①-3

 連休明けの一週間も暑い日が続いていた。このまま夏に入ってしまうのではないかと思う程日差しが強い。梅雨入りすれば涼しくなるが、それまでは不安定な天気が続くと天気予報のキャスターが言っていた。

 金曜日の午後一番の授業は他クラスとの合同体育だった。体育館の真ん中にネットを張って境界を作り、男子はバスケットボール、女子はバレーボールの試合を行っていた。

「うおりゃああーー!」

 仁奈が豪快にスパイクを打って相手コートへとボールを放り込む。彼女の身長は百六十センチメートル程度とバレー部にしては小柄な方だが持ち前の運動神経で次々と攻撃を決めていた。

「仁奈ずる! バレー部なんだから手加減しろよ!」

「やっだよー! スパイク打つのたのしー!」

 相手チームからブーイングが起こり体育教師の溝口みぞぐちも「小岩井~他のメンバーにもボール回せ~」と仁奈を窘めた。控えのメンバーにずるずると引き摺られて強制的に交代させられる。コートの外で次の試合を待っていた潔乃の横に来て「せっかく試合でスパイク打てるチャンスだったのに」と口を尖らせた。

「仁奈ちゃん凄いよね、かっこいい!」

 潔乃が褒めると仁奈は「まあね!」と得意気な笑みを浮かべた。

「でも私の身長だとあんま角度付けられなくてショボいんだよねー。潔乃は背高くていいな、羨ましい」

 潔乃の横で背伸びをして仁奈が笑った。スポーツをする分には長身だと有利になることが多い。潔乃も棒高跳びを始める上で身長が高いことがプラスに働いた感覚はある。しかし気に入った洋服のサイズが合わない事が頻繁にあるので、そういう点では仁奈や小柄で可愛らしい美夜子が羨ましかった。

「そこまで高くないけどね」

「百七十くらいある?」

「ちょっと足りないかな」

 そんな会話をしていると、コートから外れたボールが大きく跳ね潔乃の横を転がっていくのが見えた。そのまま体育倉庫の方へ向かっていく。「私取ってくる」と言って潔乃はボールを追い掛けた。


 ボールを拾い上げ、倉庫から出ようとした瞬間だった。

 急に立ち眩み潔乃はその場に座り込んでしまった。心臓がドクドクと脈打ち、呼吸が乱れる。自分でも何が起こったのか分からないほどの急激な眩暈に戸惑いを覚える。最近暑い日が多かったから体調を崩したのだろうか……

 ゆっくりと目を開けると、そこは体育館の中心だった。

(――え?)

 どうして?

 全く理解が追い付かない。倉庫から出た先が何故体育館の真ん中なのだろう。

 混乱した頭で辺りを見回すと、他の生徒も、教師も、コートもネットも、忽然と姿を消していた。本能的に体育館の出入り口の方を振り返ったが本来あるべき場所に出入り口はなかった。それどころか倉庫も壇上もない。二階部分はそのままだが一階フロアは四方をただの壁に囲まれている。どう考えても奇妙な空間だった。

 足が震えて立てなかった。八年前のあの時と一緒だ。気付かぬうちに自分の知らない場所へ迷い込んでしまったのだと思った。何の前触れもなく、理不尽に。どうしてまた、という思いが頭をぐるぐると巡る。恐怖で全身が震え歯がカチカチと鳴った。

 不意に、体育館の二階ギャラリーに設置されている窓が揺れた。揺れたと言うより波打ったと表現した方が正しいかもしれない。窓の表面がゆらゆらと揺らぎそこからにゅっと、獣の腕のようなものが伸びてきた。

(――――っ!)

 現れたのは大柄な猿だった。一匹が窓から侵入すると堰を切ったように次々と他の窓からも猿が姿を現した。あっという間にギャラリーを猿たちが埋め尽くし、潔乃を見下ろした。全ての猿から鋭い視線が注がれる。潔乃は何もする事ができず呆然とその光景を眺めるしかなかった。

 猿の群れが一斉にギャラリーの柵を掴み、威嚇し始めた。キーキーと耳障りな声が体育館中に響き渡る。潔乃は耳を塞いで目を閉じ蹲った。怒っている? 何故? そもそもあの猿たちは何? どうして私はここにいるの――

 ドシン、ドシンと、何かが落下する音がした。猿が降りてきた? 確かめるために目を開ける勇気もなかった。こちらへ向かって大勢の猿が駆けてくる音が聞こえる。もうダメ、殺される――っ!

