決戦前夜。アーネストは手袋越しに滲むニッパーの冷気を握りしめ、胸中で決意を固めていた。ニッパーをジャケットのうちポケットに入れ、診療所の戸を叩く。


 アーネストが深呼吸をしているうちに、扉は開かれた。ゆるく編んだ三つ編みが、風圧で舞う。少女、ダイアナは、眼鏡のレンズを温度差で曇らせていた。


「ようこそおいでくださいました」


 心からの笑みを浮かべ、アーネストを招き入れる。アーネストは雪を払って、その戸をくぐった。


「失礼する」


 心做し身を屈めて、背後のドアを閉める。

 ダイアナは、「毛布を取ってきますから」とアーネストを待合所の椅子に座らせた。待合所で、日付が変わるのを待つつもりのようだ。


 アーネストを待たせて、ダイアナは診察室の方へ歩いていく。彼女の背はぴんと伸び、どことなく誘拐という恐怖に立ち向かう気概が見られた。


「……あの、いま訊くのもなんなのだが」


 アーネストがそう前置きすると、ダイアナは足を止め、振り返る。


「本当に、怖くないのか」


 なにを怖がるのか、言わずとも彼女はわかっているようだった。ダイアナは、レンズの奥の目を細めて言った。


「ええ。いまさら怖がっていられませんし、それに──」


 そして目を開き、両目でしかとアーネストを捉えた。


「あなたが、守ってくれるのでしょう?」


 冗談めかしている様子ではなかった。真剣にただ事実を述べているかのような、そんな様子だった。


「……性格の悪い」


 冗談として受け取ったかのように、鼻で笑って茶を濁す。


「いえ、単純に信頼して言ったのですよ」


 頭のいい人間はつくづく分かりづらいなという気持ちを、アーネストは苦笑いに含ませた。

「では」と、彼女は診察室の奥へ消えていった。待合所には、アーネストがひとり取り残された。


 雪の降る音はしない。暖炉の温もりが少しばかり混じった部屋、かちかちと懐中時計が鳴る中、アーネストはダイアナを待った。

 時刻は、午後十一時過ぎ。まだ誘拐される懸念は無い。


 大学のレポートの構想を固めて無聊ぶりょうを慰めていると、時が経つのは早かった。診察室に繋がるドアががらりと開く。


「お待たせしました」


 ダイアナが、紺と赤の毛布を二枚、持って出てきた。


「ああ、ありがとう」


 アーネストは、そのうちの紺の毛布を受け取る。発した声が、白い息に変わる。それくらい、その夜は寒かった。

 ダイアナは、アーネストの左に座った。彼女は毛布を膝にかけると、手に持った書類をめくりだす。

 ああその手もあったな、と、車の中に置いてきたレポートを悔やんだ。


「風邪なんてひかれたら困りますから」


 ダイアナは、手持ち無沙汰なアーネストにそう言った。アーネストは、気まぐれにダイアナへ顔を向ける。彼女の目線は、書類にそのまま注がれていた。


「そんなに軟弱に見えるか」


 アーネストはこっそりと、ガウンに覆われた自分の手首を触る。そんなに細くはない、はず。


「いえ、そういうことではなく。あなたは、貴族様ですもの」


 無意識下の偏見が、アーネストは少しだけ怖かった。もちろん、彼女にそんなつもりはないだろうが。アーネストは、階級社会が及ぼす影響が眼前に迫っているように思えて、鳥肌が立った。


「貴族を優遇しなければいけないわけでもないし、平民を軽んじていいわけでもなかろう」


 アーネストは、懐中時計が刻む秒針の振動を胸に受けつつ、そう答えた。ダイアナが、ようやくアーネストの方を向く。


「……全ての貴族があなたみたいな人ならよかったのに」


 ダイアナは年相応に独りごちた。しかし眼鏡のブリッジを上げるとまた大人びた顔に戻って、『若きアスクレピオス』として働きはじめる。


 アーネストは、急かすような懐中時計の音を誤魔化すため、口を開いた。


「……暇つぶしに、ぼくの昔話を話したい」


 ダイアナは、どうぞ、とも言わず長文のドイツ語を書き込んでいる。彼女なりの気遣いなのだろうか。


「背景音楽だと思って聞いてくれ」


 アーネストはそう言うと、目を瞑った。そして、昔の記憶に思いを馳せた。



 ぼくの家は、策動する悪徳貴族の苗裔びょうえいだ。



 ぼくの家の本邸はイギリスにあり、名家のひとつに軒を連ねる。しかし先代から、ある噂が蔓延している。


「権力を用いて、対立する要人を追い払っている」


 ──といった旨の。


 ぼくの前置きで察してもらったとは思うが、これは紛れもなく真実だ。どこから漏れたかはわからん。だが噂を信じ込んだ人々の内では、その話は本当のこととなっている。それは少しばかり、こちらに都合の悪い事実だ。


 ……あなたにだけ、真実を話そうか。


 先代──ぼくの祖父が、そういった悪事を始めた。やり口も実に性格が悪く、外堀を埋めてじわじわと追い詰めていく、というものだ。現当主、ぼくの父も、そのやり方を継承している。


 ぼくは、そんな彼らを看過できるほどの寛容さを持ち合わせていなかった。


 ぼくがいくら「栄枯盛衰は時流の中で当然の摂理だ」と説いても、父は止めようとしない。兄も行動に移しはしないが、父に進言をしたり、標的の情報をまとめたりと、確実に助力をしている。このままでは、兄もいつか外道に堕ちることだろう。


 だからぼくは、パブリック・スクールに入ったとき、決意したんだ。


「この世界から逃げ出して、先代が貶めたより多くの人間を救ってやる」


 そしてぼくは法律を学び弁護士になるため、この自由の国アメリカまで留学しにきた。


 ──カリフォルニアに別荘を造ったという点では、先代に感謝している。あくまで、場所選びのセンスに、だけだが。



 まあそういった諸般の理由があり、ぼくはいまここにいる。

 ここから先どうなるかはわからんが、若造なりに手当り次第やってみたいと思っている。

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