②-4

 五月の最終週。金曜日から日曜日の三日間に渡って陸上のインターハイ県予選が行われる。場所は松元平まつもとだいらと呼ばれる広い平地に建てられた陸上競技場で、県中央地区の高校生にとっては馴染み深い運動場だ。潔乃が出場する種目である女子棒高跳びは三日目の最終日に決勝が行われる。

 競技場の周囲で準備運動やストレッチをしていると、県中から集まった高校生たちとすれ違う。リラックスしている者もいれば真剣な表情で入念にスタートの練習をしている者、監督と生徒が輪になってミーティングをしている様子も見える。夏に地域ごとに開催される記録会などを除けばこの大会で引退する三年生も多いので、特に三年生からはピリピリとした緊張感を感じる。

 棒高跳びの決勝は十一時からだ。朝の開会式が終わってそれまではウォーミングアップをしたり仲間の応援をしたり、比較的自由に過ごせる。木々の間を抜けるように作られたランニングコースを走り競技場へ戻ってくると、自動販売機で飲料を選んでいる一人の男子生徒の姿が目に入った。

「彦一君!」

 息を整えながら彼に近付く。呼び掛けに気付いた彦一がペットボトルを片手にこちらへ振り向いた。

「お疲れ様」

「来てくれてありがとう。休みなのにごめんね」

 潔乃が謝ると別段気にした風もなく彦一は首を小さく横に振った。マスク姿に学生服という普段と変わらない出で立ち。私服を見たことがないがもしかして持っていないのだろうか(服装に頓着しなそうではある)。

 潔乃が外出する時は護衛役として常に彦一が傍にいる。周りに悟られない場所にいるから気にしないでと言われたが無視するのも薄情だしモヤモヤするのでできるだけ普通に接したいと潔乃は思う。

「決勝は何時から?」

「十一時からだよ。それまではゆっくりしてようかなと思う。もう少ししたら中に戻るけど」

「そう。俺は観客席で見てる。頑張って」

 少しだけ言葉を交わしてそれぞれの場所へ戻ろうとした時だった。近くから耳をつんざくような喚き声が聞こえてきた。

「――んぎゃぁあああああああ‼」

 驚いて声のした方へ顔を向けると幼稚園児くらいの小さな女の子が道の真ん中で仰向けになって手足をばたつかせていた。口からは異常なくらいの大きさの叫び声が絶えず漏れ続けていて、このままだと喉がどうにかなってしまうのではないかと心配になるほどだ。女の子の母親と思われる女性がおろおろとして必死に我が子を抱き寄せようとするが女の子は力任せにそれを振りほどいて暴れている。気が付くと涙が混じった声で叫んでいて、一体何がそこまで気に入らないのか分からないがその様子があまりにも痛々しくてこちらまで悲しくなってきてしまう。

癇癪虫かんしゃくむしだ」

 彦一がぼそりと低く呟いた。険しい表情で女の子の様子を見つめている。

「子供に取り憑いて夜泣きとか癇癪を起こす虫だ。あれくらいの年齢の子にはよくあることだけど……これはちょっと異常だな」

 女の子の口元をよく見ると、何かが蠢いているのが分かった。半透明で黒っぽい紐状の物体が口の中からもぞもぞと触手を伸ばしている。

(――!)

 母親も、騒ぎに気付いて足を止めている通行人もそれが見えている様子はない。潔乃と彦一だけが認識しているようだ。天里の言っていた〝見えるようになる〟というのはこういうことか――

「どうにかしてあげられないかな……」

「無理やり引きはがすのは得策じゃない。七歳以下の子供は生まれた時に神の子として受けた加護が残っているから余計なことをすると魂力に悪い影響を及ぼす可能性がある。これは自然の摂理みたいなもので、癇癪虫は誰にでも憑くししばらく放って置けば勝手に消える」