 これから自分の身に起こるであろう衝撃を覚悟したその時、潔乃の頭上で熱風が渦巻いた。轟々と音を立てて彼女の周りを吹き抜ける。それと同時にギャッ! という猿の悲鳴らしきものもあちこちから上がった。何か、とてつもない事が起きている予感がする。

 恐る恐る顔を上げると目の前に信じられない光景が飛び込んできた。いつの間にか大きな黒い塊が現れ、潔乃を庇う様に猿の群れに対峙していた。炭のように燻った黒い後ろ姿、ふわりとした長い尾、四足の大きな獣――

「かみ……さま……?」

 掠れた声が漏れた。目を見開いて、瞬きすら忘れていた。

 黒い獣が潔乃へ向き直る。厚みのある大きな耳にすらりとした鼻先。間違えるはずがない。目の前にいるのは、確かにあの時の黒い狐だった。

 狐が突如身構えると身体から黒い炎が吹き出しその身を包んだ。渦巻いた炎はやがて小さくなり人影のようなものを形成した。思いも寄らない事の連続で思考が完全に停止する。炎の渦から姿を現したのは、同じクラスの男子生徒、八柳彦一だった。


 彦一は放心状態の潔乃に近付いて身を屈めた。

「安心して。俺は君の味方だ」

 一言声を掛けると、すぐに立ち上がって猿の群れを見渡した。熱風に煽られぎゃあぎゃあと興奮状態の猿たちは今にもこちらへ飛び掛かってきそうだ。彦一は視線はそのままに「俺の側から離れないで」と、潔乃に注意を促した。

 猿たちは距離を取りギギ、ギギ、と牙を剥き出して威嚇をしてくる。異様な光景だ。これだけ多くの猿の敵意をかき立てるものとはなんだ? 自分が一体何をしたというのだろう?

 痺れを切らしたのか、群れの中から一匹の猿が飛び出すと潔乃たちを囲むように円形に待機していた猿たちが一斉に駆け出した。潔乃の口から引き攣った悲鳴が漏れ、身が竦んだ。しかし彼らが潔乃の元へ辿り着く事はなかった。

 ゴオッ――!

 黒い炎が唸りを上げて渦巻いた。潔乃と彦一を中心にして吹き上がった炎は、襲い掛かってきた猿たちの身を撫でて焼いた。逃げようとする者にも容赦なく立ち塞がり波のようにうねりながら広がっていく。猿たちはキィキィと情けない声を出し身体を覆った炎を手ではたいたり転がったりして消そうとした。あっという間に彼らの士気は下がり、混乱で逃げ惑う者たちで体育館の中は騒然としていた。

 どこか現実味のないその光景に、視界はぼやけ音は遠く聞こえる。それでも視線は目の前のクラスメイトの後ろ姿だけをはっきりと捉えていた。彼の黒い髪が風に煽られふわりと揺れている様をただじっと見つめていた。

 彦一は大きく息を吸った。

「そのまま伏して聞け! 私の名は天比熾神玄狐あまびしのかみげんこ! 貴公らは霧葉郷きりばきょうの山猿衆と見受ける! 人間への過度な干渉は黄金背こがねぜ殿に対する反逆行為と見做すが、一体どういう了見か!」

 凛然とした低い声が体育館に響く。張り上げているのに不思議と喧しさを感じさせない、威厳のある声だった。

 ビリビリと空気が張り詰めたような気がした。先程まで暴れ狂っていた猿たちが急に鎮まり返り、辺りに静寂が訪れた。

 少しの間沈黙が続いたかと思うと群れの中で一番大きな猿がおもむろに踵を返した。他の猿たちも戸惑いながらも大人しくそれに続く。器用に体育館の壁を登ると、現れた時と同じように二階の窓から消えていった。

(助かっ……た……?)

 脱力して倒れそうになる。早鐘を撞くように鼓動する心臓のせいで呼吸が酷く荒い。

 彦一が再び潔乃の方へ向き直り、膝をついた。「戻ろう」と言って右手を潔乃の目の前にかざすと、彼女の視界が急に暗転した。


「潔乃っ! 大丈夫⁉」

 目を覚ますと仁奈の青ざめた顔が一番に飛び込んできた。ぼやけていた視界が段々とはっきりしていき、仁奈や教師、他の生徒たちが自分を覗き込んでいるのが分かった。ざわつく周囲の声も聞こえる。

