③-5

 大広間に忙しなく人が出入りし、漆塗りの高級そうなテーブルにこれまた豪華な饗応料理が運ばれてくる。季節の山菜の天ぷらや木蘇牛のすき焼き、馬刺し、お造り、お吸い物、小洒落た盛器に乗せられたフキの煮物や小魚の佃煮などの小鉢が各々に用意され料亭の懐石料理のような趣を醸し出している。お客様扱いは恐れ多かったので春枝やジーナ、八柳家の女衆に混ざって料理の準備をしたが下拵えの多さにくたびれてしまった。しかし、台所の女性陣の手際の良さに感心しながら手伝っていたところ「包丁の扱いが上手いね」などとたくさん褒められたので気分は良かった。我ながら単純だと思いつつ心地良い疲労感と達成感に満たされて潔乃は自分の席に着いた。宴会場は男衆が準備してくれた。彦一の隣の席だった。

 全員が席に着いたタイミングで飲み物が注がれた。未成年である潔乃は当然お茶を貰ったが、ちらりと隣の彦一の様子を窺うと、大人たちと同じ透明な液体が用意されていた。お酒だ!

 まさしく「お酒だ!」という顔をして酒がなみなみと注がれた蛇の目の猪口を凝視してしまったため、それに気付いた彦一は決まりが悪そうに猪口を手元へ引き寄せ「年寄りだから……」と言い訳をした。

 全員分の飲み物の用意が終わると一人の高齢の男性が立ち上がった。円窟神社の代表である八柳泰臣たいしん宮司――つまり孝二郎の祖父だ。今は親族や仲間内の集まりであるから神職の装束は着ていないが、黒い着物にどっしりとした佇まいでやはり貫禄がある。八十代とは思えないくらい足腰もしっかりしている。

 泰臣宮司が開宴の挨拶をし、その中で潔乃のことも紹介してくれる。潔乃は狼狽えながらも簡単に自己紹介をした。それから乾杯の音頭を孝二郎の父・和昭かずあきが取る。「乾杯!」という二十名弱の声が同時に発せられて、宴が始まった。

「カァー! やっぱり夏の生酒も旨いねえ! さっぱりしてて肉料理に合うよ!」

「さすがジーナさん酒の味が分かりますねえ~。このお酒限定酒なんですよ。今日のために仕入れておきました」

「あっ彦一! 角煮独り占めするなよ!」

「全員分取り分けただろ」

「そうじゃなくてお客さんにもっと気ィ遣えよ。ほら、伊澄ちゃんが物欲しそうな目で見てるぞ」

「み、見てません」

「………………いる?」

「いいよいいよ、私もらったし! 猪のお肉美味しかったよ」

「……はっ、相変わらずやかましいねえお前たちは」

 それぞれがそれぞれの話題で盛り上がっていて賑やかな雰囲気で宴会が進んでいく。みんな会話が弾んで楽しそうだ。天里ですら普段のしかめ面を多少緩めてご機嫌そうにしている。潔乃はこの場を見渡して、ここに来てよかったと思った。

 不意に、折り曲げた足元に触れるものがあった。不思議に思って視線を落とすと、そこに三匹の丸っこい白毛の生き物がいた。猧子の三兄弟だ。

「あっエノちゃんたち!」

 帽子の猧子が「チチィ!」と一鳴きしてぴょこんと膝の上に乗ってきた。後ろ足で立って鼻をひくつかせている。リボンの猧子も続けてよじ登ってきて潔乃の身体の匂いを嗅ぎ始めた。スカーフの猧子は足元でもたもたとしている。

「かわいい……ご飯欲しいの? あげてもいいのかなあ」

「大抵のものは食べられると思うけど……葱が駄目なんだったかな」

「それ猫じゃねえ?」

 彦一と孝二郎も猧子に気付いて話に入ってくる。潔乃は膝の上の猧子を撫でまわすのに夢中で返答を忘れていた。すると、突然猧子たちがピンと耳を立ててきょろきょろと辺りを警戒し始めた。何が起きたのか分からないでいると彼らは潔乃の膝から飛び下り部屋の外へ逃げて行ってしまった。猧子が逃げた方向の反対側へ視線を向ける。中型犬ほどの大きさもある白い猫が優雅な足取りでこちらへ近付いてくる様子が見えた。猫と言っても一目で普通の猫ではないと分かった。緋色に染まった耳と尻尾の先が歩く度に炎のように揺らめき、火の粉を宙に散らしている。口も普通の猫より大きくにんまりと笑っているようだった。そして何よりの特徴が、荷車を背負っていることだ。この猫はきっと――

「あ、火車」

 彦一が猫の姿を確認するなりそう呟いた。火車と呼ばれた猫は潔乃には目もくれずスタスタと彦一の側へ寄った。彦一が手を差し出すと火車は手の甲辺りにすりすりと頬を寄せ、それに合わせて彦一も優しい手つきで火車の頭を撫でる。その様子を思わず見つめていると火車が視線だけをこちらにやって得意気に鼻を鳴らした。勘違いに決まっているのだが、優位性を誇示された気がする。

