①-2
「伊澄さん」
聞きなれない声に呼び止められ振り返った先に、一枚のプリントを持った彦一が佇んでいた。潔乃が予想外の人物に驚いていると彦一が「これって伊澄さんに渡せばいい?」と、手にしたプリントを渡してきた。進路希望調査票だった。提出日に調査票を忘れた、もしくは休んでいた生徒は直接教師にプリントを提出することになっていたが、連絡が上手く伝わらなかったようで彦一だけはクラス委員の潔乃に渡してきたのだった。
(あっ)
見るつもりはなかったが表向きのまま渡されたため進路希望が見えてしまった。項目は第三まであるが第一しか埋まっておらず、しかも「就職」だった。進学校である松元高校の生徒はほとんどが進学を希望するため意外に思ったが、次の瞬間には慌てて目を逸らした。他人の進路を覗き見するなんて失礼なことをしてしまったと、申し訳ない気持ちになる。
「これ、本当は先生に直接渡すことになってるんだけど、私職員室に行く用事あるから良かったらついでに渡しておくね」
ちょっとした罪悪感を抱きつつ、彦一の申し出を快諾した。書類を纏めるのはクラス委員の仕事だから自分が提出しても恐らく問題ないだろう。
「いいの?」
「いいよ。たぶん私が持っていっても大丈夫だと思うから」
相手に気を遣わせないように潔乃が自然な振舞いで答えると、彦一は、
「そっか。じゃあよろしく。ありがとう」と、真っ直ぐに目を合わせて感謝の言葉を述べた。
同年代の男子に堂々と「ありがとう」なんて言われたことがなかったので不意を突かれて思わずどきりとしてしまった。マスクをしていて口元が見えないぶん、琥珀色の綺麗な瞳が印象的だった。
そのまま彦一はふらっと帰ってしまいそれ以降は会話をすることがなかった。眼光が鋭く背も高いので近寄り難いイメージだったが話してみると丁寧で、表情の変化に乏しい(目元ですらピクリとも動かなかった)のに不思議と穏やかな印象を受けた。
彦一が円窟神社の人間なら八年前の事件も当然知っているだろう。当時警察や消防団、猟友会なども加わって夕刻から深夜まで大規模な捜索が行われた。結果自分は参道で倒れていたところを助けられたのだが──
「二人はさ、八柳君の素顔見たことある? 私八柳君と去年も同じクラスだったけど、一回もマスク外してるところ見たことないんだよね」
仁奈がそう言って「美夜子もないでしょ?」と話を振ると、美夜子も頷いた。いつもマスクをしていて体育の授業でも外さない、昼食の時間は教室をふらりと出ていくのでどこで食べているか分からない、という調子で、彦一には謎が多かった。一年の頃には喧嘩で負った傷が顔にあるだの口が異様に裂けているだのといった噂が流れていたらしい。
「あそこまで隠されると気になっちゃうよね。今年は仲良くなって素顔見せてもらえるといいな」
「見られるの嫌だから隠してるんじゃないの? そういうの探るの良くないと思うけど」
「うっ……それはまあそうだけど……」
美夜子にチクリと刺されて仁奈はしょげてしまった。その後は自然と彦一の話が流れて、話題は翌週の土曜日に予定している潔乃の誕生日会の話に変わった。市内の大型ショッピングモールに入っているレストランでお祝いをしてくれるらしい。二人はもちろん陸上部の友人も集まってくれると言っていて、潔乃はこの日を以前から楽しみにしていた。
「大丈夫?」
「えっ?」
何を心配されているか分からないでいると、美夜子が続けて「神社のこと」と付け加えた。
仁奈と別れた後、潔乃と美夜子はバス停で同じバスを待っていた。二人は近所に住んでいるため時間が合う時は一緒に帰っているのだった。
「まだ神様探してる?」
淡々としていて、しかし僅かに遠慮するような声色で美夜子は尋ねた。八年も前のことなのにまだ気に掛けてくれていることが申し訳なかった。
「よく覚えてるね」
「覚えてるよ。潔乃ちゃんがあんな風に取り乱すところ初めて見たから」
あの日、美夜子も一緒に祭りへ遊びに来ていた。突然友達が行方不明になり美夜子自身も大いに動揺したであろうが、彼女は潔乃が姿を消してから見つかるまでずっと現場で待っていた。夜の遅い時間帯になり親に帰宅を促されても頑なに動こうとしなかったらしい。
発見された時のことを潔乃はよく覚えていない。それでも、両親や弟、美夜子が泣いていた光景は目に焼き付いている。本当にたくさんの人に心配を掛けた。そのことがずっと潔乃の心に重くのしかかっていた。
それにあの時の――自分を助けてくれた大きな黒い狐のことも、忘れられなかった。
〝狐の神様が助けてくれた〟
保護された後に親や周りの大人にいくら説明しても信じてもらえず、熊か何かと遭遇したのだと解釈されしばらく円窟神社近辺では猟友会による巡回が行われた。当然人を乗せられるほどの大きな狐など見つかるはずもなく、「神隠し」と呼ばれた潔乃の失踪事件は静かに収束していった。
「私は今でも信じてるよ。きよちゃんは噓吐くような子じゃないもの」
「ありがとうみょんちゃん」
「みょんちゃんは禁止」
そう言って二人は笑い合った。こんな何でもない日常が大切に感じる。今思えばあの日の出来事は現実に起こった事なのか、確信が持てなかった。確かめる術もないのであれは夢だったのだと思い込むことにしていた。
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