第三話 夏の夜の灯り

③-1

 周りの木々が風で騒めき鳥たちが何かから逃げるように飛び去った時、目の前に広がる夏山の雄大な稜線と松元・安津見平あづみだいらの眺望がゆっくりと歪み始めた。大地から染み出した水が意志を持つかのように集まり何かを形作り、見る見るうちに大きさを増して潔乃の視界を覆ったのだ。それは頭があり胴体があり両手両足もある、透明な巨人だった。水が陽の光を屈折させているため巨躯を通して見える風景がゆらゆらとぼやけている。一体どれほどの大きさなのか。潔乃は高台に立っているから山一つ分はあるだろう。首が痛くなるくらい上を向いた先に巨人の頭らしきものがあって、目も鼻も口もないのっぺりとしたその部分を、それでも必死に仰ぎ見ていた。

 巨人の身体が体積を増すのを止めた。ゆらりとした重たい動作でこちらを見下ろしてくる。目が合った、と思った。すると突然巨人が右手を振りかざし真上から勢いよく手のひらを叩きつけてきた。

(うそっ――!)

 風が質量を感じさせるほど激しく潔乃の身体を圧し潰した。あまりのことに息が詰まり潔乃は蹲って風が通り過ぎるのを待つしかなかった。淡い青磁色のロングスカートが強風でバタバタと翻るのを懸命に押さえつける。

 しばらくして風が止んだ。顔を上げると巨人はもう姿を消していて、残されたのは巻き上げられた葉や折れた枝などが散乱した広場でぽかんとしている潔乃ただ一人。呆気に取られていて乱れた髪や服を直す気力も湧いてこない。

「……強引すぎねえ?」

 少し離れた後ろの方から、孝二郎の呆れた声が聞こえた。


 夏本番を目前にした七月の初旬。潔乃は彦一や孝二郎、ジーナと共に安津見野市にある安津見平展望公園を訪れていた。山を切り開いて作られた公園の頂上部は展望スペースになっており眼下には松元平と安津見平が一望できる絶好の場所だ。この高台の公園で、潔乃たちは安津見野の神〝ダイダラ坊〟にまみえる約束をしていた。

「よしできた! カンペキ!」

「ジーナさんありがとうございます。自分じゃ上手く直せないから助かりました」

 公園のベンチでジーナとそんなやり取りをする。せっかく髪の毛を編み込みにして綺麗にしてきたのに先程の強風のせいでぐしゃぐしゃになってしまったのでジーナに整えてもらったのだ。その後潔乃とジーナはベンチから立ち上がり柵に寄りかかって景色を眺めていた男二人と合流した。

「お待たせしました」

「お! いいじゃん可愛いよ」

 ニコニコと機嫌が良さそうに孝二郎が言う。彦一は、分かっていたが特に反応がない。

「この後はどうする? アイス食べに行くだろ? ほら、春にオープンしたジェラート屋。アタシはそのために付いてきたようなもんだから!」

「分かってるって、そう焦るなよ。まあ目的は達成できたってことにして、あとでばーちゃんに見てもらうか。……それにしても雑だったなあ……ダイダラ坊……」

 孝二郎がどこでもない場所へ眼差しを向けて頬を引き攣らせた。潔乃もそれに合わせて苦笑する。身体に何か変化があるわけではないため実感し辛いが、黄金背の時もそうだったのできっと何かしらの恩恵を得られたに違いないと思うようにした。

「大丈夫?」

 声を掛けられてそちらへ顔を向けると、いつもより近い場所から注がれる視線とぶつかって思い切り顔を背けてしまった。今日は少し底の高い靴を履いているので顔までの距離が短い。

「う、うん……大丈夫……」

 変に思われたかもしれないが、まだどうしても彦一とまともに顔を合わせることができなかった。きっと不思議そうな表情を浮かべているだろうと想像しながら、潔乃は一週間と少し前の出来事を思い出していた。


