③-4

 四百年前に整備された五街道の一つである中山道、通称木蘇路きそじ。その木蘇路の宿場町から離れた場所に龍麟岳を一望できる高原がある。この高原でジーナが経営するカフェに、潔乃は遊びに来ていた。

「コーヒーでいいかい? ブラック? それともミルク入れる?」

「そのままでいいです。ありがとうございます」

 木製で温かみのある内装が落ち着く綺麗なカフェだ。窓から差し込んでくる陽の光と天井の控えめなライトが上手い具合に重なり合って心地良い。普段はジーナが作ったパンやクッキーが販売スペースに並んでいるらしい。お盆の間は店を閉めているが、今日は潔乃のために特別に開けてもらった。

「すごく素敵なカフェですね! 居心地よくて。おしゃれな雰囲気がジーナさんと合ってるし」

「そう? ありがとう、嬉しいよ。誘った甲斐があったね」

 カウンターの向こうでコーヒー豆を挽くジーナから気持ちのいい笑顔を向けられる。何度見ても人を魅了する笑みだ。美人は三日で飽きるというのは絶対に嘘だと思う。

 てきぱきと流れるように豆を挽いて、お湯を注いで、蒸らす。ジーナはそうしてできあがったコーヒーを潔乃の前に差し出した。香ばしいナッツのような香りがする。本当はコーヒーの味が苦手だが、背伸びしてブラックを頼んでしまった。潔乃は意を決してカップに口を付けた。

「……おいしい……」

 自分の想像する味とは全く違っていて思わず感嘆の溜息が零れた。酸味や苦味がきつくなく飲みやすい。豆から挽いたコーヒーを初めて飲んだが、その味わいに印象がガラッと変わるほど感動していた。

「こんなに美味しいコーヒー初めて……」続けてもう一口味わう。

「私実は……コーヒー苦手だったんですけど、これはすごく美味しいです。思い切って飲んでみて良かったです」

「でしょー? アタシ五十年くらいこの場所で店やってるけどコーヒー苦手な子が好きになっていく様子を見ると嬉しいんだよね」

「ご、五十年……?」

「そうだよ。子供の頃からの常連さんなんかは孫連れてきてくれたりするよ」

 あまりにもあっけらかんとしているジーナの態度に、驚いている自分の方がおかしいのではないかという気がしてくる。ジーナの年齢はどう多く見積もっても三十代前半くらいとしか思えない。ずっとこの若々しい姿のままでいて、周りから不審に思われたりしないのか……でもきっと、地元の人々はそんなこと大した問題に感じていないのだろう。

 潔乃の戸惑いを察したのかジーナは「心配しなくても地元の人間はだいたいアタシら夫婦のこと知ってるから大丈夫。それにアタシらには名前があるから。人間と同じ暮らしだってできるんだよ」と言ってからりと笑った。明るくて堂々としていて太陽みたいな人だ。ジーナならどこへ行っても受け入れてもらえるだろうと納得した。潔乃自身、ジーナに対して憧れのような心情を抱いていた。

「そんなことよりもさ、どう? 彦一とは上手くやってる? アイツ無愛想だからやり辛いだろ」

 カウンターに肘をついて潔乃の顔を覗き込みながらジーナがそう尋ねた。彦一は今カフェの裏手の倉庫の辺りで薪割りをしている。平野部と比べて冬が早く訪れる高原では、暖炉に使用する薪を夏の間に大量に準備しておかなくてはならない。彦一は薪割りの報酬として、猟師であるジーナの夫が獲ってくる猪肉を貰うという約束を交わしていた。本当に猪肉目当てだったと分かって潔乃は少し笑ってしまった。以前好きな食べ物を聞いた時に端的に「肉」と答えていたから、好物のために意欲的に動いている彦一を見られて新鮮な気持ちになった。普段淡泊な彦一からなにか意志のようなものが窺えると、嬉しい。

 潔乃はこの場にいない彦一のことを思いながらジーナの問いに答えた。

「全然そんなことないです。彦一君親切だし話しやすいし博識だし……あっ、でもテレビのこととか知らなくてたまに的外れなこと言ったりするんですけど、そこも面白くて……あと、雰囲気が落ち着いてるから気を遣わなくていいし、一緒にいると安心するというか……」

