第一話 山猿襲来

①-1

 四月としては珍しく続いた長雨の後、鈍く厚い雨雲が流れ去り五月上旬の大型連休はからりとした晴れの日が続いていた。太陽が遮るもののない青空になんの憚りもなくきらきらと輝いている。

 校庭では陸上部とサッカー部がグラウンドを半分にしてそれぞれの練習に励んでいた。生徒たちの快活な声が気持ちよく響く。連休最終日ということもあってか、緩やかな空気が漂う昼時だった。

 陸上部女子二年伊澄潔乃いすみきよのは、数十メートル先の高く据えられたバーを睨んでいた。首筋に触れる程度の長さまで切り揃えたショートヘアに長身ですらりとした長い手足。柔らかそうな髪が陽の光を受けて薄茶色に輝いていた。

 棒高跳びのバー越しに、中央山脈最高峰「龍麟岳りゅうりんだけ」の雄大な姿が見える。春夏の間も美しい雪渓を纏う三千メートル級の山々。潔乃は、龍麟岳へ向かって高く跳び出すのが好きだった。

 呼吸を整えて手にしたポールを掲げる。しなるポールの反動とともに、勢いよく駆け出した。

 ――パシッ!

 ボックスに突き立てたポールの反発力で、身体が高く持ち上がる。そこからの一連の動作はとても滑らかで、身体が思うままに反応しバーを跳び越えたのが分かった。跳べた、と思った瞬間には既に背中から落ち、マットの上に着地していた。

「すごーい! もう三メートルは余裕で跳べるね!」

 マットの上で寝転び空を仰ぎ見ていると、同じ棒高跳びの選手である三年生の女子部員が手を差し伸べてきた。潔乃は笑いながら彼女の手を取り立ち上がる。

「余裕じゃないですよっ。でも跳べて良かった」

 練習最後の一走を思い通りに終えられ、潔乃は満足そうな笑みを浮かべた。


 潔乃が通う県立松元まつもと高校は、県の中心部に位置する松元市の長い坂の途中にある。松元市は地方都市の中ではそれなりに人口も多く、国宝松元城を中心とした城下町が有名な観光都市だ。市の中心部には大型ショッピングモールや美術館・劇場などがあり人出も多いが、中心から少し離れると閑静な住宅街や昔ながらの里山の風景が広がっているため、都市と自然の調和が取れた場所として人気のある街だった。

 そんな松元市の、松元高校からバスで二十分程離れた静かな住宅街で、潔乃は生まれ育った。

「お腹減ったー! 早く来ないかな~」

 部活の練習終了後、潔乃は二人の友人と高校の近くにある小さな洋食屋に来ていた。右隣に座ったバレーボール部二年の小岩井仁奈こいわいになが、食事が運ばれてくるのを待ちきれない様子で誰に言うともなく独りごちた。テーブルに突っ伏して足をぶらぶらさせている。後頭部の高い位置で纏められたお団子が体の動きに合わせて小さく揺れた。

「混んでるから結構待つかもね」

 潔乃の正面で水を飲んでいた牧村美夜子まきむらみよこがストローから口を離し、仁奈の呟きに応える。抑揚のない、しかし透き通った涼しげな声は昔から変わらない。美夜子は潔乃の幼馴染であり、有名楽団に所属している父親の影響で小さな頃からピアノを習っている。彼女は裕福な家庭のいわゆるお嬢様だったが、特にそれを鼻に掛けることはせずいつも冷静で泰然としていて、潔乃とは昔から気が合った。

 高校一年の時に美夜子と仁奈が同じクラスで仲が良く、二年のクラス替えで仁奈と潔乃が一緒になったことをきっかけに自然と三人で集まるようになった。快活な性格で友達も多い仁奈は休日のほとんどを色んな友人と過ごしていたが、潔乃や美夜子が声を掛けると喜んで時間を作ってくれた。仁奈の人懐っこい笑みは場を明るくする。潔乃はこの三人で過ごす時間がとても好きだった。

「潔乃はさ、調子どうなの? 今月の終わりだよね県予選」

 仁奈が伏せていた顔を上げて話題を振る。二人とも部活動には熱心であるため部活の話をすることは多かった。

「うーん……良い方だと思いたい、かな」

 本番は何が起こるか分からないしね、と付け加える。仁奈は「超応援してる~!」と言いながら潔乃に向かって笑い掛けた。

「うちもみんな結構気合入ってるからさ、今年はいいとこまでいけちゃうかもなんだよね! 全国いけたらどうしよ~! 今年は大阪だしやっぱユニバとか行くべきっ?」

「目的それなの?」

 機嫌良く空想する仁奈に対して美夜子が呆れた様子で笑みを浮かべた。仁奈の冗談に応じている時の美夜子は楽しそうだ。

 インターハイ出場は潔乃も目標としていることだ。走ることが好きで陸上部に入部し中学時代は中距離の選手だったが、中学三年の頃にテレビで見た陸上の世界選手権の影響で高校入学を機に棒高跳びへと転向した。空へ跳び出す爽快感も地面へ落ちていく浮遊感も気持ちよく、自分に向いている競技だと思った。インターハイへ出場するには県予選で四位以内に入らなければいけないが、潔乃は今、入賞できるかどうかの際どいラインにいる。