 六月も半ばを過ぎて下旬に差し掛かった頃、とうに梅雨入りが宣言された松元市ではもう一週間以上じめじめとした雨の日が続いていた。空を覆う薄鼠色の雲から絶えず雨粒が落ちてきて肌寒いし教室やバスの中の空気が淀んでいる感じが好きじゃない。そんな陰鬱な気持ちに追い打ちを掛けるように来週から期末考査が始まるのだからこの世の終わりみたいな顔をしたくなるのも道理というものだ。

「無理……数Ⅱ無理……まずもって因数分解が無理」

「私も……」

 試験前で部活が休みになり、放課後は仁奈や美夜子と自習室で勉強してから帰宅している。今日は美夜子はピアノの稽古があるので仁奈と二人きりだ。美夜子は試験前でもピアノの練習を欠かさないしテスト勉強もしっかりやる(しかも成績が良い)ので親友ながらそのストイックさにつくづく感心する。

「ねえねえ! ところでさ、バイトどう? 順調?」

 自習を終えた帰り道、校門までの短い時間。試験のことなんて頭の隅に追いやって仁奈が好奇心に満ちた目で尋ねてきた。仁奈も県予選で去年と同じ強豪校に敗れてインターハイ出場を逃し六月の頭頃は不貞腐れていたが、もうすっかり元の元気を取り戻していた。来年こそは!と言って燃えている姿が仁奈らしい。

 潔乃も試験以外の話題の方が楽しいのでアルバイトの話に乗ることにした。

「うん、楽しいよ。お客さんにお守り渡したりするんだけどね、ありがとうって言ってもらえると嬉しい」

 六月に入って最初の日曜日は初出勤の日だった。孝二郎から事前にある程度説明があったが、仕事をするなんて人生で初めてのことなので見知った顔がいるといってもやっぱり緊張する。仕事内容は参拝者の案内やお守り・お札の受け渡し、境内の掃除に社務所で大橋の手伝い、など多岐に渡る。勤務中は白衣に緋袴のいわゆる巫女装束を着ているが巫女さんって髪の毛短くてもいいのかなあなんて悠長なことを考えていたりする。

「えー楽しそう! 私もバイトやりたーい。でも親が許してくれなそうなんだよね……勉強しろって絶対言われる」

「私も週一じゃなかったら許してもらえなかったかも」

「だよねー」

 両親から許可を貰うにあたって、他にも問題があった。何しろ突然娘から働きたいと申し出があった先が子供の頃に行方不明になった場所だったのだ。教師と孝二郎がいなかったら絶対に説得できなかったと思う。

(きっと……分かってくれてるよね)

 小さな頃の出来事をいつまでも腫れ物みたいに扱われるのが心苦しかった。「怖くなったらいつでも帰ってきなさい」と言う両親を安心させるためにも、楽しく働いている姿を見せたい。もう怖くないよ、大丈夫だよって伝えたい。

 それに楽しいのは本当で、まだ数回しか出勤していないが少しずつ勝手が分かってきた。というか分からない事があっても大橋が完璧に補助してくれるので凄くやりやすい。おっとりしているように見えて仕事が恐ろしく早く、潔乃の分の作業も先回りして準備していてくれるので頼りがいがある。本人は「俺こんなことするために呼ばれたわけじゃないはずなんですけどね~」などと笑いながら愚痴らしきことを零していたが(大橋曰く誰もやりたがらない事務仕事を押し付けられているらしい)。

 ぽつぽつと降り注ぐ雨を傘で受け止めながら二人並んで歩く。もう少しで校門に辿り着くというところで仁奈が口を開いた。

「この後ちょっと本屋寄って行かない? 最近ハマってるバンドの新譜が出てさ、CD限定曲あるから買いに行きたいんだよね」

「ご、ごめん。私日が暮れる前に帰らないと……」

「そう? じゃあ大丈夫。また明日ね!」

 仁奈が元気よく手を振って校門の前で別れる。潔乃もそれに笑顔で応えてしばらく仁奈の後ろ姿を見送っていたが、手を下ろして自分の帰り道に方向転換した時には笑みが消えて寂し気な表情が現れていた。

