9
アーネストは、顔に打ちつける雪の冷たさで目を覚ました。あまりに熾烈な吹雪で、身体を覆っていた気だるさは全て吹き飛んでいた。聞こえるのは風鳴り音と、聞き慣れてしまった蒸気の駆動音が微かに。
「……寒っ⁉︎」
先程まで居た女性便所もなかなかの寒さだったが、比べ物にならない冷気に思わずそう叫んだ。
左手の方から、豪快な笑い声が上がる。エドガーの声だ。
「起きたか。おはよう」
彼は左手でハンドルを握ったまま、右手でこちらの頭を乱雑に掻き撫でる。その手は、申し訳ないほどに温かかった。
「……なぜぼくは車に」
ガウンの襟に顔を埋めて問う。現在まったく状況が呑み込めていないので、一から説明してほしいと思った。
アーネストの祈りが届いたのか、エドガーは丁寧に経緯を話しだす。
「あんたがダイアナちゃんとこの女子トイレで倒れてたから、俺が回収して車に乗せたの」
どうやら自分はあのときそのまま倒れたらしい、とアーネストは事実を飲み込む。意識の失い方からして、どうやらあの刺激臭には催眠作用があったのだろう。エドガーも「沸騰させた抱水クロラールだろう」と、同じように目星をつけている。
「犯人は昼間に診療所へ訪問し、一番奥の個室の窓を開け、ドアを閉めるとそこに故障中の紙を貼っつけた。そのおかげで、昼間は誰も窓を閉めなかった」
運転しながら、そんなことを考えていたのだろうか。この寒い中よくやるなあと、寒気に鈍化したアーネストの心は思った。
「夜になって、キャンドルかなんかで沸騰させた抱水クロラールの水溶液を開けた窓から差し込んだ。
ドアを閉めたままにすれば、独特の刺激臭も緩和できる。そのうえ水に溶けやすいから、火が消えたあとの処理も楽だろうな」
フィリドール個展のときにも感じていたが──この男は、おぞましいほど多様かつ専門的な知識を持っている。アーネストは十八にして、人生経験の重要さを悟った。かといって、四十の自分がエドガーと肩を並べられる自信はなかったが。
エドガーは抱水クロラールから、ダイアナの行動理論に視点を移した。
「まず、見知らぬあんたを助けたように、ダイアナちゃんは正義感が強く真面目な人間らしい。
開いた窓から雪が吹き込んでんのを見かけたら、彼女はどう動くと思う」
アーネストは頭にダイアナの表情を浮かべ、シミュレーションを行った。彼女なら恐らく、寒さや面倒さを無視して窓を閉めに行く。アーネストがそう答えると、エドガーは頷く。
「そ。んで、窓に近づくと同時に、抱水クラロールが置かれたドアの前に誘導される。
彼女は内科医らしいが、曲がりなりにも医師だ。麻酔として使われることもある抱水クロラール特有の匂いも、嗅いだことあんだろうな」
つまりエドガーが言いたいのは、とアーネストは先を読んで発言する。
「麻酔薬が御手洗にあるのを不思議に思って、匂いの根源を探るだろう……と?」
エドガーはアーネストの方へアンバーを滑らせ、ご明察、と笑いながら言った。
ダイアナがドアを開ければ、直で気体の抱水クラロールが彼女を襲い、麻酔薬の効果で気絶する。彼女より体格のいいアーネストでさえ気を失ったのだから、この流れは必然と考えてよいだろう。
そして地に伏した彼女を、窓から侵入した犯人が攫い、「吊るされた男」を置いていった──といった旨の推察を、エドガーはつらつらと述べる。なかなかに手の込んだ犯行だったようだ。
「ダイアナちゃんを攫ったのは、四頭立てのキャリッジ。南西へ去っていった。
こっから南西には、砂漠が広がってる。となると、おそらく補給地としてラスベガスを通るだろうな」
夜の砂漠は、今のような強烈な寒気がなくても相当寒い。馬の体力を考えると、その地点を経由することもあるだろう。
「だいたい四頭立て馬車は……時速八・五マイルくらいが限界だろうな。
これで飛ばせば先回り、運がよきゃ追いつくのだってできるぜ」
そう言うと、エドガーは運転席側のロッドシフトを捻り、速度を上げた。
「……そういえば、どうして馬車を追わなかったんだ」
キャリッジの馬車を追えば、それこそ事もなし、こんな先回りなんかしなくていい。
「馬鹿、それだったらあんたを置き去りにすることになんだろ。
顔役として、現場に討ちいるのはまずあんたじゃねぇと駄目だ」
思わずその部分の思考が抜けていた。間抜けな声を漏らすと同時に、さらなる疑問が湧いた。
「それなら、最初から外で待ち伏せれば……」
二度も質問したとなると、ダイアナの警護が嫌だったかのように聞こえることに気づいた。アーネストはなんとなく、警護を厭うことはダイアナに失礼なように思った。
別に彼女と一緒にいるのが嫌だったわけではなく、もっと確実な手があったのではと提案したに過ぎない。そう、決して診療所が寒くて待つのに堪えられなかったとか、眠かったとか、そういう話ではないのだ。断じて違う。
「アーネストくん、忘れてねぇか。ダイアナちゃんは見ず知らずの人も受け入れちまうお人好しだ。
犯人サイドの人間が診療所に入って睡眠薬入りの水でも渡したら、なんも警戒せず飲んじまうかもしんねぇだろ」
これまた失念していた。そう、彼女は最初に感じたとおり、「純粋すぎて心配になる少女」なのだ。
彼女なら知らない人間から差し出されたものでも、飲んでしまいそうだ。なるほど、だから内外に警備が必要なのか、と妙な説得力に唸る。
エドガーは人間観察に優れているがゆえに、実際に会ったことのあるアーネストよりもダイアナを理解していた。たった一度、アーネストが心配して芯の屍を大量生産するさまを見ただけで。
「まぁそれ以上に、ダイアナちゃんと
エドガーの横顔が、意地の悪い笑みに歪む。嫌な予感がしたが、一応真意を聞いてみる。
「そりゃあ、助けたときに『アーネストさん、助けに来てくれたんですね! かっこいい好き!』とか言われて恋が……」
「始まらん! 邪な妄想をやめろ!」
隙を見せるとすぐこういう話をする。軽佻浮薄な言動のせいで、どうも賢人には見えようもない。アカデミックドレスを纏い、白い髭を蓄え、異国の言語で深遠な見解を語る──それだけが人間の叡智の在り方ではないらしい。
「ちぇ、つまんねぇの」
「つまらなくて結構」
ついたため息は、白くなって空気に消えた。外が寒くなると人間の体は体温を上げていくもので、いつの間にかアーネストは眠りに落ちていた。
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