「そうなんだ……じゃあせめて症状を和らげてあげられないかな? 講社の人たちがついててあげれば何かできることが……」

「……たぶんあの子は保護対象にはならないな。蟲憑きの子供なんて数えきれないくらいいるから」

「そう……」

 未だに泣き叫び続けている女の子の痛ましい様子に胸が苦しくなる。どうすることもできない無力感とある種の後ろめたさが入り混じってほとんど無意識に言葉が口から漏れた。

「あの子には誰もいないんだ……私には彦一君がいるのに」


 しばらく少女の様子を見守った後、潔乃は準備運動に戻った。後ろ髪を引かれるような気持ちだったと思う。立ち去るときに辛そうな表情をして少女のことを見つめていた。

(……)

 不思議なことに、潔乃が立ち去った後少女は突然泣き止み、母親の腕の中で静かに息をし始めた。まだしゃくり上げてはいるが随分落ち着いたようだ。母親の方がむしろ泣きそうな顔をして少女の華奢な体を懸命にさすっている。

 彦一は意識を集中して頭の中で天里に呼び掛けた。


 天里、視てるか。

 ああ視ているよ。


 すぐに返事があった。天里の千里眼は任意の領域を俯瞰して見られる能力だ。同時にいくつもの場所を覗くと解像度が下がるが、一つだけであれば人間の細かい表情まで確認することができる。また、天里を通して仲間たちと意思の疎通ができるため、狩りの際には重要な司令塔の役割を担っている。


 癇癪虫が突然暴れ出した。周りに異変はないか。

 周囲に怪しい気配はないよ。気界きかいの乱れの影響でも術者の仕業でもない。……考えられるのは……

 ……伊澄さんか。

 ……その可能性は高い。彼女が近付いた途端騒ぎ出して、離れたら鎮まったからね。しかし蟲に影響を与える程の魂力というのは例がないね……高位の術士ならまだしも、一般の人間の器では考えられない。彼女は一体……何者なんだ。


 珍しく天里が困惑している。天里は潔乃が誕生してからずっと彼女の魂力を観測し続けているが、驚くことにここ二週間程で急激に魂力の値が上昇したらしい。今は落ち着いているが原因は全くの不明。山猿の襲撃がきっかけかと推測されるが、魂力は外的な要因、しかも短期間で容易く上がるものではない。そもそも血筋に何か問題があるわけでも育った環境が特殊なわけでもないのに生まれ持った魂力の高さが異常なのだ。前例のない事象に京都府の陰陽術士おんみょうじゅつし本山や東京都の神社庁中央会も手をこまねいているようで、これ以上魂力が高まるようだと本格的に保護されて身体中を調べ尽くされることになるかもしれない。そんなことは……させたくない。

 とにかく今は彼女の傍にいて彼女の身を守るしかない。周りに影響を与えるというなら自分が先回りするだけだ。先程の少女の様子を見てみようか。

 座り込んでいた親子へちらりと視線をやる。少女は数分前まで自分が泣き喚いていたことをすっかり忘れたかのように母親に対して無垢な笑みを向けている。親子はやがて立ち上がり、競技場内へ入って行った。彦一もそれに続いて場内へ足を踏み入れた。


 観客席からトラックを見下ろすと、ちょうど棒高跳びの選手が練習を始めていた。彦一は親子から少し離れた場所に座り練習の様子を眺めた。そこに潔乃の姿を見つける。普段の柔らかな雰囲気とは違って真剣な眼差しでバーを睨んでいる。深く息を吐いて、吸って、駆け出す。ボックスに突き立てたポールがしなって身体が持ち上がり、見事にバーを跳び越えた。何メートルの高さかはここからでは分からないが、着地した潔乃は嬉しそうに仲間と手を合わせている。

 初めて棒高跳びの練習風景をまじまじと目にしたが羽もないのによくあの高さまで浮き上がれるなと感心する。健康的な肌と長い手足とすっと背筋の伸びた長身の身体が跳躍する様は、純粋に綺麗だと思った。本番も上手くいくといい。彦一は大会が終わるまで少女を潔乃に近付けさせないと決めて親子の様子をじっと注視し始めた。


