妖怪の呻き声のように軋んで、扉は開いた。その向こうに佇んでいたのは、あの胡散臭い推理男だった。海軍の象徴であるピーコートを、きっちりと着込んでいる。


「よお。このメモ、返し忘れてたんでな」


 と言って、アーネストのメモ用紙を返した。


「……いや、帰る時に渡されても」


 アーネストは困って言いながらも、その紙切れを受けとる。


「ばァか。口実に決まってんだろ?」


 腹が立った。この男が感情操作に長けているのか、それとも自分が単純すぎるのか、アーネストにはわからなかった。たぶん後者だろうな、と自嘲的に思う。


 口実、ということは、アーネストになにかわざわざ話したいことがあるのだろう。ドア前の階段を下り、個展会場の前でたむろすることにした。窓越しに窺える内部の様子は、先程と変わらずやかましい。声が聞こえなくとも、その喧騒が手に取るようにわかった。


「……何の用だ?」

「話が早くて助かる。……あのさ、兄ちゃん」


 アーネストの頭に手を置いて、金髪をぐしゃりと握り乱す。


「俺の協力者になる気はないか」


 白い歯を見せて、猛禽類のような茶色の瞳が笑った。アーネストは喉の奥で、ごくり、と警鐘を鳴らした。

 男の太い手首を掴み、頭上に置かれた手を除ける。男は困惑したように笑うが、アーネストはその表情が本物に思えなかった。


「なにに協力するんだ?」


 真剣な面持ちを見せるアーネストとは逆に、男はふざけた笑みを浮かべた。視線も常に空中をたゆたっていて、真偽を測りづらい。


「俺の娘が巻き込まれた誘拐事件の解決、だな」


 シンプルかつ、動機づけに十分な理由が含まれた説明だ。娘が巻き込まれたとなれば、事件の解決を望むのはもっともだ。


 しかし、アーネストは不満そうに口を尖らせる。


「ぼくはあなたのように推理なんてできない」


 そう言うと、男はまた笑う。馬鹿にするような笑い方のようにも思えた。


「いや、あんたは推理しなくていい」


 思わずアーネストは、は、と聞き返していた。初対面で、しかも二十以上も年上の人に利くような口ではなかったと、反省してももう遅い。されど、男は大して気にしていないような素振りで話す。


「あんたには、俺の推理をあたかも自分のもののように話す──言うなれば"顔役"をやってほしい」


 男は、節ばった手をアーネストの碧眼へ突きつけた。派手な男だな、と鬱陶しく思った。


「なぜだ?なぜそんな者が要る」


 先程の堂々たる振る舞いを見ていると、人前が苦手だから、ということではないだろう。となると、自分の手柄を総取りさせるような役割なんて必要性が感じられない。


「んー……若さに向けられる賞賛を疑似体験したいから、みたいな?」


 先程から彼は愉快なポーカーフェイスを続けているが、これは明らかな嘘だ。冗談を言って、こちらの追及を防いでいる。

 アーネストは軽蔑するような視線を送って、口を真一文字に結ぶ。男は笑いながら謝り、嘘だって、と白状する。


「まあ昔警察と色々あって、警察に頼ったり一人で解決して突き出したりができねぇんだ。


 そうでなくとも、俺みたいなおっさんより、あんたみたいな、若くてイケメンで、綺麗な発音してる奴の方が信用あんじゃねぇか」


 ハンサムだから、とか発音がどうとか以前に、この男が怪しすぎるのがいけないのではないか。アーネストはそう思ったが、嫌な気はしないので何も言わなかった。


「なあ、頼む! あんたに断られたらまた一からやり直しなんだよ!」


 ──はたしてこれは嘘だろうか、と逡巡した。


 懇願する、といったほどの気迫で頼み込まれては、どうにも断りづらい。そういった心理を張り巡らせてのこの発言なのだろうが、真実が少しでも入っていれば、との願望が過ぎった。


 理性がそれを押しこめる。


「報酬はどうなんだ」


 熱心な男の顔を見るのがいたたまれなくなって、目線を逸らして言う。


 心中、アーネストは報酬関係なくこの依頼を承ける気でいた。なぜなら、男が演説で前に立ったとき──アーネストは感じたからだ。この男は、退屈なこの世界を変えてくれる、と。


「もちろんある。娘と愛車以外ならなんでもくれてやるぜ」


 文字列だけ見れば頼もしいことこの上ないが、この男から発せられるとどうも嘯きにしか聞こえない。


「……承知した。助力しよう」


 顔を上げて感謝しようとするエドガーを遮り、逆接をねじり込む。


「──だが、ぼくは犯罪の片棒を担ぐ気はないからな。留意してくれ」


 警察に頼れないやらなんやらと不穏な発言が続くので、強めに釘を刺す。


 アーネストは相手をどんなに愛していても、『世界中が敵になっても、ぼくだけは君の味方でいるよ』なんていう誓いは絶対にしない。倫理観と情をまったく別のものとして考えているような男だ。


