「……それだけの話だ」


 エドガー・ファーディナンドという男は、ぼくに踏み出す勇気をくれた。言おうか言わまいか迷ったが、結果その言葉は舌先で留まった。

 ダイアナは、はたと手元を止めて、感想を一言だけで述べた。


「つまり……壮大な反抗期ということですか」

「はんっ、反抗期……⁉︎」


 思わず聞き返す。反抗期という言葉に心当たりがないアーネストは、疑問符を頭上に浮かべる。十八のアーネストにとって、十分その発言は屈辱になりえた。


「ええ、今のままだと。親や兄に反抗する学生と何ら変わりませんよ」


 こんな不躾な言い方も、イギリスではされなかった。彼女のように貴賤の壁を超える人間がこの国にはいる、一方で。

 エドガーのような、階級で何かを諦めるような人間が、


 と、そこまで考えて思考を止め、いったん今まで培ってきた仮定を消去した。


 ──否、彼のあれは、何かが違う。


 貴族に、なにか並々ならぬ因縁があった。

 大勢居るであろう候補の中から自分を選び出したのも、それに関係があることだろうか。


 とはいえ本人のいないところで色々と勘ぐるのは、無礼なように感ぜられた。そのうえ、情報が少なすぎて探りようもない。彼が意味もなく怪しいオーラをばらまいている可能性だって、否めない。まあ彼ほどの切れ者となると、その可能性は限りなくゼロに近いだろうが。


 アーネストは、頭に浮かんだたくさんの疑念を取り払おうと、二度ばかり瞬いた。


 意識は戻って、一月五日の午後十一時。ダイアナが含みたっぷりに吐き出した「今のままだと」の意味を問う。

 彼女は答える。


「いつかあなたが、自分だけの意思や財産や能力……それらだけでその目標を達成できたときはじめて、反抗期は終わりを迎えると思うのです」


 アーネストはすかさず反駁する。


「っ、でも、ぼくがあなたたちを助けたいと考えているのは、自らの意志によるものだ」


 ダイアナは目を細めて、蠱惑こわく的な笑みを浮かべる。そこにはもはや、「若きアスクレピオス」の絶対的慈悲深さはなかった。ただの、ティーンエイジャーの少女の顔だ。


「あなたの話だと、その意思の根幹は父兄への対立思考のようですよ」


 つまり、ぼくは逆らいたい、という思春期特有の思考ゆえにここに至った、とでも言いたいのだろうか。アーネストはそう解釈して、勝手に慙愧の念をその心に宿した。


 そしてアーネストは、自らがまだひとりで歩くことのできない子供だということを悟った。未熟者の自覚はあれど、実際に人からそう言われると、すこし気恥ずかしいような、また腹立たしいような、複雑な感情を抱いた。


「……ぼくは、大人になれるのだろうか」


 なぜ、年下だと思われる少女にこんなことを聞いたのか、アーネスト自身もわからない。ただ彼女は確かに、アーネストの望む返答を返した。


「なりたいと願うなら、なれるでしょう」


 アーネストは、そうか、とだけ言った。いつの間にか、吐いた息は透明になっていた。



 かち、かち、という音が、いくつ続いたころだろうか。もうとっくに日付は変わったのに、いくら待っても人の気配はしない。


 がたん、と隣から椅子を立ち上がる音がした。アーネストはその音で、微睡みから目を覚ます。


「御手洗へ行ってきます」


 ダイアナは閑雅な動作でスカートのプリーツを直し、診療所の奥へ歩いていく。


 見ていないうちに攫われたら困る、と、アーネストも同行を願い出る。彼女は一瞬、少しだけ躊躇いが口元に出たが、理性が勝ったのか、「お願いします」と口に出した。


 ダイアナは歩きながら、ぽつりと呟いた。


「ううん……私の日付の推理が間違っていたのでしょうか」


 独り言にも似た嘆きだった。アーネストは、そんなはずは、と暗示にも似た慰めの言葉をかける。ダイアナはその言葉に応じるように、アーネストのほうを向いて、


「アーネストさん、優しいんですね」


 と、どこか悲しげに笑った。謙遜の言葉を口にする前に、ダイアナは女性便所へと入っていった。


 音が聞こえないところで、腕を組んで待つ。しかしふと気づくと自分が入眠しそうになっていて、慌てて姿勢を変える。しかし午前二時の睡魔は手強く、どんな姿勢を取っても眠りに落ちそうになる。どうすればいい、どうすれば眠気を飛ばせるんだ、と様々な姿勢を試したところで。



 ──がしゃん、と何かが落ちる音がした。



 女性便所のほうだ。アーネストは一気に目が覚めるような心地がして、音の方へ駆けだす。


 ドアに耳を当てる。何も聞こえない。


 ノックをしたり、ダイアナの名を呼んだりしても、返事はない。


 ただの心配のしすぎでないことを確認してから、アーネストはトイレに討ち入る。


 饐えた匂いの中に、ダイアナはいなかった。正面の引き違い窓は開き、そこから白い雪がはらはらと舞い込んでいた。床に敷きつめられたタイルが、雪の結晶を受けてさらに冷えていく。靴底から伝わる冷気が、靴裏を刺すようだ。


 自分の常識と戦いながら、アーネストは女性便所に足を踏み入れる。


 徐ろに一歩一歩踏み出していくにつれ、アーネストはある異常に気づいた。排泄物の悪臭に紛れて、刺激臭がする。そしてそれは、窓に近づくにつれてどんどん強くなっていく──通常では考えられないような何かが、窓際にある。


 その匂いを嗅ぐ度、アーネストは意識が飛びそうになる。ハンカチで口を覆っても、頭がくらくらするような感覚はなくならない。


 窓の一歩手前で、強烈な目眩を覚えて壁に寄りかかる。一番奥の個室のドアには貼り紙があり、そこには「Out of Order」──故障中、と書かれていた。


 故障中なのに、なぜドアが開いているのだろうか、と考える暇も与えず目眩は襲う。心的には緊張しているはずなのに、心拍数はゆっくりと脈打つようになる。アーネストが最後に見たのは、割れたダイアナの眼鏡と、そばで嗤う「吊るされた男」だった。

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