 最近少しずつ、友達の誘いを断るようにしている。それにどこかへ寄ったとしても早い時間に帰るようにしている。付き合いが悪いと思われるかもしれないが万が一のことを考えて友達を遠ざける必要があった。またあの時みたいに何かが暴れ出して自分の大切な人たちを傷付けてしまったら、悔やんでも悔やみきれない。

 学校前のバス停でバスに乗り帰路につく。最寄りの停留所で降車するといつものように彦一が待っていた。もう慣れたもので、二人で並んで帰り道を歩く。いつの間にか雨の勢いが激しくなっていて傘を叩く水の音がうるさいくらい耳に響いていた。

「安津見野のダイダラ坊と接触できた。言葉は通じないし基本は眠ってるから時間がかかったけど、ダイラダ坊の能力なら伊澄さんの魂を整えられるかもしれない」

「整える……?」

「天里が言うには、伊澄さんの魂の形はいびつなんだそうだ。それで器から魂力が漏れて、特に下等の怪異を刺激してしまうらしい」

 五月下旬の癇癪虫の件以来、潔乃は子供を見ると反射的に警戒するようになった。普段の生活ではほとんど関りがないが、アルバイトや買い物に行ったときなどに小さな子供を見掛けるとできるだけ距離を取るようにしている。それに自分が影響を与えてしまうのは癇癪虫だけではないかもしれない……そう考えると何もかも怪しく見えてきて、知らない人間とすれ違う時は神経をすり減らしている。

 怪異を刺激する原因を、ダイダラ坊なら取り除ける可能性がある。それを聞いて潔乃はより一層注意深く彦一の話に耳を傾けた。

 ダイダラ坊は松元・安津見平をその大きな足で踏み固めて現在の松元盆地を作ったとされる古来の神だ。はるか昔松元には湖が広がっていたが、龍の親子が巨岩を砕いて湖の水を抜きそこに広大な平地が現れた。ダイダラ坊はさらにその場所を整地し、人々の住む土地と田畑を作り豊穣をもたらしたのだという。

「人々に恵みを与えもするが、奪うこともある。益とも害とも言える神だからどうなるか分からないけど……まあ協力してくれるらしいから頼んでみようと思う」

 彦一がそれでいいかという視線を送る。潔乃は快く頷いた。

 魂に形があるというのはなんとも漠然とした話だ、と思った。生まれ持った異質な魂……そのせいでたくさんの人の世話になって、ちくちくと心が痛む。

 しばらく川沿いの道を歩く。川は水かさを増し濁流が轟々と唸りを上げて流れていく。側溝からも泥水が時折溢れ出してゴポッゴポッと不規則な音を立てている。天気予報によると夜に掛けて雨脚は弱まるそうだが、横で勢いよく流れる川の様子を見ていると今すぐにでも収まってほしいという気持ちになる。

 そんなことを考えながら歩みを進めていた時、不意に雨音の響きに混ざって声が聞こえた。鈍い、呻き声のようだった。

「聞いては駄目だ」

 低く鋭い声で制止された時にはもう耳を傾けてしまっていた。


(あれ――?)

 突然視界が暗闇に覆われ、目を開けているのか閉じているのかすら分からなくなった。手を目の前にかざそうと思っても、手の感覚がない。それどころか足の感覚もなくて、地面を踏みしめることもできず厭わしい浮遊感だけが纏わりつく。そのせいで吐き気がするのに胃がどこに在るのかも分からなかった。

 意識だけの存在になって暗闇を漂う。どうにかしなければと思うのに何もすることができない。だって手足がないのだから字義通り手も足も出ないのだ。


 ――――い


 また呻き声だ。一つじゃない。いくつもの声が重なって聞こえる。


 ――しい、――い、く――い


 声が頭の中でこだまする。狭い場所に閉じ込められて四方から大小さまざまな鐘を滅茶苦茶に鳴らされているような不快感だ。聞きたくないのに強引に音を詰め込まれて意識が揺さぶられる。何を言っているの? お願いだからそんなにたくさん喋らないで。耳を塞がせて。私の身体はどこにあるの――


