個別エピソード 軽巡・矢矧

 対馬基地図書室。対馬基地の本棟内にある図書室に矢矧はよく通っていた。

 読んでいるのは軍記物語や戦記、戦術所や兵法書などが多い。対レイン・クロインで用いられた作戦概要書なども読んでいる。

「あ、矢矧さんはやっぱりここにいましたね」

「これは閣下」

 やってきた笹栗に対してう矢矧は立ち上がって敬礼。笹栗もそれに返しながら矢矧のところにやってくる。

「信濃さんがどら焼きを作ったんです。一緒にいただきませんか?」

「は! ご相伴させていただきます!」

 矢矧の生真面目な返答に笹栗は苦笑。

 笹栗は他の面々とは打ち解けてきた実感はあったが、いまだに矢矧とは若干の距離を感じていた。

「片付けるの手伝いますね」

「は! ありがとうございます!」

 矢矧の返答を待たずに笹栗は机の上に置いてあった書物の山を持ち上げる。その山を見て笹栗は感心してしまう。

「勉強熱心ですねぇ」

「は、近代の兵法書などには驚かされます」

「歴史のものにも目を通されているんですね。平家物語、源平争乱紀、孫氏の兵法書、史記、ガリア戦記、君は僕のもの、ナポレオン戦線従軍紀……あれ?」

 どう考えてもおかしなものが挟まっていたことに気づき笹栗は視線を本の山に戻す。

 平家物語……平家の栄枯盛衰が書かれた日本文学

 源平争乱記……源氏と平氏の戦いの記録

 孫氏の兵法書……現代にも通じる兵法書

 史記……中国の史書

 ガリア戦記……カエサル自筆のガリア戦争の記録

 君は僕のもの……所謂俺様系ヒーローの女性向け小説

 ナポレオン戦線従軍紀……一般兵士から見たナポレオンが書かれている

 笹栗はその中でどうみても異質な『君は僕のもの』を取り出す。内容は知っている。士官学校の同期の女性徒の一人がドハマりして布教を食らったからだ。

 笹栗は矢矧を見ると顔を真っ赤にしていた。

「好きなんですか?」

「違うんです閣下!」

 笹栗の言葉に真っ赤になって否定する矢矧。

「これは……その……あれなんです! そう! ガリア戦記の隣に入っていてたまたま一緒にとってしまったんです!」

 笹栗が本棚を見ると綺麗に整頓されていて本の種類が混ざるということはなさそうである。

「いえ、別に私は艦嬢の皆さんの趣味にまで口は出しませんよ?」

「本当に違うんです! これはたまたま……本当にたまたま混ざっていたんです! 自分は読んでいません!」

「なるほどなるほど」

 矢矧の言葉に優しい笑顔を浮かべながら頷く笹栗。それを見て矢矧は益々焦る。

「本当なんです! 本当に自分は読んでいないんです!」

「あ~、はいはい」

 矢矧の言葉に頷きながら笹栗は口を開く。

「友坂くんと一ノ瀬くんだったらどっち派?」

「閣下、それは間違いなく一ノ瀬くんかと。幼い頃からひつじちゃんを見守り守ってきた一ノ瀬くんこそが王道だと思います」

 無言の空間。

 笹栗もはめたつもりは微塵しかなかったが、見事に矢矧は釣られた。

 己が何を言ったのか自覚したのだろう。矢矧は顔を真っ赤にしてしまっている。

「矢矧さん」

「違うんです、閣下!」

 未だに違うと言い張る矢矧の肩を笹栗は優しく叩く。

「大丈夫です矢矧さん。この作品は軍の女性のみならず艦嬢の皆さん……というかブームになったきっかけは艦嬢の一人がインタビューを受けた時に紹介されたからです。今では世界各国で翻訳版が出るくらいに広がっています」

 笹栗の言葉は事実だ。売り出された当初の人気は低かった作品だが、艦嬢の一人(当然日本艦艇)がインタビューを受けてはまっているものにこれを紹介。そこから一般にも爆発的に広がったのである。

 今では世界の艦嬢の八割が読んでいるとまで言われている。

 そして矢矧は顔を上げる。

「閣下」

「なんでしょう」

「恥ずかしながら自分はこの作品が大好きです」

 矢矧の言葉に笹栗は黙って話を聞く。

「友坂くんの俺様ムーヴにキュンキュンしたり一ノ瀬くんとの甘酸っぱい空気にふわぁぁ、ってなったりし、ラストは号泣しました」

「その感想もよく聞きます」

「そして今のところ三回ほどシリーズを読み直しましたが五回泣きました」

「泣きすぎですね」

「閣下」

 そして矢矧は笹栗の肩を力強くつかむ。

「この作者さんの新作などはないのでしょうか……!」

 鬼気迫る表情での言葉である。よっぽどはまったのだろう。

 笹栗的に言えば筋トレしか趣味がない那智や無趣味な浜風に比べたら断然いい趣味だと思うので自分が持っていた端末で作者の情報を調べる。

「あ~、新作……ではなくて他作品ならありますね」

「読めますか⁉」

 矢矧の食い気味発言に笹栗は端末で対馬基地の蔵書情報を調べる。

 そして顔を顰めた。

「対馬基地にはありませんね」

 その言葉に矢矧は崩れ落ちる。普段からキリっとした雰囲気が多いだけに新鮮だ。

「矢矧さん」

「神は死んだ……」

 笹栗の言葉に気づかずに神を呪う矢矧。日本では付喪神の一種だと考えられている艦嬢のセリフではないかもしれない。

 だが、笹栗の端末の画面を見て矢矧の顔色が戻る。

「通販で注文しました。速達便で注文したので、対馬という辺境を加味しても三日で到着するでしょう」

「閣下!」

 嬉しかったのか笹栗に抱き着く矢矧。笹栗も矢矧の豊満な体に一瞬だけ邪な思考が入るが、即座に笑っていない艦嬢教官・香取の笑顔を思い出してひっこめた。

「閣下! この矢矧! 閣下に一生ついていきます!」

「矢矧さんの一生が安上がりすぎるでしょう」

 笹栗の言葉を気にせず、上機嫌に君は僕のものの一巻を開く矢矧。もはや取り繕うこともやめたらしい。

 笹栗も矢矧の向かいに座って史記を開く。

 しばらく無言の空間が広がっていたが、何かを思い出したかのように矢矧が口を開く。

「そういえば閣下。この作者さんはまだ執筆活動をしているんですか?」

 その言葉にものすごく言おうかどうか迷った笹栗であったが、調べたら一発で出てくることでもあるので仕方なく口を開く。

「亡くなりました」

 その言葉に矢矧の顔が絶望に染まる。

 意外と表情豊かだなぁ、と思いつつも笹栗は言葉を続ける。

「南シナ海に取材旅行に行った際に、船が潜水型レイン・クロインに襲われ沈没。亡くなったそうです」

 そして矢矧のレイン・クロインに対する怒りの怒声が対馬基地に響き渡ったのであった。

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