玄狐の心臓
道草
狭間の世界で
――暗い、明るい、冷たい、熱い、怖い、怖い、怖い。
「おかあさん……どこ……?」
進むのも留まるのも躊躇われるような暗闇の中を、少女が一人震えながら彷徨っていた。周りの木々が風で揺れるたびに心臓が跳ね、何か恐ろしいものが飛び掛かってくるのではないかと不安な気持ちが強まる。今いる場所が森の中であると認識はできたが、道がなく、自分がどこから来たのか、どこへ帰ればいいのか全く分からなかった。それにこの空間は何かがおかしい。周りは森で、だがしかし空がなかった。顔を上げても星や月が見えない。木の葉が揺れる様は辛うじて分かるが、木々の上部が黒く溶けて繋がっているみたいに、何も見通せない暗闇が広がっているだけだった。
そもそも夜のように辺りが暗いのがおかしい。自分は先程まで神社の祭りの喧騒の中にいて、時刻は夕方だったはずだ。
(熱っ……!)
突如現れた青白い光に触れて、少女は飛び退いた。彼女の頭程ある光の揺らめきは、二、三度明滅して、しばらくすると再び消えていった。虚空に浮かぶ不気味な光。炎のように揺れるそれは、彼女の視界の中だけでも十以上はあるように見える。
(あれはなんなの……)
祭りの最中にそれを見つけて追い掛け、参道を離れたところから記憶が曖昧だ。石か何かに躓いて目を瞑り、再び瞼を開いた時にはこの場所へ来ていた。
少女は近くの木に力なくもたれ掛かり、そのままずるずると座り込んでしまった。季節は夏であるはずなのに服や靴から伝わる感覚は不思議なほど冷たい。恐怖で泣き出しそうになるのを懸命に堪え、カタカタと鳴る歯を抑えるため口を手で覆った。声を出すのも怖かった。この世のものとは思えない何か不気味な存在に、声が届いてしまう気がしたから。
目をきつく閉じ、頭の中で助けが来ることを祈った。お父さん、お母さん、ようちゃん、みょんちゃん、誰か、誰でもいいから、今すぐ迎えに来て――
どれくらい時間が経っただろうか。不意に正面からガサリ、ガサリと土を踏みしめるような重たい足音が聞こえてきた。目を瞑っていても、大きな何かがゆっくりと近付いてくる様子が容易に想像できた。足音は少女のほんの少し前で止まった。明らかに人間ではない存在が今、自分の目の前にいる。
(助けて、助けて、助けて、助けて)
いつの間にか涙がぼろぼろと溢れ、足を抱えて座り込んでいる少女の膝を濡らした。今から自分はどうなるのか、恐ろしくて何も考えられなかった。ただひたすら家族や友人のことを思い、じっと耐えていた。
その時、ふわふわとした感触の何かが少女の体に触れた。驚いて身体が跳ね上がり、その拍子に思わず目を開けてしまう。すると、動物の尻尾のようなものが自分の身体を覆うようにふわりと巻きついているのが見えた。気が付くと周辺が目の前の何かに照らされ仄明るくなっていた。尻尾を辿り恐る恐る顔を上げる。暗闇の中に佇んでいたのは、一匹の大きな大きな獣だった。
(食べられる――っ!)
身体がガタガタと震え全身から冷や汗が吹き出す。自分の何倍もの高さがあろうかという獣がこちらを覗き込んでいる。体中が石のように強張り、恐ろしいのに獣から目を逸らすことができない。
(犬……? こんなに大きな犬がいるのっ……?)
獣の見た目は犬のようにしか見えなかったが、その風貌から狐かもしれないと考え直した。狐だと思わなかったのは、その大きな体躯もそうだが、全身の毛が黒かったからだ。それに一番分からないのが、獣の身体が炭のように燻っていることだ。炎も煙も上がっている訳ではないが、身体の至る所から橙色の火種が顔を覗かせている。焚火のようだと思った。焚火のような獣とはいったい何だろう。
怯える少女とは対極的に獣は静かに佇んでいた。しばらく見つめ合っていたが依然として尻尾を巻きつけたまま大人しくこちらの様子を伺っている。襲ってくる様子はなく、瞳に敵意を感じられない。穏やかな、不思議な瞳だった。前足をきちんと揃えてじっとしている姿がまるで飼い主の前でお座りをしている犬のようで、少女は少しだけ気を緩めた。
「温めてくれているの……?」
少女がおずおずと獣の尻尾に触れると、返事をするように頬を優しく撫でてきた。くすぐったくて少し笑ってしまった。柔らかな感触が心地よく、温かく、恐怖心が次第に和らいでいく。気が付けば涙は止まり掛けていた。
落ち着きを取り戻しつつある少女の様子を見て、黒い獣はゆったりとその大きな身体を屈めた。頭まで地に伏せて平らになっている。少女は困惑してしばらく何もできずにいたが、獣が鼻先で自らの背の方を指した時、彼の意図するところが分かったような感じがした。背中に乗れと言っているような気がする。
少女は立ち上がり、獣の身体に近付いた。顔を寄せて見てみてもやはり身体が燻っているのが分かる。触れたら火傷してしまうのではないかと思い、躊躇いがちに指先を獣の身体に当てた。反射的に手を引っ込めてしまったが、そこに想像した熱さはなかった。今度は手のひらを近付ける。じんわりと温かいのが分かって、ゆっくりと手のひらを押し当てた。尻尾とは違う硬い体毛の感触。その奥に獣の体温を感じる。
「……乗っていいの?」
言葉が通じる相手ではないはずだが、少女は自然と獣に話し掛けていた。目の前の獣に他の動物にはない知性を感じていた。
地に伏せているといっても背中までの高さが少女の身長以上はあり、簡単に乗ることはできない。体毛を掴むと痛いだろうと思い背に手を伸ばし勢いをつけて上がろうとしたが、腕の力が足りずに滑り落ちてしまった。それでも彼女が無理によじ登ろうとすると、獣が頭を寄せて彼女の身体をひょいと押し上げた。転がり落ちないように慌ててしがみつく。
少女が背に乗ったことを確認した獣が、ゆっくりと立ち上がる。体高三メートルはあるだろうか。改めてその高さに恐怖を感じ、必死に身を固くした。落ちたら軽い怪我じゃ済まないだろう。
獣が歩き出すと不思議なことに周りの木々が避けるように幹を反らし道を開け始めた。おかげで木の枝に引っかからずに済み、少女はただ背に乗っているだけでよかった。きょろきょろと辺りを見回すと、あの不気味な青白い炎も道を譲るように消えていく様子が見えた。すごい。みんなこの子をよけていく。
不思議な姿の穏やかな黒い獣。おとぎ話に出てくる獣の姫になったようで胸が躍った。この子はもしかしたら神様かもしれない。神様だから自分を助けてくれるんだ。
そんなことを考えながら獣の背中にしがみついていると、次第に瞼が重くなってきた。緊張と疲労で体力が限界に近かった。今寝てしまったら危ない―――そう言い聞かせ懸命に眠気を振り払ったが、少女の抵抗も空しく、次第に意識がまどろみへと落ちていった。
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