 しばらく談笑していると料理が運ばれてきた。潔乃は大好物のオムライスを頼んでいた。トマトケチャップの甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。潔乃と仁奈は元気よく、美夜子は上品に、いただきますと手を合わせた。

「ねえ私さ、前から気になってたんだけど」

 仁奈はガパオライスの一口目を豪快に頬張り飲み込んだ後、添えられた卵の黄身を崩しながら話を切り出した。

「こうやって三人でご飯食べたりお喋りしたりするのは当然楽しいよ、私も大好きだよ。でもね、なんかさ……二人ともぜんっぜん青春する気なくないっ?」

「どういうこと?」

 身を乗り出さんばかりの仁奈の勢いに若干たじろぎつつも、潔乃が「私部活頑張ってるよ」と答えた。しかし仁奈は大げさなくらい大仰に首を振り、

「そうじゃなくてー! 私だって部活は好きだけど、部活三昧じゃつまんなくないっ? 二年になったんだし、今年こそ彼氏作る、とかないの二人とも!」と、熱っぽく言葉を続けた。

 そういう話か、と返答に困ってしまう。美夜子に目配せをすると彼女は大して反応せずしらすとチーズのホットサンドを食べ続けていた。相変わらずマイペースだ。

「私は部活楽しいし、今はいいかなあ」

「私も」

 潔乃と美夜子がそう答えると、同意を得られなかった仁奈はガクッと項垂れた。

「なにその余裕……敗北感で泣きそう……」

 そう言って落ち込んだような様子を見せる仁奈だったが、彼女の手にしたスプーンは止まることなく食事と口を往復している。

「彼氏いらんとか美少女二人に言われても虚しいだけだわ……」

「仁奈ちゃんの方が可愛いよ」と、美夜子が何でもないようにさらりと言う。

「えっ付き合う?」

「付き合わない」

 美夜子つめたーいっ! と喚く仁奈と冷静な口調の美夜子の会話に思わず笑ってしまった。この二人は時折漫才のようなやり取りをするので面白い。

 美夜子の励まし(と言っていいのか分からないが)もあってか元気を取り戻した仁奈はキリっとした表情で、

「彼氏作るって言っても、まず出会いがないよ出会いが。クラスの男子は問題外だし土日は部活か地域のイベント事に駆り出されるし……あっそう言えば再来週も近所の神社の縁日でキッズたちの相手しなきゃなんだったー! めんどくさー!」と捲し立てた。

 モテモテだねと潔乃が茶化すと、ガキンチョにモテても嬉しくないーっと一蹴されてしまった。仁奈は面倒見がよく人から頼み事をされることも多い上にそれをテキパキとこなしてしまうから凄いと思う。他人に仕事を振るのも上手いし断る時ははっきり断れるのも格好いい。自分も誰かから相談を受けることが頻繁にあるが、どちらかと言うと断れないから面倒事を押し付けられているだけのような気がする、と潔乃は思った。

 そんなことを考えていると、不意に仁奈が思い付いたように、

「あ、神社と言えばさ、今日職員室寄った時先生たちの会話聞いちゃったんだけど」

 と話題を切り替えた。潔乃と美夜子が仁奈の次の言葉を待っていると、思いも寄らない場所の名が上がった。

「うちのクラスに八柳やつなぎ君っているじゃん? あの人、円窟えんくつ神社の神主の孫らしいよ。有名だから知ってるでしょ? 円窟神社」

 一瞬、言葉に詰まった。その神社の名はよく知っている。ただ、無防備な状態で聞かされたその名前に自分でも驚くほど動揺していた。

「知ってるよ。木蘇きその神社でしょ」

 潔乃が反応できずにいると美夜子が先に口を開いた。彼女も円窟神社のことは知っている。いや、県民なら誰でも知っているほどの有名な神社ではあるが、潔乃も美夜子も実際にその場所を訪れたことがあるという点で思い入れがあった。しかも、忘れられないくらい強い思い入れが。

「そうそう! 木蘇にあるやつ。先生が何の話してるかは分かんなかったんだけどね、八柳君のとこだけ聞こえたんだー。八柳君全然喋ってくれないから知らなかったけど、おじいちゃんが有名な神社の偉い人とか凄くない?」

 八柳君と話すとご利益あったりするかなっ? と冗談ぽく笑う仁奈の声が遠くに聞こえる。潔乃は峨々と聳える龍鱗岳の美しい佇まいに思いを馳せていた。

 松元市の南東に位置し県中心部を南北に連なる中央山脈。松元高校は市街地より高い場所にあるため山脈の険しい稜線がよく見える。その中央山脈に添うように南に四十キロメートル程進んだ山間の深い場所に木蘇と呼ばれる地域がある。潔乃は八年前、小学三年生の頃に、木蘇円窟神社の祭りの最中一時行方不明になったことがあった。

(八柳君、円窟神社の子だったんだ)

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