 ふと、その刹那、男の金の目が揺れ動くのをアーネストは捉えた。


「ああ、わかってるって」


 いま、確実に彼は嘘を吐いた。この男への信用が底をついたと同時に、行く末を案じて胃が痛くなった。


 ◇◇◇


「ツインの空室はあるか」


 エドガーは宿に入るやいなや、窓口の係員に尋ねた。係員は突然の問いかけに動揺しながらも、ルームキーを探す。アーネスト自身働いたことはないが、労働者は大変だな、と同情した。


 空室を認めると、アーネストへ確認もせずに宿泊を決めた。別の部屋がよかった、と文句を垂れる暇もなかった。


 エドガーが次、アーネストへ告げたのは、


「一泊五ドルだってさ。割り勘な」


 宿の代金だった。


 宿で腰を下ろすと、エドガーは初めて真面目な話をした。清潔なベッドの上で横になりながら、ではあったが。


「俺の娘、ソフィア・ファーディナンドは、去年の十二月六日の明け方に攫われた」


 彼は起き上がって、懐をまさぐりだした。そして、新聞の切り抜きと、一枚のカードを取り出す。アーネストにそれらを投げ渡すと、説明を始めた。


「どうやらソフィアは、連続誘拐事件に巻き込まれたらしい」


 手元の新聞記事にも、『Kidnappings happen in a row』とあった。しかし事件の規模にしては、その新聞記事は些か小さすぎる気がした。そのことをエドガーに尋ねると、苦い笑いが返ってきた。


「圧力がかかってんだよ。多分あっちはお偉いさん。警察も真正面から突っ込んでいけない相手だろうな」


 多分アーネストを選んだ理由の中には、"あからさまに貴族だから"というのもあったのだろう。

 この世には、"平民だから"上手くいかないことがたくさんある。アーネストはそれを知っていた分、エドガーの苦笑いが悲しく思えた。


 そしてその上──彼は自分を交渉材料にしている。アーネストは、利用されている気がしていたたまれなかった。


「ああそんでな、もう一枚、カード渡したろ。そっちも見てくれ」


 エドガーの言った通りに、アーネストはカードを見やる。至って普通に見える、スフォルツァ版のタロットカードだ。


「ソフィアが攫われた日の朝、俺の車の中に落ちてたんだ」


 誘拐犯が、何か意図して落としたのだろう。知識に貪欲そうなこの男のことだから、そのメッセージ性に強く好奇をそそられたに違いない。


「こいつに、探偵としての俺が惹かれた。普通に誘拐してたら、ここまで熱心になってなかったろうな」

「……娘が関わっているというのに、それはどうかと思うが」


 一セット一ドルそこらのカードに振り回されるのも、彼らしいといえば彼らしい。


 裏になにかヒントがないか、めくってみる。すると、几帳面な字で、「Sep」と書いてあった。


「……『Sep』?九月のことか?」


 だがしかし、攫われたのは十二月だと言っていた。因果関係が見えてこない。


「……普通に考えればそうなんだろうけど、今のところ、『攫われた者と裏の文字のイニシャルがおなじ』っていう共通点しかない」

「他の者のところにも、このようなカードが落ちていたのか」


 エドガーが首肯する。彼にもわからないとなると、アーネストはお手上げ状態だ。


「俺が調べてわかった情報は、攫われた奴の名前、攫われた場所、それと、周囲の評判……くらいか」


 エドガーは匙を投げるように、ベッドへ再び倒れ込んだ。周囲の評判とは、と尋ねると、被害者がどんな人間だったのかの情報、と返ってきた。


 彼らは一貫して、「大人顔負けの知能を持っている青少年」である、とのことだ。


「ソフィアもか」

「おう」


 エドガーは途端に声を弾ませて、ソフィアについて話しだす。シャツの胸ポケットから、一枚の小さな写真を取り出した。


「ソフィアはまだ小さいのに強かで、こんな俺にも文句一つ言わず着いてきてくれるんだ。ほら、アーネストくん、十歳の頃のソフィアだ」


 気が向かないながらも写真を覗き込む。髪色と瞳の色は分からないが、少なくとも切れ長の知的な目は父親似でない。義理のつもりで発した「かわいらしいな」には、少しばかり本音も混じっていた。


 続きを語ろうとするエドガーを後目に、アーネストは大衆浴場へとつま先を向けた。

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