立ち去ろうとするアーネストを引き止めたのは、ダイアナだった。


「お待ちください、アーネストさん。……いえ、アーネスト様」


 突如恭しくなった口調に動揺する。

 なぜ、自らの身分が彼女の知るところとなったのか、考えてみれば──アーネストは、懐のポケットに心当たりがあった。


 昨日取り出した万年筆、あれは家紋が彫られた特注品だ。一般的に見ればそれは、庶民には到底持ちようもない高級品。それゆえあのとき彼女が物珍しそうな目でこちらを見ていたのかと、遅ればせながら解明されたのだった。


「どうして平民しか巻き込んでいない事件を、あなたが解決なさろうとしているのですか」


 不信感、隔意、羨望。むき出しの感情が、アーネストを刺した。

 そうだ。貴族に向けられる感情は、いつだってそういったものだった。イギリスにいたときより強い下剋上の気質が、アーネストを睨みつける。


「……ぼくは、このアリストクラシーな世界から逃げたい」


 月並みにも思える言葉を、アーネストは言った。きっと聡明な彼女はそれだけで満足しないだろうと、続けて言う。


「ぼくはあなたのように、平民だからと諦めるような人たちを、見ていられなかった」


 様々な顔が、脳裏に浮かぶ。そのひとつには、ソフィアの写真を見せるエドガーの顔もあった。

 それと、という言葉と共に、丁重な仕立てがなされたジャケットを握り締める。


「理不尽を強いる自分が、許せなかった」


 そこにあったのは、自分への怒りだった。父の乱暴を止められなかった──自分への怒りだ。


「それでもあなたが──貴族が見た世界は、本当に困っている人のそれとは違うのでは」


 ダイアナの疑問は、アーネストが想定した通りのものだった。アーネストは、あえてその問いを肯った。


「ぼくは、あまりに未熟だ。あなたが言うように、あなたたちの生活の苦しさも、何も知らない」


 アーネストの脳裏に、一瞬明るい黒髪がちらついた。彼は、確実にアーネストの視界を変えた。裕福だが色のない世界から、抜け出せると思わせた。


 たかが一歩、されどそれは、千里の道のスタートラインから踏み出した一歩なのだ。

 だから。


「これから、知らなくてはならない。多少強引にでも」


 二歩目は、せめて自分の足で踏み込みたかった。


 ダイアナは、茫然としてアーネストの物語を聞いていた。


「未熟者が首を突っ込めば、上手くいくわけがないし、非難も飛ぶだろう。今ここまで来たのは奇跡に近い」


 アーネストは、口の中でその奇跡を噛み締めた。追想すると、よくこんな上手くいったな、と、アーネスト自身が一番驚いていた。

 わけも分からぬまま綱を渡りきって、後ろを振り向いたときの驚嘆、とでも喩えるべきだろうか。どちらもアーネストには経験がなかったが。


 ただのキャッチコピーに見えた言葉が、今思い出すと輝きに充ちた名言だったのだと、口に出してから気づいた。


「I have not failed. I’ve just found 10000 ways that won’t work.」


 新聞の広告欄だっただろうか。オハイオの映画制作者が、そんなことを言っていた気がする。名前は、忘れてしまったが。


「上手くいかなかったら、批判してほしい。情けないが、助けてほしい」


 アーネストは、天に向かって叫びたかった。「エドガー、貴族だからといって平民に助けを求められないわけはないんだぞ」と。


 ダイアナは、控えめに頷いた。権力に従う、というよりも、自分の意思で呑んだ、といったふうだった。


「……それと、アーネスト様はやめてくれ。恥ずかしい」


 しばらく呼ばれていなかったものだから、昔のあだ名を掘り返されたようでむずがゆかった。ダイアナは、そんなアーネストを見て破顔した。


 診察室まで戻ると、ダイアナはすぐさま看護師と交代し、治療を再開した。あのひたむきさも、「若きアスクレピオス」として親しまれる要因となっているのだろう。


 部屋を出る前に、アーネストは別れを告げた。


「それでは、また今夜に会おう。失礼した」


 診察室の扉を閉じると、待合所のやけに生暖かい視線がアーネストを刺した。


 ふと言葉選びの誤謬ごびゅうに気がつくと、羞恥で思わず叫びそうになった。この過ちを咎める者は、誰もいなかった。



 笑う者はいた。


「へぇ、大変だったなぁ、っはは!」


 昼を食べても一ドルいかない程度のカフェで、エドガーと落ち合う。


「……ああいうのは不得手だ」

「だよなぁ。アーネストくん、明らかに女の子苦手そうだもん」


 反駁はんばくできない己の口が憎かった。


 視線の先のエドガーは、実に愉快そうな表情でサンドウィッチを頬張っている。朝、他にやることがある、と言っていたが、何かを成し遂げたあとの達成感や疲労の色は彼に見えない。


 考えたくはないが、アーネストに全てを任せてどこかで遊んでいたのだろうか。


「おっと、アーネストくんの話を揶揄からかうのはこのへんにして……」


 アーネストの心を読んだかのように、エドガーは姿勢を正した。彼が真面目な話をするときに見せる動作だ。アーネストも、スープを掬う手を止める。


「いよいよ明日、らしいな。ダイアナちゃんが誘拐されんのは」


 アーネストは、厳しい面持ちで頷いた。ダイアナの推理は合っている、と、彼が一番強く信じていた。エドガーも推理を聞いたとき、「理にかなってんな」と思わず咨嗟していた。ダイアナの推測は、エドガーの折り紙付きに昇格していたのだ。


