第30.5話 ウィスティリア・ロビウムは傍にいたい
「八歳の姫に仕えろだあ⁉」
五つ上の兄から告げられたことが信じられず、声を荒げて言われたことを繰り返す。
どうか俺の聞き間違いであってくれと思ったが、そうではないらしい。兄はゆっくりと頷いた。
「その通りだ。彼女はつい最近まで心を病んでしまっていてね。回復したばかりだから支えてくれる人が必要なんだよ」
「んなの、なおさら俺じゃねえほうがいいだろっ! メイドか看護師でもつけとけよ!」
「メイドの仕事も看護師の仕事もお前一人で賄えるだろう。おまけに警護だってできる」
「警護もちゃんと警護人つけとけよ!」
「つけてたさ。ファルコンの一人をね。でも彼らの仕事は姫の警護じゃない。そう長くはつけておけなくて、警護の任はもう解いてあるらしい。件の姫は今フリーなんだよ」
「だからってなんで俺が八歳のガキに仕えなきゃなんねえんだよ……」
「お前がいつまで経っても主人を選ばないからだろう。お前ももう十九だというのに、いつまでもふらふらと……ロビウム本家の人間がそれでは分家に示しがつかない」
「はあー? 俺自身が主と決めた王家の人間に仕えたらいいって話じゃないんですかあ? それがいつから年ごろだからさっさと働けなんて言われるようになったんですかねえ?」
「つべこべ言うな! 王から姫にロビウムの人間を付けろとお達しなんだ! お前は素行は悪いが実力は申し分ない。お前ほどの者を付ければ王も安心為されるだろう」
「俺はガキのお守りはしない」
「ぐだぐだぐだぐだと……わかったわかった。そんなに言うならとりあえず行ってみて、姫と合わなさそうなら別の者を見繕おう。俺も手ごろな者を考えておく」
「その言葉、違えるんじゃねえぞ」
「はいはい」
「よっしゃ決まり! さっさと行ってすぐ帰るとするか……あ、それで、その姫の名前は?」
「アナスタシア姫だ。しっかりやれよ――ウィスティリア」
――そうして姫様と出会って、早十年になる。
最初は勝手に姫様に仕えることを決められて腹を立てていた私は、そりゃあ酷い態度を姫様にとったものだった。
早く姫様から嫌われて、別のロビウム家の人間に変えろと言われることを期待していたのだ。
あの時のことは今思い返しても臓腑がキリキリと痛む。
でも姫様は、どれだけ私が酷い態度をとっても別の人間に変えることはしなかった。逆にくすくすと、面白そうに笑ったのだ。
「生まれてからずっと、甘やかされて育ってきたの。それに臥せってからというもの、もっとみんなが甘くて。だから貴方の態度はとても新鮮で、なんだか楽しい」
そう言って笑われてしまえば、毒気も抜けるというもので。
全く姫様は、人を惚れさせるのがお得意なのです。
以降仕えてからというもの、私は姫様のお世話を一手に担うようになった。
姫様を朝起こすのも、私の仕事の一つだ。
朝の姫様は、いつもと違いとてもだらしない。
自分から起きてきたことはほとんどないし、起こしたとしても、後五分などと言って中々ベッドから出てきてくれない。
いつもしっかりされている姫様の願いを聞いてあげたいが、姫様のためにもそうは言っていられない。
私は心を鬼にして姫様をベッドから引きずり出す。
そうしてなんとかベッドから出し、服を着替えさせて髪を整える。
普通は侍女がやる仕事だが、姫様は多くの人間に仕えられることを好まないし、私自身、姫様の事は全て私がやりたいので幸福な時間といえる。
そうして朝の支度をしている間、姫様は色んな話をして下さる。
昨日見た夢や、今日はあれが食べたい、あれをしたい。そういえばあの仕事が残っていた等々、本当に色んな話だ。
それから、別の世界の話も。
その世界は飛竜がおらず、その代わり飛行船よりも早く、飛竜よりも高く飛ぶ乗り物が多くの人々を色んな場所や国に運ぶのだという。
姫様はその世界を、前世と言った。
前世には今より便利な物が多く、娯楽もたくさんあったと。
それから今いる世界は前世では書物に書かれて出版されていた世界なのだとも言った。信じがたい話だが、姫様が言うのならそうなんだろう。
