②-5
全ての試合が終わった頃には、時刻は夕方五時を回っていた。閉会式を終え生徒たちやスタッフが器具を片付けて陸上のトラックは元の綺麗で何もない空間に戻った。
松元高校陸上部の面々が集まってミーティングをしている様子を横目で眺める。インターハイへ出場できる生徒は男子に数名、女子は一人もいなかった。潔乃の記録は二メートル九十センチで、惜しくも五位だった。
ミーティングが終わって解散し、それぞれが配車やバスで帰ろうと支度を始める。競技場の出入口からぞろぞろと出てくる人々の顔を観察すると、満足気に笑っていたり悔しんでいたりそれを慰めていたり、みんな疲れているがどこか充実した表情をしている。
今しかない時間を大切に生きている感じがする。俺には縁のない世界だ。
そんな冷めた視線を巡らせて、彦一は人ごみの中から潔乃の姿を探した。一つ伝えておかなければならないことがあって彼女を待っていた。
出入口からチームメイトと共に歩いてくる潔乃を見つけた。どう声を掛けたものかと思案しているとこちらの姿に気付いた潔乃が友人らに一言二言断りを入れて駆け寄ってきた。
「彦一君、こんな時間までありがとう」
彼女の表情はとても晴れやかだ。表面的にはそう見える。
「……試合、残念だった。今日はなんていうか……集中力が削がれることもあったし」
この場に相応しい言葉が見つからない。人心の微妙な揺らぎに疎い自覚があるので余計な発言をしないよう慎むべきか。
「あの子のことは関係ないよ。単純に私の力不足」
潔乃が困ったように笑った。練習中に親子と彦一が席を立つ様子が見えたので追い掛けて、それであの一件に巻き込まれたそうだ。戻った時には試合が始まっていて危うく失格になるところだったらしい。
潔乃がまた来年頑張るねと言って、それから今日のことで重ねて礼を言うのでそんなに感謝しなくてもいいと断った。
「……でも、守ってもらうのが当然だと思いたくないから、お礼を言いたいの。言ってもいい?」
食い下がられるとは思っていなかったので咄嗟に言葉が出てこなかった。こちらの反応をおずおずと窺う瞳と目が合って思わず視線を逸らした。控えめなのに芯の強そうな瞳だった。
「……分かった」
そんなことよりも伝えなければいけない事がある。彦一は少女に取り憑いていた癇癪虫が通常のものより大きかったという事実を話し、
「伊澄さんにとっては酷だけど、君の魂力が周りに影響を与える可能性がある」
天里から聞いた状況を伝えた。潔乃は明らかに動揺して俯いた。
「私やっぱり……厄年が明けるまで神社に篭ってた方がいいのかな……」
「……それも一つの選択だけど、伊澄さんにはできるだけ普通の生活を送ってもらいたいと俺たちは考えてる。不安に感じるだろうけど、何かあっても大丈夫。俺が側にいるから」
自分だけならまだしも、周りに危険が及ぶかもしれないと分かったら自分の生活を犠牲にしたくもなるだろう。でもそれは最終手段だ。一人の人生も歪ませないよう講社は存在している。
「そ、それじゃあ……お願いします……」
躊躇いがちにぼそぼそと呟くので不思議に思って彼女の表情をまじまじと見る。相変わらず俯いたままだが顔が赤くなっていることに気が付いた。
……あ。しまった。
孝二郎に安心させろだの優しくしろだの散々言われていた手前いい加減な対応をするわけにもいかず、自分なりに気を遣ったつもりなのだが、言葉の選択を間違えたかもしれない。同年代の男から自分を守る旨の宣言をされたら困るだろう。こんなことなら見た目が年寄りの方がやりやすかった気がしてくる。
彦一は微妙にむず痒い感覚に陥って次の話題を探した。すると突然潔乃に手を取られた。
「怪我!」
右手の側面を見て焦った表情を浮かべている。そこには二階から落ちた時に壁で傷付けた跡が残っていた。
「手当てしなきゃ!」
「いい。もうほとんど治ってる」
皮膚が毛羽立つように細かく捲れ肉が見えている。血はもう止まって赤黒く変色しているがじゅくじゅくとしている部分もあって痛々しい。彦一は左手で傷を隠した。
「怪我したって別にいい。俺は普通の人間と違って怪我してもすぐ治る」
「すぐ治るからって傷付いていいわけじゃないよ」
何故か怒ったような少し強い口調で諭された。二の句が継げず唖然としていると潔乃は「救護室にまだ人が残ってるかも」と言って彦一の手首を掴んで引っ張った。彼女に手を引かれて大人しく付いていく。自分の手よりも細く小さいその手を、何故か振りほどくことができなかった。
救護室の備品を使わせてもらって潔乃が包帯を巻いてくれた。まだ膿んでいた傷が真っ白な包帯に赤い染みを作った。痛みはまだあるが、今日中には治るだろう。
「ありがとう」
礼を言うと潔乃ははにかんで笑った。笑ったり、悲しんだり、照れたり。自分と違って感情表現が豊かだ。まだ二週間程度しか直接的な関わりがないがだんだん感情の変化が分かるようになってきた。この先また違った表情を見ることもあるのだろうか。
「……あの時、」彦一は気になっていたことを何気なく口にした。
「なんていうか……意外だった。飛び出すと思ってなかったから。結構大胆だなと」
潔乃は何のことか分からないといった顔で首を傾げたがすぐに合点がいったようで、
「う、うん。彦一君がいるから、大丈夫だと思って」
「……そこまで信用してもらえてるとは思わなかったな」
「それは……」
救護室のあまり座り心地の良くないパイプ椅子に腰を掛けたまま膝を突き合せている。潔乃は腿の辺りで両手をぎゅっと握りしめて絞り出すような声で答えた。
「彦一君は、私が人生で一番怖かった時に、助けてくれた神様だから……」
俯いているので表情がよく分からなかった。不思議だった。なんで言い辛そうにしているんだろう。
それを理解したくて彼女の言葉を頭の中で反芻しようと試みたが潔乃が慌てて話を続けたので思考が遮られてしまった。
「で、でも彦一君がいるんだから私が駆け寄る必要なかったよね! 間に合うと思ったんだけど結局落ちちゃって……。余計なことして、迷惑かけてごめんなさい」
「いや、俺は伊澄さんを守ることを優先して出遅れた。助けられはするだろうけど怪我をさせる可能性はあった。あの子が無傷で助かったのは伊澄さんのおかげだよ」
申し訳なさそうな顔をする潔乃を励ました。本心だった。あの場面で即座に動ける勇気は誰にでもあるものではない。
褒められて恥ずかしそうにしながらも、潔乃は今日一番の笑顔を見せた。
帰りのバスの中。通り過ぎていく風景を窓から眺める。太陽の残していった金色の粒子が山間にきらきらと降り注いで、その眩しさに思わず目を細めた。疲れたのだろう、隣でこくりこくりと舟を漕いでいた少女の頭が不意にこちらへもたれ掛かってきた。軽くて細い(彦一に言わせれば触れるだけで壊れてしまいそうなくらい華奢な)彼女の身体を支えるなんて容易い。彦一は彼女が起きないようにそのまま肩を貸した。
もうすぐ薄紫の帳が下りてくる。普段は眠りの浅い自分がこの時だけは身体の深いところから滲みだしてくるような眠気に襲われた。彦一は彼女の体温を半身に感じながら、重くなった瞼を閉じた。
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