 ――くるしい


 やっと意味のある言葉が聞き取れたと思った瞬間、意識の中心を引っ張られて泥の底に沈んでいくような感覚に陥った。浮遊していた意識がどろどろと粘度の高く不快な塊に縋り付かれて飲み込まれていく。苦しい。息ができない。喚いたのは自分の声だったのか得体の知れない何者かだったのか、それすらも分からないままずぶずぶと埋もれていき――

 突然泥が弾けた。

 溺れる者が必死に水面へ顔を出すように潔乃ももがいて気道を確保しようとする。顔の周りにはもう泥がないと分かって、顔の感覚があることに気付いた。何かを掴もうとする自分の意志が手にもちゃんと伝わってじわじわと身体の感覚が戻ってくる。ただ視界だけは相変わらず黒く塗り潰されたままだ。潔乃は身体を震わせて頭の中で必死に助けを求めた。

 そこへ、瞬きの一瞬の後に、光が現れた。決して強くない柔らかな白い光だったが、それは夜の海をあてもなく漂っているようなこの状況で、救いの道標に見えた。

 視界の中心に突如として出現したその光から声が聞こえてきた。起きてと言ったような気がした。

 どうやって起きればいいの?

 声を出せたのかどうかもよく分からないまま呼び掛けに応える。光は次に、助けてと言った。会話になっていない。助けてほしいのはこちらも同じなのに――でもどうしてかその悲壮さを感じる声を放っておくことができず、潔乃は恐る恐る尋ねた。

 助けてほしいの……?

 光は自分のことではない、と答えた。何かを助けたいのだと言った。光は潔乃にそれを頼んでいるようだった。声のする方に意識を集中させるが厚い膜に覆われているみたいなくぐもった声は上手く潔乃に届かない。

 私が、助けるの? いったい誰を――?

 続く言葉を聞き取る前に白いノイズが目の前に迫ってきて、強制的に意識を引き剥がされた。


 気が付くと雨がボタボタと傘を叩く音に包まれる中、アスファルトに無数の雨粒が落ちて跳ね返る様子をぼんやりと眺めていた。混濁した意識を懸命に振り払って今の自分の状況を確認する。温かな何かに腕を回して溺れまいとするように力一杯しがみついていた。……しがみついていたって、何に?

「――わあっ!」

 それが何かを理解するや否や思い切り付き飛ばしてしまったが相手が全く動じなかったので反動で潔乃が膝の上(膝の上⁉)から落ちそうになって再び引き寄せられてしまった。至近距離で琥珀色の瞳と目が合う。瞳の持ち主は極めて冷静な口調で、

「慌てなくていいから、落ち着いて、ゆっくり息をして」と言って潔乃を介抱した。

(今のこの状況が一番落ち着けない……!)

 急いで立ち上がろうとしたが足に力が入らず上手くいかない。それどころか踏ん張ろうとした足が雨で滑って体制を崩してしまい、相手の胸に顔から飛び込んでしまった。「ごめん!」と早口で謝ってできるだけ触れないように距離を取る。頭の中は真っ白なのに顔はもう耳まで真っ赤になるくらい熱を持っていて心臓は口から飛び出るのではないかと思うほどドクドクと脈打っている。

 彦一は雨に濡れたアスファルトに片膝を付いてその上に潔乃を乗せ、右手で彼女を抱えていた。左手は傘を持って潔乃の方へ傾けている。そのせいで半身がずぶ濡れになってしまっていて、この強い雨の中しばらく潔乃を支え続けてくれていたことが分かる。

 それを見て潔乃はもう一度立ち上がろうとして(それにいい加減離れないとこちらの身が持たない)、やっぱり上手く力が入らないので彦一に手を取られながらゆっくりと身体を起こした。ふらりとして脳から血が引いていく感じがしたがここでまた倒れたら自己嫌悪甚だしいのでほとんど気力だけで立ち続ける。

