5
アーネストは帰る途中、もうひとつエドガーから指示されたことがあったと思い出す。それは「ダイアナの診療所のトイレを借りろ」という、意味のわからない指令だった。
「すみません、あの……御不浄はありますか」
突然飛び込んできた男に、ふつうトイレを貸すだろうか、と計画の行方にアーネストは危うさを感じていた。
「ありますよ。こちらへ」
しかしダイアナはふつうの人間ではなかったので、計画は上手くいった。エドガーは、もしかしてこの心配になるくらい素直な性まで推測していたのだろうか。そうなるといよいよ脱帽の域だ。
ダイアナは診療所の奥まで歩き、指でトイレの場所を指し示す。礼を言って、アーネストは男性便所のドアを開けた。
──エドガーは、トイレに入ってからの行動についても言及していた。「窓の数と位置関係を確認さえしてくれればいい」と。言われたとおりにアーネストはトイレ全体を見回り、窓の数を確認した。
入って正面、胸ほどの高さのところに大きな引き違い窓がひとつ。個室ひとつひとつに、各々滑り出し窓がひとつ。行動の意図はわからないが、とりあえず命令はこなした。
誤魔化しに個室のトイレの水を意味もなく流し、意味もなく手を洗い、男子便所から出る。
もう一度ダイアナに礼を言って、今度こそ診療所を出ていく。
ダイアナ・サビクの第一印象は、「純粋すぎて心配になる少女」だった。
そして例によって、宿代はエドガーと割り勘をした。今夜の宿は、昨日泊まったものよりも少し粗末だった。
長期休暇中に課せられたレポートを綴るアーネストに、エドガーが話しかける。
「アーネストくん、かわいかった?」
ダイアナのことを訊いているのだろう。凡俗な男だと思った。
「まあ」
「まあ、って……アーネストくん、どんな娘でもそう言うだろ」
エドガーが残念そうな声でぼやく。どういう返答が望まれていたのだろうか。「かわいかった」とでも言えばよかったのだろうか。それも癪だが。
「まあ」
意趣返しのつもりで、相槌を打つ。
「あーつまんねぇの」
後ろのベッドで、輾転の音が聞こえた。しばらく彼が静かでいたので、アーネストはもう寝たのだと思っていた。
突如、後ろから名前を呼ばれる。アーネストは驚き、メカニカルペンシルの芯を勢いよく折った。
「ダイアナちゃんの推理の件、気になってんのか?」
芯を繰り出しながら、ばかな、とアーネストは呟く。
「彼女ならやってくれるさ。ぼくなんかより、ずっと聡明な女性だったからな」
ここで会話は終わったと思い、再びレポートを進める。禁酒法の是非についてのレポートは、調べることが多く疲弊していた。
それでもまだ、後ろの中年は話しかけてくる。
「でも、さっきから芯折りまくってんだろ。あ、それとも、教授への怒りをぶつけてる?」
疲労のせいにしたかったが、それでもこの芯の死骸は多すぎる。エドガーの質問に答えられないまま、その屍山を育てていく。
「好きなように解釈してくれ」
庭先の烏を追い払うように、ぴしゃりと言い放つ。
「じゃ、いいように解釈するぜ」
どう解釈したのかは、訊かなかった。
それきり、エドガーに声をかけられることはなかった。アーネストの懐中時計が一日の終わりを告げるころには、既にエドガーは夢の中に居たようだ。
◇◇◇
翌朝。エドガーは用事があるとのことだったので、アーネストは単身、ダイアナの元へ訪れていた。
診療所のドアを開けると、昨晩は空だった待合所の椅子に、たくさんの人が腰かけていた。彼らは年齢、性別、貴賎も問わず、じっと「若きアスクレピオス」の治療を待っている。やはり彼女は偉大なる人間のようだ。
アーネストは、受付嬢に問う。
「すみません、あの……ダイアナ・サビクさんはいらっしゃいますか」
すると、一瞬にして診療所はざわめきに包まれた。アーネストがわけもわからず待合所の方へ向くと、皆の視線が彼に集中していた。そのすきに、受付嬢はどこかへ行っていた。ダイアナを呼びにいったのだろうか。
そしてふと、ひとりの老爺が声を上げた。
「ダイアナの恋人か!」
アーネストは、ざわめきの理由を悟った。自分は、ダイアナに逢いに来た恋人だと勘違いされているのだ、と。
老爺の発言を嚆矢に、ほかの人間も喋りだす。
「いい身なりだね。資産家? もしかして騎士?」
「ああ見えて彼女、お転婆だから。気をつけたほうがいいよ」
遠巻きに、診療所の患者たちがそう畳みかける。先ほどの老爺の発言は、すっかり真実だと皆思い込んでいた。
「い、いや……ぼくは……」
