ユナイテッド
夜船
第一編 トランプ・チェイス
1
その日のアリゾナ州は、大雪が降っていた。アーネスト・ベネディクトはトップハットを深く被り、蒸気自動車で宿を探していた。
ふいに、左側の運転席から声がかかる。アーネストほどの歳には出せない、低く掠れた男の声だ。
「アーネストくん知ってるか」
声の主は、今日出会ったばかりの男、エドガー・ファーディナンドだ。厚い紺色のピーコートで、なんとか凍てつく向かい風から身を守っている。
つむじからつま先まで信用ならない要素しかないが、アーネストはとある事情があって協力体制を敷いていた。人並み以上に立つ口が、輪をかけて胡散臭い印象を与える、そんな男だ。
「知らん」
「まだなんも言ってねぇじゃねぇか!」
正直、アーネストは指先の感覚が無くなったあたりから真面目なやりとりを諦めていた。エドガーの悲痛な叫びも、今はなんとも思わない。出会って数分なら、うるさいやらなんやら思っていただろうが。
「この車、最新型をイギリスから輸入してきたんだぜ」
ごおん、と低く
本日最初に乗ったときは、初めての自動車の振動に心動かされた。しかし今、一月の
「……どうでもいいな」
すごい、とも言わず、率直な感想を述べた。だって寒いのだから、仕方がないじゃないか。
エドガーもいいかげん寒さに辟易したのか、「ひどいなぁ」と言ってから閉口した。
「なあ、エドガー」
今本当に重要なのは、車が最新型だとかそんなことでなく。
「アリゾナ州って、こんなに寒いところだったか?」
アーネストの問いに、エドガーはいたって真剣な声音で答えた。
「少なくとも、俺の記憶ではこんな大雪は降ったことねぇな」
この大陸を覆うほどの、大寒波が襲っている、ということだ。
エドガーは寒さの中大声で笑って、陽気に寒さを誤魔化そうとしていた。アーネストは、その能天気さが羨ましい反面、憎らしくも思えた。
どうしてこんな男と出会ってしまったのか、現実逃避も兼ねた追憶を行った。
今朝、アーネストはロサンゼルスまで足を伸ばし、ある画家の個展を見に行っていた。
ベルティユ・ド・フィリドール──言わずと知れたフランスの天才画家だ。彼女はアーネストの崇拝相手ではなかったし、ましてや人生を変えた人物でもなかった。上流階級では、いまフランスの美術が流行りだった。
アーネストの中で、彼女は偉人ですらなかった。話の種、そう言いきれてしまうほどの存在だ。彼女の絵画に、楽しさも何も抱かない。
アーネストは文献をまとめたメモ用紙と睨み合って、意に反する芸術鑑賞をしていた。
── テンペラ画法が用いられており、百年近く経った今でも鮮やかな発色が見られる。
万年筆で書き留めた文字を見て、首を捻った。ここにはフィリドールの絵画しかなく、比較対象がない。百年という期間が絵の具をどれだけ劣化させるのか、アーネストは知らない。
だから──、
「ありゃあ、フィリドールの色じゃねぇな」
という発言の真偽もわからない。
藪から棒に話しかけてきた見知らぬ男に驚いて、アーネストは一歩後ずさった。冷えきって強ばった四肢が、早まる鼓動により熱を帯びる。
「おっ……とごめんよ兄ちゃん。驚かせる気はなかったんだ」
男の、兄ちゃん、とは確実にアーネストへ向けて言っていた。いや別に、とアーネストが返事をすると、「そうか? 驚いてたけどなぁ」と神経を逆なでするような返答をした。
男は四十前半ほどで、浮浪者のように無精髭を蓄えている。しかしそれとは不釣り合いに、長身の躯体に仕立てのいい開襟シャツとベストを纏わせていた。きらりと光る左薬指の銀色が、チープで高貴な雰囲気を醸し出す。
違和感を五体のどこかに潜ませていて、アーネストに言わせれば「不審者」だった。
その不審者は、アーネストの手からメモ用紙をひったくった。ちら、とそれを興味深そうに見たあと、「もらってくぜ」と事後報告をした。
男は前に出て、教会の鐘のごとく大きい声でこう言った。
「あんたたちは、ベルティユ・ド・フィリドールの絵画を見たことがあるか」
訳が分からなかった。
彼女の絵画なら、目の前にある。
そんなアーネストの心を読んだかのように、
「まあもちろん、ある、と答えるだろう」
と言い放った。
理解は程遠かったが、彼は群衆たちへサブリミナル的にこう呼びかけていた。
「言論ショーが始まる」と。
「あんたらの狭い世界を、俺がぶっ壊して広げてやる」とも。
不審感、謎、深遠さ、といったものが人間を惹きつけてやまないのは、頽廃の風潮に覆われたアメリカでも同じだったようだ。