 しばらくして徐に親子が席を立った。会話の内容からして手洗いに行くようだ。彦一は親子に怪しまれない程度に距離を取って後を付けた。

 腕を組んで考え事をしながら親子を待つ。すると、突如大きな音を立てて女子トイレのドアが押し開かれた。警戒して身構えた瞬間自分の腰のあたりくらいまでしかない小さな影が横をすり抜ける。手を伸ばして捕まえることもできた。しかし、飛び出してきた少女の様子が明らかにおかしくて一度身を引いた。口から、目から、蚯蚓のようなどす黒い蟲が這い出してきていた。少女は小さな身体に似つかわしくない異様な速度で廊下の角を曲がりあっという間に視界から消えてしまった。

(まずいな)

 状況は思っていたより悪そうだ。彦一は踵を返して少女の後を追い掛けた。


 現在大会が行われている競技場と同じ敷地内に「解体予定」と書かれた看板が据えられている旧競技場がある。老朽化しており壁の塗料は剥がれ落ち内部の鉄筋が見えてしまっている部分もある。危険な場所だ。多くの人間が利用する公園なのだからこんな古びた施設さっさと撤去すればいいと胸中で悪態を吐いた。

 立ち入り禁止の規制線が張られた入口を潜る影がある。その後を追うと、廊下をふらふらと彷徨った果てに階段を上がっていく少女の姿が見えた。彦一は慎重に彼女の後に続いた。

 二階の観客席へ上がると席の一番前に設置された柵の手前でゆらゆらと揺れている少女の後ろ姿が目に入った。彼女は振り子のように横に揺れたままその場でぐるりと回転しこちらへ身体を向けた。

 少女は今度は泣き喚かなかった。そうしてくれた方が気力を感じられてむしろ良かったかもしれない。両腕は力なく垂れ下がり脚は無理やり動かされているせいで奇妙な挙動をする。口はだらしなく開かれ唾液と蟲を吐き出していて、白目を向いてぴくぴくと痙攣する目頭や目尻からもぶよぶよとした半透明の触手が這い出て蚯蚓のような蠕動をしている。

 加護がどうのと言っている場合ではない。一刻も早く蟲を始末するべきだ。祓うなら人目のない場所がいい。幸いここなら好都合だ。

 彦一は右手を突き出してそこへ意識を集中させた。すると、じわりと黒い炎が揺らぎ出で彼の腕を覆う。玄狐の黒炎は災厄を祓う強力な炎だ。強過ぎて少女の魂に影響を残さないよう加減する。出力を調整し、少女に向かって火球を放とうとした時だった。

「彦一君……?」

 ハッとして振り返るとそこに困惑した表情を浮かべた潔乃の姿があった。まずい。急いで少女の方へ視線を戻すと興奮した癇癪虫が口から勢いよく飛び出している様が目に入った。上を向かされた少女の顎が外れんばかりの太く長い触手が垂直にその身を伸ばしている。肥大化している。あんなに大きな癇癪虫は見た事がない。

「来るな!」

 叫ぶと同時に蟲の触手が一直線に伸びてきた。その進行を遮るために手を伸ばそうとした時、しかし信じられないことに潔乃が走り出した。触手が身体に纏わりつくのも構わずにそのまま少女に駆け寄る。潔乃が何をしようとしているのか、少女の姿を見て瞬時に理解した。蟲が飛び出した反動で後ろへ倒れ、錆びて壊れた柵ごと落下しそうになっていた。

 ギィ!

 耳障りな音がして柵が完全に外れた。腐食したボルトの弾けた音がその場に響く。潔乃が少女の手を掴んだ。間に合ったかと思いきや、反対側の手は支えになるものを捉えられず宙を掻いた。その手を間一髪、彦一が引き寄せる。だが二人とも体制を崩し二階の高さから既に飛び出していた。彦一は少女ごと潔乃を抱え落下を免れようとひん曲がった柵を掴んだが、力が加わった瞬間金属の縦格子が折れて彼の手を壁がガリガリと削った。そのまま二人を抱え背中から落ちる。