どうコメントしたら良いのかわからず、早くダイアナがやってこないかと視線を巡らす。頭を横に振り、必死に疑惑の否定をし続けるが、効果はない。昨年の夏に父の家へ行ったときも、似たような状況だった。
視界の端で、診察室のドアが開く。とともに、白衣を纏った少女が飛び出してくる。「若きアスクレピオス」、ダイアナ・サビクだ。
ダイアナは、凛として口を開く。
「違います、彼は……えっと、彼は」
威勢こそ良かったが、ダイアナはだんだんとしどろもどろになっていく。アーネストは趨勢が気になって仕方がなかった。もちろん、悪い方面で。
「め、名探偵です」
アーネストは、突き刺さる視線が違うものになったのを感じた。人々の、何かしらに対する、期待だ。ときにそれは、プレッシャーとなって人を押し潰すともいわれる。
否定しようとして、アーネストは口を開く。しかし、ある懸念が頭を過り、再び緘口する。
自分はあくまで、「エドガーの代弁者」だ。言っていること、行っていること、全てがエドガーの代行だ。ここで「名探偵ではない」と否定してしまえば、すなわちエドガーが名探偵である可能性を潰したこととなる。
それでいいのか、と。
逡巡のすきに、かなりの葛藤を繰り返した。アーネストは、自分のこの真面目すぎる性分がなかなかに嫌いだった。
目覚めさせたのは、ダイアナの一言だ。
「アーネストさん、どうぞ、奥まで」
ダイアナはアーネストの手を掴んで、診察室の奥まで連れていく。冷たく小さく、掴むだけで折れてしまいそうなほど、細い指だった。
ダイアナは、看護師に患者を任せると、奥の書類が積まれた部屋まで向かった。
机にある書類は、全てドイツ語で書かれていた。ちら、と目に入ったぶんでは「Magengeschwür」やら「Husten」やら書いてあったから、恐らくカルテの類いだろう。
彼女はアーネストに椅子を勧めて、自分は立ったまま書類の山を漁り出した。きっとここにはたくさんの個人情報が眠っているだろうから、と、アーネストは床だけを見つめていた。
「ありました!」
ダイアナの声で、前を向く。彼女が手にしているのは、粗い目の藁半紙。いくつか数式が書かれている。
「見つけましたよ、法則性」
そう言って、彼女は爛漫に笑う。
「……っ、見せてください」
アーネストがそう言っただけで、彼女は堂々たる面持ちで紙の内容を読み上げる。納得のいく推理ができた人間は、皆こうなるのだろうか。
「まず、いままでの攫い方からして、犯人は随分と形式に拘る方である、というふうにお見受けしました」
それは、エドガーやアーネストも前々から感じていたところだった。エドガーに至っては、「犯罪は芸術じゃねぇっての」と愚痴を吐くほどだ。
「なので、数字自体になにか意味があるのだろうと睨みました」
そして、と、藁半紙をアーネストの眼前に突きつける。一、三、六、と関連性の掴めなさそうな数字が並んでいる。
「これは、誘拐された日です。そして、この数には、ある性質があるんです」
アーネストは、その下の図形に目を移した。一、と書かれた下には黒い丸がひとつ、三、と書かれた下には黒い丸がみっつ描かれていた。三の丸は上段ひとつ下段ふたつ、と、積み上げたような形に並べられている。
彼女の言うとおり、そこに書かれた六、十、十五、二十一、二十八は全て誘拐が発生した日付だ。
それらを見て、アーネストはあることに気づいた。
「すべて、ピラミッド型に並べられますね……」
これはアーネストたちにはなかった、数学的視点からの推理だ。
「この法則によると、十二月三十六日……つまり、一月五日の朝に誘拐が起こることになります。ちょうど、明日ですね」
アーネストは、部屋の壁掛けカレンダーへ視線を送った。一月五日は、間違いなく明日の日付だ。つまり、今日は夜通しダイアナの監視をする、ということになる。エドガーが聞いたらいい顔はしなさそうだ。
「素晴らしいです。本当にありがとうございました」
アーネストは頭を下げた。自分も関係者だから、と謙遜するダイアナ。気を使わせないのがうまいなあ、とアーネストは感じた。
ダイアナに差し出されたそのメモを受けとり、アーネストは席を立つ。
「それでは、また今日の夜に」
ここまでしてもらったのだから、必ず犯人の居城を特定しなくては。今までに感じたことのないほどの使命感が、アーネストの胸で燃えていた。
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