 彦一のフォローをしようと思い自分が彼に好感を抱いている部分をつらつらと羅列して、直後にしまったと思った。言い過ぎた気がする。はっとしてジーナに視線を合わせると、彼女はにっこりと意味あり気な笑みを浮かべていた。途端に羞恥心で顔が熱くなる。

「なるほどなるほど。上手くいってるなら良かった。アイツも潔乃の前ではお行儀よくしてるんだねえ。てか、彦一ってちゃんと学校生活送れてるのかい? 想像つかないんだけど」

 まだ赤みが引かない頬を誤魔化すように平静を装いつつ会話を続ける。

「が、学校生活かあ……彦一君が誰かと親しく話してたりするところは見たことないですね……あ、成績はすごく良いですよ。この間テストの結果見せてもらいましたけど、英語以外私よりはるか上だったなあ」

「ふーん……そういやアイツ、やることないから勉強してるみたいなこと言ってたっけ。つまんないよねえ。せっかく高校生になれたんだからもっと色んなこと楽しめば良いのに。修行僧かっての」

 ジーナの物言いがおかしくてクスクスと笑うと、つられてジーナも笑った。他人の噂話に花を咲かせるのは気が引けたが、誰かと彦一のことをこんな風に話すのが初めてで楽しくて、ついつい気持ちが乗ってしまう。

「でも確かに、部活とか委員会の仕事に熱心な彦一君って想像つかないかも……学校と彦一君って意外な組み合わせだったんですね。……そういえばジーナさんは、学校には行ってたんですか? どんな場所でどんな風に育ったんですか?」

「おっ! 聞きたい~?」

 ジーナはフフっと口元を綻ばせると、

「アタシはねえ……見りゃ分かるけどこの国の生まれじゃないんだよね」

 百年以上前に、自分は夫のイオシフとともに大陸から逃亡してきたのだと告げた。

「えっ……?」

「人間の姿に変われる力を持ったのは天里に出会ってからでさ。アタシも旦那も最初は故郷で狼として生きてた。でも、色々あって人間と衝突して、追われて、最終的にここに辿り着いたんだよね」

 何でもないように話を続けるジーナの顔を見ることができなかった。逃亡してきたということは自分たちの生まれ故郷にいられなくなったということだ。なんて軽薄な質問をしてしまったのだろうと、潔乃は胸中で自分の浅はかさを恨んだ。

「あ、悪いことはしてないよ? ただ、怪我して動けなくなっちゃってさ。それを地元の猟師とか獣医が助けてくれたんだ。普通凶暴な狼を保護しようなんて考えないよねえ。後で聞いたらアタシらが言葉のようなものを発したから神聖な生き物だと思ったんだって。それだけであの人たちは……アタシらを見捨てなかった。その後は村長なんかも協力してくれて匿ってくれて、天里を紹介してもらって……長い年月を経て今に至る、って感じだね」

 ジーナは潔乃の顔を覗き込んで破顔した。「そんなに辛そうな顔しないでおくれよ」

「身の上話はどうしてもしんみりしちゃうね。でもアタシが何のために講社の活動をしてるのか知っておいてほしくてさ。人間を恨んでいたけど、人間に救われもした。今はこの暮らしを気に入ってるんだ。結局アタシは人間のことが好きなんだよ」

 そう言って珍しく照れくさそうに笑うジーナの表情を、今まで見たどの笑顔よりも魅力的だと思った。潔乃はカウンター越しに彼女に飛び付いた。ジーナは「なんだい甘えんぼだねえ!」と言って楽しそうに笑ったが、次の瞬間には声を潜めて、

「……潔乃。彦一のことだけど。お願いがある。アイツのこと、潔乃が見ていてあげてほしい」

「……?」

 急に彦一の話に戻ったことに困惑して、潔乃はジーナの胸から離れて彼女を見上げる。

「彦一はさ、強いだろう? 動じないし躊躇いがないから危険な仕事も平気な顔してやってのけるんだ。でもさ、強いんだけど、アタシからしたらなんだか危なっかしく見えてね。どうせ死なないから自分はどれだけ傷付いてもいいと思ってるふしがある。アイツの狩りを見てると分かるんだけど、普通はあんな風に痛みも死も恐れない危うい戦い方はしない」

 水晶のように輝く青灰色の瞳に真剣な色を乗せながら、ジーナは潔乃の顔をじっと見つめる。気迫に圧されてたじろぎながらも、潔乃は秘かに感じていた懸念を躊躇いがちに吐き出した。