 バタン! という衝撃音とともに背中に鈍い痛みが走った。

「――っ!」

 強く打ち付けた反動で息ができなくなった。大きく咳をした後に開いた気道へ急いで空気が入り込んでくる。そのせいでもう二、三度咳をしたがすぐに呼吸は落ち着いた。身体の方もまともに動きそうだ。玄狐の身体は頑丈にできている。

「彦一君!」

 起き上がった潔乃が青ざめた顔をして覗き込んできた。彦一もすぐに身体を起こして潔乃に巻きついたまま蠢いている癇癪虫を引き剝がし、そのまま焼いた。蟲は声にならない悲鳴を上げ身悶えた後、黒い細かな塵になって空気中へと消えていった。

「けがっ……怪我はっ!」

「平気。頑丈だから」

 悲痛な面持ちで狼狽える潔乃を落ち着かせようと冷静に答える。平気としか言いようがない。それよりも女の子は無事なのか。

 彦一が横たわっている少女に視線をやると、それに気付いた潔乃も少女の顔を覗き込んだ。潔乃は少女の口元に耳を寄せ「息はしてる……」と小さく呟いた。

 やがて目を覚ました少女は自分が置かれている状況が理解できず、彦一と潔乃の顔を見るなり大きな声で「ママー!」と泣き出した。癇癪虫とは関係ない、元気な泣き声だった。


 外へ出ると半狂乱になって少女の名前を叫び続ける少女の母親と出くわした。彼女は彦一の背中で大人しくしていた少女の姿を確認すると勢い余って倒れ込みそうになりながらも必死に駆け寄ってきた。母親はふんだくるように少女を抱き寄せると、怒ればいいのか泣けばいいのか分からないような表情をして力一杯我が子を抱き締めた。

 すみません、すみませんと何度も謝られ対応に困る。代わりに潔乃がにこやかに返事をした。

「迷子になっちゃったみたいで……でも無事でよかったです。もうお母さんから離れちゃダメだよ。約束できる?」

「うん!」

 涙で目を腫らした顔を潔乃に向けて、少女は元気に頷いた。その顔に蟲の陰りはもうない。癇癪虫に憑かれた子供は健やかに成長するとも言われるが、あれだけの大きさのものに憑かれたらどんな影響があるのか……ここから先は松元の組織の管轄だ。

「普段は良い子なんです、でもたまに突然癇癪を起こすことがあって……お医者さんに診せても何ともない、普通のことだって言われるし、今日なんか今までで一番酷くて、私どうしたらいいか……」

 精神的に参ってしまっているのか、誰でもいい、高校生相手でもいいからとにかく話したいという心情が窺えた。慰めになるかは分からないが、彦一は一言だけ添えた。

「大丈夫です。もうこの子は暴れたりしない」

 母親は不思議そうに首を傾けたがやがて疲労した顔に笑みを浮かべ、礼を言って少女と共に去って行った。手を繋いで歩く二人の後ろ姿をぼんやりと見送る。残された彦一と潔乃の間に静寂が訪れ、五月の爽やかな風が枝葉を揺らす音だけが聞こえる。

「……子供の扱いが上手い」何か話した方がいいのかと思い、浮かんだ言葉を口にした。

 潔乃は「えっ?」と驚いた表情をしたが次の瞬間には笑って、

「弟が小さい頃はよくああやって慰めてたの。泣き虫でね。いつもお姉ちゃんお姉ちゃんって私についてきて……あ、私弟がいるんだけどね、洋祐ようすけっていう」

 昔を思い出して懐かしんでいる様子だった。実際観客席から落ちた後意識を取り戻し泣きじゃくる少女を上手く宥めたのは潔乃だった。彦一は傍で見ていただけで何もしていない。自身も蟲に絡みつかれ二階から落下して少なからず動揺しているはずなのに。その毅然とした態度に彦一は感心していた。

「あ!」

 突然潔乃が叫んで手を口に当てた。何事かと怪訝な表情を浮かべると彼女がこちらに目を合わせて訴えるようにもう一度声を上げた。

「決勝!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る