ひとたびこちらと目が合うと、



 にやりと笑った。



「ソフィア、成功だぜ」


 そう言ってソフィアに目配せすると、強ばっていたはずの彼女の肩がやにわに解けだした。


「うふふ、違うわお父さん。大成功よ」


 そして、悪戯が成功した子供のような顔で笑うのだ。喫茶店のソフィアの幼気は、やはり罠の仕込みだったか。


「その顔は……なんとなく予想はついてたってとこか」


 エドガーが立ち上がってアーネストの顔を見つめて言う。アーネストは下唇を少しだけ噛んでから、ああ、と吐き出した。


「娘がいるのに家がねぇってのもアレだしな、金持ちの家の召使いあたりが関の山だと思ってたが」


 この男、最初からそれを目的としてぼくを、と、妙に憎らしいような、嘆かわしいような、そんな感情が湧いてきた。


「アーネストくんが想像以上のお人好しで助かったぜ」


 これはお人好しでなく、自立への駒を揃えただけに過ぎないのだが──都合がいいので黙っておいた。


 エドガーに悪名が立つと、不利益を被るのはアーネストだ。名を貸すだけとはいえ、リスクがないとは言いきれない。エドガーにそう忠告すると、へらへら笑いながら「わかったよ」と言われた。


 リスクがあるのなら、と、リターンを求めた。彼自身の、幼稚で崇高な野心のために。


「その代わり、ぼくにも考えがある」


 エドガーに「言ってみな」と促される。


「あなたの頭脳を借りたい」


 彼の頭脳があれば、父や兄の暴走を止め、独り立ちできるような気がした。エドガーは「大学のレポートやらを手伝えばいいのか?」と的はずれなことを言っていたが、きっと彼も目的がそうでないことくらい分かっているはずだ。


 アーネストは、いい具合に邪な本心を語る。


「ぼくが探偵稼業を開き、あなたが推理をするんだ。探偵の報酬は全てあなたに差し上げる。


 あなたは身を隠しながら事件の推理ができ、さらに報酬もまるごと得られる。悪い話ではなかろう」


 エドガーはその提案を聞くと、その無精髭を撫でながら、「ほぉ」と一言漏らした。


「つまり──”顔役”は続投したいってことか?」


 そして僅かに開いたブラウンの隻眼で、アーネストを見遣る。あくまで「アーネストに言われたからやる」スタンスで行くつもりなのだろう。アーネストは「いや」と、彼の思惑を破壊して、


「あなたに”頭脳役”を依頼しているんだ」


 と、エドガーより優位な立場に立った。彼はすでに上がった口角を引き攣らせた。


 しばらく黙考してから、「へぇ」とばかり息を吐ききった。そして静かにうち頷く。どうやら、アーネストの依頼を呑んでくれたようだ。アーネストは安堵のため息を吐いた。


 契約期限は、アーネストが頭脳も意思も地位も、自分自身で得られるようになるまで。すなわち、大人になるまで。エドガーには言わなかったが、彼のことだ、引き際くらいわかっているはずだ。


 話したいことは全て話した。エドガーも疲れているだろうし、すぐ寝るだろうと思い、部屋を去ろうとしたが。


「あ、待って、ひとつ」


 エドガーに呼び止められる。


「アーネストくんの家の近くって、新聞社ある?」

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