「それ、は……分かる気がします。彦一君いつも冷静なんですけど、でもたまに……自分のことに無関心っていうか、痛みを避けようとしないようなところがあって……そこは私も、心配で」

「……そっか。潔乃もそう思うんだ。アタシらは付き合いが長いから、あのふてぶてしい態度であしらわれちゃうんだけどさ。潔乃の言うことは素直に聞いてるみたいだし、アンタが彦一にもっと自分を大切にしろって、分からせてやって」

「……はいっ」

 役割を託されたこと、しかもそれが彦一のことであるというのが余計に嬉しくて、その気持ちを噛みしめるように力強く返事をした。自分は何もできないなんて思っていたくない。誰かの役に立ちたい。講社の人たちの……彦一君の。

 肩に置かれた手の優しさと強さを感じながらジーナと顔を合わせていると、店の外から車のエンジン音が聞こえてきた。駐車してドアを開ける音がした後に話し声もした。おそらくジーナの夫が帰ってきて彦一と言葉を交わしているのだろう。

「旦那さんですよね? 私出迎えてきます!」

 カウンターの椅子からぴょんと飛び降りて小走りで出入口へ駆け寄った。初めて会うジーナの夫に想像を膨らませて胸が躍る。ジーナさんの旦那さんなんだからきっと優しくて気さくで朗らかな人に違いない――

 ドアを開けると、そこには壁があった。

 ぎょっとして目の前の壁をよく見るとそれは壁ではなくたくさんの収納がついたベストだと分かった。服を辿るように慎重に視線を上へやると、こちらを見下ろす獰猛な熊と目が合った。

「ひっ……」

「……ゆっくりしていくといい」

 獣の唸りのような低く重い響きを持った声が頭上に降りかかる。声の主は壁でも熊でもなく、ダークシルバーの髪を後ろへ撫で付けた無精髭の大男だった。彫りの深さのせいで目元に影が落ちそこから射貫くような鋭い眼差しが覗いている。男はいかめしい顔つきを崩さず、そのまま店内へ入ってきた。慌てて横へ避ける。ヒグマかグリズリーにでも睨まれたような気持ちで放心していると、

「あっはっはっ! 傑作だねえその反応!」

 カウンターの奥で腹を抱えてジーナが大きな笑い声を上げた。猟銃とクーラーボックスと荷物を抱えた大きな背中が店の奥へ入っていく様子を見守りながら、潔乃はしゅんと肩を落とした。挨拶できなかった……

「ジーナ。頼まれていた分が終わった」

「ありがとう、助かるよ。これでこの冬は凍え死なずに済むね」

 ジーナの夫、イオシフに続いて彦一も店内へ戻ってきた。たぶんイオシフの後ろにずっと居たのだろうが、彼の身体が大き過ぎるために完全に隠れてしまっていた。彦一も体格は良い方であるはずなのに、イオシフと比べると華奢に見えるくらい彼は立派な体躯を持っていた。広々としたカフェの入口が埋まるほどの大きさだから身長は二メートル以上あるだろう。狼というより熊なのでは……という印象が頭から離れなかった。

「伊澄さん」

 失礼な態度を取ってしまったことに落ち込んでいると彦一が声を掛けてきた。じいっと目を合わせてくる。

「猪の肉食べたことある?」

「ない、かな。でも興味はあるよ。食べてみたい」

「そっか。苦手な人もいるけど、しっかり血抜きをすれば臭くないし、美味い。今日の夕食に出してもらうから伊澄さんも食べるといい。今イオシフに切り分けてもらってる。イオシフに任せれば大丈夫、美味い」

 表情筋は相変わらず動かないが心なしか普段より早口で目を輝かせているのが分かる。好物を前に高揚している彦一に思わず口元が緩んでしまってそれを誤魔化すように手で口を覆った。

「さあ今日は宴会だよ! 春枝たちが準備してるだろうから、早く持って行ってやろう。潔乃はゲストなんだから物の怪どものオモテナシを覚悟しておくんだね!」

 ジーナが上機嫌な声を上げて出掛ける準備を始めた。今晩は講社や八柳家の人間が集まって八柳邸で宴会が開かれる。場違いに思って恐縮するが、それでも楽しみであることに変わりはなかった。

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