 気が付くと中庭にたくさんの光が集まっていた。宴会場の障子は中庭側が開け放たれており整然と手入れされた庭がよく見える。赤や橙の他に青紫、白黄色の光などもある。白黄色の光が広間にふわふわと入ってきて姿を小さな人型に変えた。籠を被った着物姿の子供や傘を差した地蔵、タンポポの綿毛のような人型でないものもいる。

「酒につられて小さな神々がやってきたね」

 道祖神である地蔵に酒を酌みながら天里が独りごちた。突然の来客で宴会場はいっそう賑やかになった。潔乃は中庭の灯に目を奪われていた。ゆらゆらと左右を行き交った光の揺曳が静かに重なり合っては消え、一つに集まっては散り、一列に並んだかと思うと別れて、光の踊りがしばらく続いた。たくさんの魂が、神々の饗宴を彩っていた。


 宴会の喧騒を背中に感じながら潔乃は暗くひっそりとした廊下を奥へ進んでいた。広い屋敷の中を探索するように歩いていく。騒ぎ声が遠ざかってほとんど聞こえなくなった頃、道場へと続く渡り廊下の途中に、彦一の姿を見つけた。

(いた……)

 いつの間にか大広間から姿を消した彦一を探しに宴会を抜けてきた。別にこれと言って用はないのだがなんとなく気になって探しに来てしまった。でもせっかく見つけたのに、声を掛けられないまま廊下の角からしばらく彼の様子を窺った。

 彦一は毎朝アパート近くの道場で弓の稽古をしてから潔乃を迎えに来ているらしい。弓道の賜物なのか背筋がしゃんと伸びていて佇まいに凛とした風格がある。今日は甚平を着ている。珍しく薄着だから体格がよく分かってしまってどぎまぎした。大柄というほどではないが背が高く引き締まった体つきをしており、逞しい腕とか大きな手とか節ばった長い指とか、そういう男の子だなあと実感する部分につい目がいってしまう。

 それに今日は……帰宅してからずっとマスクをしていない。もう三か月以上の付き合いになるのに素顔を初めて見た。……いや厳密に言えば猿に襲われた自分を助けに来た時も素顔だった気がするが、あの時は混乱していたからよく覚えていなかった。

 改めて容貌を眺める。傷があるわけでも口が裂けているわけでもない。精悍で整った顔立ちをしていた。短めの黒い髪、きりりとして形のいい眉に鋭い眼光、鼻筋の通った横顔も引き結んだ口元も、想像よりもずっと――

「……なんで隠れてるの?」

 虫たちの気配を含んだ夏の夜の静けさの中に、耳心地の良い声が響いた。心臓が跳ねて思わず身を引っ込めたが無意味な事をしていると観念して潔乃は廊下の陰から姿を見せる。しばらくここにいたことは気付かれていたようだ。途端に気まずくなって躊躇いがちに口を開く。

「ご、ごめん、えっと、話しかけていいのかなって……あの……なにしてるの……?」

「酔い覚まし」

 渡り廊下の片側は山に面していて、岩肌から染み出た水が小さな沢を作り廊下の下を通って庭の池に流れている。欄干に手を掛けて沢の方を眺めていた彦一が「こっち」と言って手招きをした。

 宴会が始まる前に風呂を済ませたので潔乃は今楽な格好をしている。何も考えずに、白地にポップなグラフィティのロゴが描かれた大きめのTシャツと灰色のショートパンツという適当な部屋着を持ってきてしまった。もっときちんとした服を選べば良かったと今更後悔する。潔乃はショートパンツの裾を引っ張って少しだけ下げた。

 彦一に近寄ると彼は沢の方を指差した。潔乃はそちらへ顔を向けて目を見張った。淡く小さな黄緑色の光がぽつぽつとか弱く明滅していた。蛍だ。水辺に集まった十数匹の蛍が細い糸のような光の筋を曳いて暗闇を優しく照らしていた。宴会場から見た光の舞とはまた違う、沁み入るような灯りだった。

「わぁっ……きれい……! 蛍ってまだ見られるんだ……! こんなに近くで見たの私初めてっ……」

 興奮して胸の前で手を合わせながら彦一に視線を戻した。彼は黙って潔乃を見つめていた。少しだけ目を細めて、口端を僅かに上げて。初めて見る彦一の和らいだ表情にどきりとして思わず顔を背けてしまった。心臓が高鳴って喉まで痛くなってくる。鼓動が床を伝って相手にも響いてしまうのではないかという妙な心配をした。

 今の彦一はいつも以上に口数が少ない。しかし、先程から短い言葉しか発していないのにとげとげしい感じはなく、むしろリラックスしているように見える。木陰で休んで息をしている獣の穏やかさを連想した。あるいは獣の姿を知っているからそう見えるだけかもしれないが。