「頭は打ってないか? 先生の姿が見えるか?」

 溝口がしっかりとした口調で潔乃に問い掛け目の前で手をひらひらとさせた。

「だ、大丈夫です。最近暑かったので、少しくらっとしてしまって……」

 立ち上がろうとしてふらついた身体を仁奈が支えてくれた。溝口が「無理に立とうとしなくていい、休んでいなさい」と言って麦茶が入ったペットボトルを渡してきた。それを飲むと少し気持ちが落ち着いて、ぼうっとした頭がクリアになっていく感覚がした。

「小岩井、しばらく付き添ってくれるか? 先生は他の生徒に指示出した後伊澄を保健室に連れて行くから」

 溝口が「落ち着けー! 大丈夫だー!」と言って声を張り上げる。困惑して固まっていた男子も女子も少しずつ動き始めた。潔乃は男子側のコートを見渡し彦一の姿を探した。彼はこちらの様子をじっと伺っていた。区切られたネット越しに目が合う。すると視線を逸らし、試合に戻って行ってしまった。


 保健室のベッドに寝かせてもらいぼんやりと天井を見つめていた。溝口が養護教諭の百瀬ももせに状況を説明している声が聞こえる。

「伊澄、先生は授業に戻るから、何かあったら百瀬先生に言ってくれな」

 そう告げると溝口は保健室を後にした。代わりに百瀬が潔乃の元へ近付き、

「体調はどう? 良くなった?」

 と言って気遣う様な声を掛けてきた。潔乃が良くなりましたと答えると「ちょっと血圧測らせてもらうわね」と続けて、彼女の腕に血圧計のバンドを巻いた。腕の下にタオルを敷いて高さを調節し計測を始める。特に問題のない数値が出て百瀬はにっこりと笑った。

「大丈夫そうね。倒れることはよくある? それとも今回が初めて?」

「倒れたことはないです。自分でもびっくりしてて……」

「そう……じゃあ、連休明けで疲れが溜まってたのかもね。よく水分補給してゆっくり休んで。心配だったら親御さんに連絡するけど」

 少し休めば大丈夫と、百瀬の申し出を断った。本当に体調に問題はなく普段の自分と変わりはない。何もおかしくないのが却って変だ。先程の体験は一体何だったのか。仁奈から聞いたが、潔乃が体育倉庫から出てきて倒れ意識を取り戻すまでの間はほんの数秒だったそうだ。仁奈たちが駆け寄った時には反応があったらしい。でも、そんなはずはない。自分は体育館で大勢の猿に襲われ、黒い狐に助けられ、そしてその後確かに、八柳彦一の姿を見たのだ。

(こんなこと誰にも言えない……)

 天井から下げられたカーテンを閉めてもらいしばらく一人で考え込んでいた。教室に戻ったら八柳君に聞いてみようか。でもまず何から聞けばいいのだろう……

 すると、ドアの外から「失礼します」という男子の声が聞こえてきた。その声に思わず心臓が跳ね上がる。八柳君だ。緊張で汗がじわりと滲んできた。

 彦一はガラガラとドアを開けると「伊澄さんはいますか」と百瀬に問い掛けた。

「いるけど、休んでるわよ。それに今授業中でしょ? ここは私に任せて貴方は授業に戻りなさい」

「話がしたいんですが」

「後じゃだめ? 伊澄さんは体調が良くないのよ」

「……できれば今がいいです」

「急ぎの用事かしら。それなら私が代わりに聞くけど」

「…………」

「急ぎじゃないならまた後で」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 潔乃は勢いよくカーテンを開けて二人の会話に割り込んだ。面食らったような表情の百瀬に「私は大丈夫だから、話をさせてください」と頼み込む。きっと八柳君はさっきの出来事を説明しに来てくれたんだ。すぐにでも彼の話を聞かなければいけない気がする。

 百瀬は「ふ~ん……」と意味深な笑みを浮かべると「分かったわ。少しの間だけね」と言って保健室から出て行ってしまった。何やら勘違いされた予感がするが今はとにかく彦一の話を聞くことを優先した。

「気分はどう?」

 落ち着いた低い声で彦一がそう尋ねた。潔乃が「もう大丈夫」と答えると彦一は「そっか」とだけ呟きベッドの横に置かれた丸椅子に座った。

 二人ともしばらく黙っていた。沈黙が気まずい。自分から話を切り出した方がいいのだろうかと潔乃が口を開こうとすると、

「……さっきのことだけど」

 と、彦一が先に話し始めた。潔乃は身構えて彼の言葉を待った。

「落ち着いて聞いてほしい」

 躊躇いがちな口調で前置きをする。次に続いた言葉は、潔乃の想像を遥かに越えた内容のものだった。

「君の心臓が、物の怪に狙われている」

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