第103夜 カーナビの百合 「近道を知っている」

カーナビの声が美しいから、車を買い替えられないでいる。母から譲り受けた軽である。古い車なだけあってカーナビも古く、地図が更新されないため時には現実に無い道を示される。でも、新車にすればこの声とも別れることになるのだ。昔からコンロの熱で溶け傷のついたザルだとか、油性ペンで顔を描いた乾電池だとか、他愛ないものに不思議な愛着を持っていた。そういう性分なので、仕方なかった。


 私はカーナビを特別に愛した。どんなに慣れ親しんだ道を走るにしても、彼女に道案内をせがんだのだ。カーナビは荒い画面の中に赤色の線を引き、到着までの推定時間を揺らしながら私を導いた。曲がり角までの距離を十メートル刻みで逐一教えてくれた。


 食欲のない朝のことだった。退職者の穴埋めで残業続きだった私は、わかりやすく摩耗していた。車に乗り込み、慣れた手つきで会社を行き先に指定したけれど、なかなか経路検索が終わらない。ようやく示された目的地には、ただ一文字「海」とあった。


 私は導かれる通りに走った。会社へ背を向けて走り続けた。車内を吹き抜ける風は爽やかだった。カーナビは時折休息を促し、私はそれに従って車を停めた。電話が鳴りやまないからスマホの電源を落とした。今聴く声は、カーナビのものだけでいい。


 辿り着いたのは夜の街だった。海を埋め立てて作られた都市だ。カーナビの地図は古い。けれど、ここが目的地なのだ。この夜景こそが、私たちにとっての海なのだ。

 

 

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