一度、姫様に聞いてみたことがある。この世界に生まれるより、前世で生まれた方が良かったですか、と。
言ってみて、直ぐに後悔した。
姫様は前世の話を楽しそうにされるし、もし今より前の世界の方が良かったと言われてしまったら、私はどうしたら良いのかと。
でもその心配は杞憂だった。姫様は悩む素振りも見せず、首を振っておっしゃった。
「私はこの世界で生まれてよかった。だって、お父様もお母様も、お兄様達の事も、私は愛しているし、愛されてる。この世界じゃなきゃ、みんなに会えなかったんだから。それに、ウィスにも。だってウィス以上に私を理解して支えてくれる人なんて、前の世界にもいなかった。ウィスに会えてよかった。大好きよ」
その言葉を聞いて、私は泣いてしまった。姫様はきょとんとしていたけど、私の頭を撫でて笑って涙を拭って下さった。
一生、この人に仕えていこうと思った。変わらずに、愛していこうと。この人の居場所であろうと。
姫様。私も姫様が好きです。大好きです。
ずっと、姫様のお傍で、姫様のお世話をして、姫様をお守りできれば。
それが、私の願いで、幸せなのです。
「ごめんなさい、ウィス」
姫様? どうして謝られるのですか?
「私、レイヴンと結婚するの」
そ、れは……いえ、いえ! とても喜ばしいことです!
「ごめんなさい」
姫、様?
「これからはレイヴンがいてくれるから、ウィスはいらないわ」
そんな! 私は、姫様のお傍にいられるだけで、それが、幸せで……!
「さようなら、ウィスティリア」
お待ちください! 姫様! 姫様!
「ひめさま!」
手を伸ばせば、目の前には天井が見えた。
起き上がり辺りを見回して、ここが倉庫らしいことを把握する。当然そこには姫様はいらっしゃらなかった。
「ゆめ……」
ほっと息を吐き、じっとりと汗が浮かんだ額を拭った。
とんだ悪夢だった。まだ心臓がドキドキと早鐘を打っている。前半は懐かしい夢だった気がするが、後半がとんでもない。
「姫様があんなこと、おっしゃるはずが……」
そこではたと止まる。そうだ、姫様が捕まってしまったのだった!
悪夢のせいで思考が上手く定まっていなかった。
そうだ、姫様が罠にかかり、私も脅されて捕らえられ、ここに放り込まれたのだ。その時に何か嗅がされたが、そのせいで眠ってしまっていたようだった。
とはいえ、ロビウム家の人間は少なからず薬物への耐性がある。そこまで深く眠っていなかったはずだが、さて、どれぐらい時間がたったか……。
時間を知ろうにも、手足を縄で拘束されていて動けない。と、いうことは全くない。
体を反らせて靴底から隠しナイフを取り出すと、手早く手足の縄を切った。
ロビウムの者を捕まえるには裸にでもさせたほうが賢明といえる。それとも眠らせて油断でもしたか。
懐中時計で時間を確認したが、さして時間は経っていない。
早く姫様をお探しして脱出しよう。姫様は下に落ちて行った。であれば地下への道を探さなければ。
この部屋に唯一ある扉に耳をつけてみると、向こうから何やら人の話し声がする。これは中から行くのは無理そうだ。
では外か。窓を開けてみると、どうやらここが二階だったことがわかる。この建物が美術館であるため天井が高く、二階とはいえそこそこの高さがあるようだ。
だが脱出する
先ほどまで私を拘束していた縄を繋ぎ合わせ、一つの縄にする。部屋にあったテーブルを窓まで運び、テーブルの脚に縄を結んだ。
そして部屋にあったいくつかの木箱を重しとしてテーブルに乗せる。あとは縄を使って下に降りていくだけだ。
とはいえ手足を拘束していただけの縄は案外短い。地上につく前に途切れてしまったが、途中まで降りられれば重畳。飛び降りて地面に着地した。
さて、見つからずに地下に入れる場所はあるか……。
しばらく美術館の壁に沿って歩くと、話し声が聞こえた。慎重に近づき、そっと陰から覗く。
そこにいた人物に、私は驚きの声を上げることになった。
「レイヴン・バッキンガム……!」
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