「ダイアナちゃんへ話してもらったように──俺らは彼女を囮に、敵のアジトを突き止める」


 細部は異なるが、大局的に見ればその流れになるらしい。気は進まなかったが、覚悟していたぶん、退ける気にはならなかった。


 それに、ダイアナにああやって宣言してしまった直後だ。臆病風に吹かれて二の足を踏むのは、男としての沽券に関わると思った。そんな調子では、「世界を変えたい」という大仰な願いなんて、一生叶わないだろう。


「敵のアジトがわかったら、ふたりで乗り込む、んだけど……俺はこういうのに慣れてる。無理そうなら早めに退けよ」


 プライドが高いと思われているのだろうか。あるいは、反抗期の子供のように扱われているのだろうか。どちらにせよ腹が立つので、アーネストは「戦力になってみせるさ」と啖呵をきった。


「あっはは、その意気がどこまで続くかねぇ」


 この男相手に、口で戦うのはほぼ無謀と言っていいだろう。ならば、これからの戦いで認めさせるのみ──と、アーネストは決心した。イギリスにいた頃の護衛術くらいしか役に立ちそうな手札はなかったが、奇跡が重なった今ならなんとかなりそうな気がした。


「乗り込みに行くときには、武器も必要だからな、ってことで。知り合いに色々譲ってもらった」


 エドガーが、懐を探る。どうやら大事なものを懐に入れるのは、彼の癖らしい。


「はいっ!」


 彼が元気よく机上へ投げ出したのは──ニッパーだった。しかも半分錆びついている。


「ニッパー……だな」


 あまりにトリッキーだったので、アーネストの感想はそれだけだった。エドガーもエドガーで真面目に取り合う気がないらしく、


「おう、ニッパーだぜ」


 とオウム返しの返答をした。アーネストは脳内で、言いたいことを簡潔にまとめた。


「……武器がニッパーって何だ?」


 とにかく口に出たのは、それだった。こんな工具じゃ、見せられるはずの活躍もなせない。


「まあまあ、いずれ分かるから、な! ほら、色男はどんな武器持っててもかっこいいぜ」


 そう言いながら、エドガーは腿のホルスターから拳銃を抜いて見せびらかした。黒いハンドガン──エドガーは38口径リボルバーだと説明した──は、どう見ても新品で洗練されている。


「…………そうか」


 本当はリボルバーがすこし羨ましかったが、自分が使いこなせる気はしなかったので、アーネストはおし黙った。


「そうそう。適材適所ってやつだ」


 エドガーはリボルバーを仕舞い、口の周りについたサンドウィッチのソースを舐める。


「いいか、アーネストくん。作戦は大体の道筋さえ合っていればいいんだ。生真面目に守りすぎんなよ」


 自分の性分を理解しているアーネストからすれば、耳の痛い話だった。作戦でもっとも肝要な心構えとして、肝に銘じておくことにした。


「……ああ。忠告、感謝する」


 アーネストは噛み締めるように言った。そうすることでようやく、彼の穏やかな昼食の時間は戻ってくるのだ。


 冷めたバケットの残滓にマーガリンを薄く塗って、口に突っ込む。そして、ボウルの底に残った最後の一掬を口へ流し込んだ。ストレートのアールグレイが喉元を通り過ぎたほどで、一月四日の昼食は緞帳どんちょうを下ろした。


 あとはカフェから見える風景と──たまに目の前の無精髭を眺めて、時間を潰す。


 ふと、エドガーが珈琲を急な角度で傾けた。彼が店を出る時の合図だ、と察したアーネストは、最後の好機とみて訊きそびれていたことを訊くことにした。


「……エドガー」


 なんだ、とばかりに金の目を向ける。


「これが終わったら、あなたはどこへ行くんだ」


 ほんの一昨日、偶然に出会っただけなのに。


 蒸気自動車が地平に消えていくさまを想像すると、なぜか腹に据えかねる何かが湧き上がってくる。加えて、二度とアーネストの世界に色が戻らないようにも思ってしまう。


 その場合、彼の顔を務めたこの二日間は、どうなってしまうのだろう。思い出として心に残るならまだいいが、底に追いやられて風化していくかもしれない。まだ時の長さを知らないアーネストにとって、それはひどく薄情で、恐ろしい話に思えた。


 エドガーが、カップを置く。


「俺だって知らねぇ。アメリカのどっかにはいる」


 エドガーは、ぶっきらぼうに目を逸らした。


 同じ国にいる、というのは狭そうで案外広い条件だ。このアメリカだと、エドガーは約七千万分の一にしかすぎない。それは──なんというか、つまらない。


 エドガーが、ついに席を立った。アーネストも、それを追って腰を上げる。とみにエドガーがこちらに手を伸ばし、肩を掴んできた。


You can do itあんたならできる


 それが、彼なりの励ましなのだろうか。


Obviouslyわかっている


 アーネストは、そう言って笑った。

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