アーネストは、顔に打ちつける雪の冷たさで目を覚ました。あまりに熾烈な吹雪で、身体を覆っていた気だるさは全て吹き飛んでいた。聞こえるのは風鳴り音と、聞き慣れてしまった蒸気の駆動音が微かに。


「……寒っ⁉︎」


 先程まで居た女性便所もなかなかの寒さだったが、比べ物にならない冷気に思わずそう叫んだ。


 左手の方から、豪快な笑い声が上がる。エドガーの声だ。


「起きたか。おはよう」


 彼は左手でハンドルを握ったまま、右手でこちらの頭を乱雑に掻き撫でる。その手は、申し訳ないほどに温かかった。


「……なぜぼくは車に」


 ガウンの襟に顔を埋めて問う。現在まったく状況が呑み込めていないので、一から説明してほしいと思った。

 アーネストの祈りが届いたのか、エドガーは丁寧に経緯を話しだす。


「あんたがダイアナちゃんとこの女子トイレで倒れてたから、俺が回収して車に乗せたの」


 どうやら自分はあのときそのまま倒れたらしい、とアーネストは事実を飲み込む。意識の失い方からして、どうやらあの刺激臭には催眠作用があったのだろう。エドガーも「沸騰させた抱水クロラールだろう」と、同じように目星をつけている。


「犯人は昼間に診療所へ訪問し、一番奥の個室の窓を開け、ドアを閉めるとそこに故障中の紙を貼っつけた。そのおかげで、昼間は誰も窓を閉めなかった」


 運転しながら、そんなことを考えていたのだろうか。この寒い中よくやるなあと、寒気に鈍化したアーネストの心は思った。


「夜になって、キャンドルかなんかで沸騰させた抱水クロラールの水溶液を開けた窓から差し込んだ。


 ドアを閉めたままにすれば、独特の刺激臭も緩和できる。そのうえ水に溶けやすいから、火が消えたあとの処理も楽だろうな」


 フィリドール個展のときにも感じていたが──この男は、おぞましいほど多様かつ専門的な知識を持っている。アーネストは十八にして、人生経験の重要さを悟った。かといって、四十の自分がエドガーと肩を並べられる自信はなかったが。


 エドガーは抱水クロラールから、ダイアナの行動理論に視点を移した。


「まず、見知らぬあんたを助けたように、ダイアナちゃんは正義感が強く真面目な人間らしい。


 開いた窓から雪が吹き込んでんのを見かけたら、彼女はどう動くと思う」


 アーネストは頭にダイアナの表情を浮かべ、シミュレーションを行った。彼女なら恐らく、寒さや面倒さを無視して窓を閉めに行く。アーネストがそう答えると、エドガーは頷く。


「そ。んで、窓に近づくと同時に、抱水クラロールが置かれたドアの前に誘導される。


 彼女は内科医らしいが、曲がりなりにも医師だ。麻酔として使われることもある抱水クロラール特有の匂いも、嗅いだことあんだろうな」


 つまりエドガーが言いたいのは、とアーネストは先を読んで発言する。


「麻酔薬が御手洗にあるのを不思議に思って、匂いの根源を探るだろう……と?」


 エドガーはアーネストの方へアンバーを滑らせ、ご明察、と笑いながら言った。


 ダイアナがドアを開ければ、直で気体の抱水クラロールが彼女を襲い、麻酔薬の効果で気絶する。彼女より体格のいいアーネストでさえ気を失ったのだから、この流れは必然と考えてよいだろう。


 そして地に伏した彼女を、窓から侵入した犯人が攫い、「吊るされた男」を置いていった──といった旨の推察を、エドガーはつらつらと述べる。なかなかに手の込んだ犯行だったようだ。


「ダイアナちゃんを攫ったのは、四頭立てのキャリッジ。南西へ去っていった。


 こっから南西には、砂漠が広がってる。となると、おそらく補給地としてラスベガスを通るだろうな」


 夜の砂漠は、今のような強烈な寒気がなくても相当寒い。馬の体力を考えると、その地点を経由することもあるだろう。


「だいたい四頭立て馬車は……時速八・五マイルくらいが限界だろうな。


 これで飛ばせば先回り、運がよきゃ追いつくのだってできるぜ」


 そう言うと、エドガーは運転席側のロッドシフトを捻り、速度を上げた。



「……そういえば、どうして馬車を追わなかったんだ」


 キャリッジの馬車を追えば、それこそ事もなし、こんな先回りなんかしなくていい。


「馬鹿、それだったらあんたを置き去りにすることになんだろ。


 顔役として、現場に討ちいるのはまずあんたじゃねぇと駄目だ」


 思わずその部分の思考が抜けていた。間抜けな声を漏らすと同時に、さらなる疑問が湧いた。


「それなら、最初から外で待ち伏せれば……」


 二度も質問したとなると、ダイアナの警護が嫌だったかのように聞こえることに気づいた。アーネストはなんとなく、警護を厭うことはダイアナに失礼なように思った。


 別に彼女と一緒にいるのが嫌だったわけではなく、もっと確実な手があったのではと提案したに過ぎない。そう、決して診療所が寒くて待つのに堪えられなかったとか、眠かったとか、そういう話ではないのだ。断じて違う。


「アーネストくん、忘れてねぇか。ダイアナちゃんは見ず知らずの人も受け入れちまうお人好しだ。


 犯人サイドの人間が診療所に入って睡眠薬入りの水でも渡したら、なんも警戒せず飲んじまうかもしんねぇだろ」


 これまた失念していた。そう、彼女は最初に感じたとおり、「純粋すぎて心配になる少女」なのだ。


 彼女なら知らない人間から差し出されたものでも、飲んでしまいそうだ。なるほど、だから内外に警備が必要なのか、と妙な説得力に唸る。


 エドガーは人間観察に優れているがゆえに、実際に会ったことのあるアーネストよりもダイアナを理解していた。たった一度、アーネストが心配して芯の屍を大量生産するさまを見ただけで。


「まぁそれ以上に、ダイアナちゃんとねんごろになってほしかったってのもあったんだけど」


 エドガーの横顔が、意地の悪い笑みに歪む。嫌な予感がしたが、一応真意を聞いてみる。


「そりゃあ、助けたときに『アーネストさん、助けに来てくれたんですね! かっこいい好き!』とか言われて恋が……」

「始まらん! 邪な妄想をやめろ!」


 隙を見せるとすぐこういう話をする。軽佻浮薄な言動のせいで、どうも賢人には見えようもない。アカデミックドレスを纏い、白い髭を蓄え、異国の言語で深遠な見解を語る──それだけが人間の叡智の在り方ではないらしい。


「ちぇ、つまんねぇの」

「つまらなくて結構」


 ついたため息は、白くなって空気に消えた。外が寒くなると人間の体は体温を上げていくもので、いつの間にかアーネストは眠りに落ちていた。

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