男が言う。
「でもな、これが本物である証明なんて、どこにもない。
あんたらはフランスに行って、直にフィリドールから買い取ったか?違うだろ」
男が、静かに作品紹介の欄へ歩き出す。かつ、かつ、と革靴の音が響く。それが、群衆の張り詰めた静寂をより引き立てていた。
「だが俺は、本物とこれとの色の違いに気づいちまった。──なぜかって?」
革靴の音が止んだ。音の波紋が消えぬうちに、男は続きを述べた。
「“本物”を幾度となくフランスで見てきたからだ」
これは知識人たちの怒りを買っただろうと観衆を見やったが、誰一人声をあげない。この場にいる誰も、自身の経験に自信を持っていないのだ。アーネストが思っていたより、世界は凄いものでもないらしい。
「まず、色の作り方が違う。
作者フィリドールは、膠テンペラを主に取り扱うんだ。膠と明礬水、そして少量の食用油を原料としたものだ」
耳慣れない言葉がいくつか出てきて、アーネストは思わず顔を顰めた。男も自分の難解さに気づいていて、わざと早口でまくしたてているのだろう。自らの頭脳指数をかさ増しするはったりのためだ。
「膠テンペラは、弱点として他のテンペラより亀裂が生じやすいという点がある。
俺が見た記憶では、この『Le
男の指は、絵画を指す。その先の絵画では、白いシャツの肩が丁寧に描かれていた。伸びのいい絵の具で描かれていて、ひび割れは散見されるが剥離まではしていない。
「百年……まではいかないか。七十年くらい……まあそれでも長い時間でな、再現しようとしても出来ないところがあるんだ」
男の喋りが遅くなる。やはりあの早口はわざとだったか、とアーネストは冷静に悟った。他の観客は気づいていないだろう、という優越感にも浸っていた。
「これはわざとジンクホワイトやらペインティングナイフやら、巻き直しやらでひび割れを作ったんだな。本物は塗り重ねと剥離でもっとゴツゴツしてる」
こんなにも専門用語が流水のごとく出てくるということは、この男はきっと美術関係の仕事をしている。アーネストはいつしか、そんな先入観に囚われていた。
「それだけじゃなく、フィリドールの第一の特徴たるウルトラマリンブルーがなってねぇな。
フィリドールは貴族の生まれで、くそ高ぇ本物のウルトラマリンを使えたんだ。でも、ここで使われてるのは、合成ウルトラマリンだな。パクるつもりならケチるなって」
まるで作品にダメ出しをするかのような口調。彼が仮に芸術を専門とする人間だとすると、些か違和感があった。
加えてアーネストは、彼が美術でなく、美術に関する推理を中心に喋っていることに気づいた。肝心の美術の美しさとは何たるか、そういったことには一切触れていないのだ。
アーネストはそれらを鑑みて、主張を転換した。
そう、「美術が専門だから知識がある」のではなく、「全ての分野に対して圧倒的な知識がある」のだと。知識の全貌を想像して、アーネストは勝手に戦慄した。
「さらに、わずかだが日差しに当たって色褪せている。早く乾かすために、外へ出して酸素をたくさん浴びせたんだろうな」
呆れたような口調でそう言い捨てる。
彼の中で推理パートはもう終わったのか、彼は軍服の裾を整えて、目にかかった前髪を分けた。
「俺は警察に頼まれて推理してるわけじゃねぇから、突き出しはしないけど──」
ふとその一瞬、男がどこかを睨んだ気がした。突きつめれば、犯人が分かるかもしれない。
「言っといた方が楽なこともあるもんだぜ、人生はよ」
そう言い残すと男は、楽しそうに個展から出ていった。
しばらくの間は、犯人を探るような沈黙がその場にあった。アーネストも何をするでもなく、息を殺して周囲を窺った。
ほんの少しの勇気があったなら、彼はあの男の背を追いかけていただろう。あの男と話せば、このつまらない美術鑑賞から──否、受動的な日常から抜け出せる気がしたからだ。
半刻にも感じられた静寂を破ったのは、意外な人物の声だった。
「私です。私がやりました」
それは、この個展会場を貸し出したオーナーの男性だった。きまり悪そうに手を上げる様から、こんな手の込んだ盗難を行うところは想像できなかった。ああ人間って怖いな、とアーネストは十八年の人生で初めて感じた。
彼に民衆が集まって質疑応答を始めだしたあたりで、アーネストは馬鹿馬鹿しくなった。ひっそりと輪から抜け、重い扉を開ける。
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