「歩ける? まだ休んでても……」

「だ、だいじょうぶ! 家すぐそこだし! あの、ほんと、ごめんね……」

 何から謝ったらいいのか分からないまま俯いてそう呟いた。目を合わせることができない。誤魔化すように、投げ出された自分の傘を拾い上げた。

「いや、俺が悪かった。もっと早く気付くべきだった」

「ううん、彦一君は悪くないよ……あと、制服もごめん! 弁償するね……!」

「ああこれは……いいよ、支給品だし」

 特に気にした風もなく、何の執着心もなく。いつも通り平然としている。そんな彦一の態度に何故だかちくりと胸が痛んだが、びしょ濡れのままだといけないと気付いて、彦一が持ってくれていた鞄を慌てて受け取るとその中からハンカチを取り出した。彦一はそれをやんわりと断った。そしてそのまま視線を道の端へと向けた。潔乃もつられて同じ場所を見る。

「あっ……」

 側溝からボコボコと音を立てて泥の塊が溢れ出していた。泥と落ち葉とゴミが混ざった、淀んだ黒色の塊だった。水の勢いのせいだけではない、何か意志のようなものを持ってドクンドクンと脈動している。

「あれは水子みずこの霊と泥が混ざったものだ。生まれてこられなかった魂が雨に流されてここに滞留してしまったんだろう」

「水子……」

 意味は知っているが目の前のグロテスクな塊とそれが上手く結びつかなかった。流れてしまった赤子があんな風に姿を変えて、ずっと苦しんでいるなんて――

 その塊が苦しんでいると何故か分かった。そうか、あの時訴えていたのは赤子の魂だったのだ。頭の中で反響していた声は言葉ではなく感情そのものだったように思う。あの声全てが生まれる前に亡くなった赤子のものだと思うと胸が締め付けられて、思わず下唇を嚙んだ。

 そこで一つ疑問が浮かんだ。苦しんでいたのは赤子だとして、では助けたいと言ってきたのは一体誰の声だったのか。今思うとどこかで聞いたことがあるような声だった気がするが……

「少し待っててほしい」

 水子の塊に視線をやったまま彦一が言う。思案を中断して彦一の方へ顔を向けると彼は胸の辺りの高さまでゆったりと右腕を上げて前方へ突き出した。そこにゆらりとした黒い炎を纏う。玄狐の炎だ。何度か見る機会があったが、激しく燃え上がっているわけではないのに息を呑むような迫力があって未だに無意識に身が竦んでしまう。しかし、そうかと思えば反対に心が惹きつけられるほどの幽美さも感じさせて、ゆらゆらと揺らめくたびに変化する黒と灰白色のコントラストをずっと見ていたいとさえ思う。

 右腕から立ち上った黒色の炎が、空気中を漂う様にゆっくりと移動して水子たちの塊を焼いた。激しい雨をものともせずに水子の成れの果てを包む。シュウシュウと溶けていくような音を立てて塊は次第に形を崩していった。白い煙が上がる。煙と共に鉛色の空へ昇っていった灰色の塵は、荼毘に付された水子たちの魂に違いないと思った。

 横へ視線を戻した。伏し目がちな表情からは何の感情も窺えない。粛々と自分の役割を果たしているだけのような……それでもその瞳に非情さは感じられない。

 水子の霊が完全に燃え尽きるまで彦一は黙ってその様子を見つめていた。声を掛けるのもなんとなく憚られたので潔乃も同じように見守る。気になったのが、彦一の右腕の状態だ。炎が消えた後の腕に皮膚が裂けたような跡が残っていて、皮下から滲み出した血が鮮やかで痛々しかった。じわじわと消えていったので問題はないのだろうが……自分の炎に焼かれているように見えたのは何故だろう。

 水子の魂を見送った後そのまま特に会話をすることもなく帰路についたので、意識を失っている間に聞こえた声のことを言うタイミングを逃した。赤子の魂を救ってほしいという意味だったのなら、彦一が浄化したことで一応望みは叶えられたはずだが……

 胸に引っかかるものはあるが改めて報告するべきこととも思えず、このことは自分の中だけに留めておくことにした。

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