「彦一君、今日は、」

「なに?」

「マスクしてないんだね」

「……」

「どうしていつもマスクしてるのか、理由を聞いてもいい……?」

「…………」

「あっ、話したくないなら別に」

「犬」

「えっ?」

「……って言われたから」

 それから彦一はぽつりぽつりと話し始めた。マスクをし始めたのは比較的最近のことだと言った。

「何年か前、境内を掃除してたら、親子連れの参拝客に話しかけられて、まあ手洗いの案内だったんだけど、……その時、子供に指差されて『わんちゃんみたい』って、言われた」

 喉に息が引っかかるような、ぶつ切りの話し方をする。珍しくぎこちない口調だ。

 子供が「わんちゃんみたい」と指摘した理由が潔乃にはすぐに分かった。彦一は大口を開けて喋らないが、それでも通常より大きな犬歯が口内から覗いて見えていた。確かに人の犬歯というには鋭すぎるがそこまでおかしいものではない。でも彦一にとっては重要なことで、それを見られるのが嫌でマスクをしていたようだ。神様の力を抑えているとか、そういう人智を超えた事情を想像していたのにあまりにも可愛らしい理由だったので潔乃は固まってしまった。無意識に口元が緩んでいた。

「…………」

 彦一が眉をひそめて不服そうな顔をしている。半眼でこちらを見つめ口を固く引き結んでいた。拗ねている気がする。

「ご、ごめんね! 笑うつもりはないのっ。ちょっと意外だっただけで。……言い辛いこと聞いちゃったね。教えてくれて嬉しい。ありがとう、彦一君」

「……」

 続けて、変じゃないよ、似合ってるよ、と付け加えたが彦一はそっぽを向いて喋ろうとしない。怒っているというより恥ずかしがっているといった様子だ。その態度が珍しくて勝手に嬉しくなってしまった。彦一の内面を窺い知ることができたと思うと何か温かいもので心が満たされた。

「それにしても、彦一君も外見のことで悩むことあるんだね。親近感湧いちゃった」

「……伊澄さんもあるの?」

「たくさんあるよ! 私陸上やってるから足が太くて……」と、そこまで言って口を噤んだ。つい調子良く明かしてしまったが、男の子に話す内容ではなかった。

「そんな風には見え……ああ、いや」

 彦一も何かを言い掛けてやめてしまった。そのまま二人とも黙りこけてしまい、何とも言えないくすぐったい空気が漂った。いつの間にか増えていた蛍の光が二人を仄明るく照らす。玄狐に初めて出会った時と似ていると思った。子供の頃の朧気で鮮明な思い出。大切な記憶。あの時と今を重ね合わせて不思議な感覚を覚える。再会した神様が隣にいて、体温を感じるくらい近くで、自分と同じように息をしている。

 言いたくて言えない言葉を吞み込んだまま、しばらく蛍の幻想的な光を眺め続けた。


 潔乃にはもう一つ、人には言えないコンプレックスがあった。生まれた時から胸の中心に痣があるのだ。こちらの方が口を突いて出なくて良かったと思う。成長するにつれて徐々に薄れてきたものの、入浴した時などのように、体が温まると痣が浮き出てきてしまう。魂力の高さと何か関係があるのかと思いこっそり天里に相談し、その後京からの使者と医師団を呼んで診てもらったのだが特に問題は見つからなかった。さらに詳しく調べるには長期的な入院と検査が必要であると告げられたが、慎重な判断が必要だとして、経過観察という形をとることになった。それが五月下旬の話だ。

 そこから三か月近くが経った今でも別段変わった事はなく、このまま何事も起こらず平穏に過ぎればいいと願っていた。五月の襲撃事件も本当は首謀者なんていなくてもう終わった話なのではないかと思えてくる。だいいち、上級官吏であるという陰陽術士が関わっているとしたら潔乃が上から正式な保護を受けていることを知らないはずはないので、あえて潔乃を狙うというのも考え辛いし、わざわざ警備が強まる厄年を選ぶ必要もない。それに本気で心臓を奪うつもりなら入念な計画を練って初手で確実に仕留めるべきだと思う(自分で言うのもなんだけど)。それを、玄狐に対抗できるとは思えない猿たちを使い、挙句失敗し、何か月もこちら側に調査する時間を与えるというのは……作戦にしたって意図がよく分からない。

 静かな日常の陰でいつもうっすら不気味な気配が鳴りを潜めている気がする。その正体も目的も分からないからあらゆる可能性を考慮して天里たちは手を尽くしてくれているのだ。みんなを信じていればきっと大丈夫。首謀者なんて怖くない。このまま時間が過ぎて厄年が終われば今まで通りの生活が戻ってくるはずだ。……でもそうなったら、講社の人たちと、彦一との関係は断たれてしまうのだろうか。そんなのは嫌だった。平和な日常を望んでいるはずなのに、いずれ来るはずの別れの時を思うと心が重苦しく沈んだ。

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