灰色の腕

 世界は三つある。少なくともオレはそう認識している。海、陸、空。どの世界も、共通していることが一つだけある。

 繋がっている、という事実だけは覆らない。オレの商売は海無しには成り立たたずかといって空の連中が食いに来ないわけじゃない。全て、同じ星の上で生きている。


1


 直角に並べた細長いキッチンの先端に巨大な保冷庫。日に焼けた天幕の中はかなり蒸し暑く、巨大な扇風機で店内に風を通さなければ、あっという間に熱中症になる。特に魚形は危険だ。稀に変温性の体質を持っている客が居て、この前そいつは店内で盛大にぶっ倒れた。

 海の中で生きるならそれに合わせて食性も変えて欲しかったが、そこまで陸の上で食事を摂りたいと望まれるなら料理人冥利に尽きる、とも思う。

 二律背反は成立するからこそ難しい。繋ぐものが必要だ。


 左一腕で保冷庫を漁りつつ左二腕でまな板を用意。朝一番に磯魚為いさない達が採ってきてくれた新鮮な魚だ。無駄にするわけにはいかない。

 左手二本で手早く捌きつつ、右は両腕とも別の食材に取り掛かる。十一番島は良い野菜を作る農家があったが、この前の嵐で農地ごと吹っ飛んだ。新しく働き先を用意してやってほしいもんだ。できれば農家を続けてほしい。あの野菜がまた欲しい。

 人参をとんとんと切りながら、鯖の内臓を取り出す。捌いてから香辛料をまぶしてしばらく冷やしておかないと料理に出せない。その間にスープの仕込みだ。昆布を水に浸してここから半時待つ。空いた腕を洗い具材を更に切っていく。大鍋一杯になるくらい具が整った頃には出汁昆布が水に馴染んでいるはずだ。

 保冷庫の逆側先端にある竈は、麻紐に火打ち石で火を入れる。あまりにも火が強くなりすぎないよう薪の高さを調節しながら、残った腕でにんにくをスライス。二台目の竈は中火に調整してフライパンを熱する。鉄を熱に馴染ませる。


 鼻歌交じりに日課をこなしていると、もう聞き慣れた声が遠くから元気に響く。

「イームーノーさーん!」

 昆布鍋の湯に注視しながら、声の主に煤だらけの手で応じる。

「おはようございます!」

「おはようさん。またロウロさんとこに勉強会か?」

「はい!」

 真っ黄色の目立つ髪に、これまた特徴的な緑の瞳の女の子。

「ライラちゃんは偉いな。おじさんがライラちゃんくらいのときは学校にも行かずに遊び回ってたもんよ」

 へへへ、と少し自慢げに笑う彼女は、一節半年前から漁場の人気者だ。


 なんでも、長鰭の旦那に弟子入りはしたが、魚形にはならないらしい。海人を守る仕事に就きたいと言って憚らない。歳は二十一節だそうで、人懐こく物覚えもかなり早い。何より屈託が無く素直で、自分含めた大人連中からは大層可愛がられている。学校のほうは二十四節までの必須単位を全部取りきって悠々自適に勉学に励んでいる

かなりの秀才だ。贔屓目に見れば天才だと言い切りたいが、生憎そういう事を言って良いのは育ての親と相場が決まっている。近所付き合いをしているだけのオレが口にしていいほど軽い褒め言葉じゃない。


「ちょっと待っててくれよ。まだ仕込みの最中だ」

「目で盗んで良いですか!」

 んなことしなくても教えるよ、と言って今日のレシピを差し出す。特段、秘密の技なんて持ち合わせてはいないただの屋台だ。ただちょっとばかし店の暖簾が古いから辺りの屋台連中を取りまとめる役になっているだけ。長鰭の旦那もそれをよく解って預けてくれている。この子の本分は料理じゃないから、簡単に作れてかつ栄養のあるものを食べて貰えばそれでいい。もっと言えば、元気に育ってくれれば何だって良いと思っている。

 つまりそれだけウチの料理は手軽で、海の奴らにも空の連中にも受けが良い。


 半時水に漬けた昆布を沸騰直前の鍋から取り出しながら、保冷庫の中にあった鯖をフライパンの上に並べていく。にんにくは先に取り出してパンの上に一つずつ並べておく。ライラちゃんのぶんはにんにく抜き。彼女は自身の身なりや香りをかなり重視している。初めて食べて貰った時は「朝からにんにくはちょっと」と言われる始末。人と会う時にあまり強い匂いを発したくないらしい。陸住まいの中でもオレはかなりぶっきらぼうな方だと自覚しているが、他人にどう見られるか、どう感じられるのかこの歳できちんと考えている彼女とは大違いだ。料理は見栄えと匂い、そして味だ。そう考えれば気持ちも伝わる。

 伝わりゃ良い。解るところまで深くなくて良い。判れば良い。


 判っているのでにんにく抜きのパンにオリーブオイルを塗りながら焼いた鯖の身をひっくり返していく。火が通ったら切った玉ねぎとレタスを一緒に挟み、店内で端末を睨んでいるライラちゃんへと渡しに行く。

「ありがとうございます、イムノさん」

「スープはもうちょっと待っててくれ」

 はい! と元気よく答える彼女。父親の資格があったら自分も子どもを迎えていただろうか。まぁ、そんな益体もないことを考えても今更だ。

 スープも材料を煮込んで灰汁を取っただけの簡単なもの。漁場の皆は美味い美味いと言いながら食うが、それは比較対象が酷いだけの話だろう。磯魚為だけじゃなく、養魚網やなあみ連中ですらその辺の魚を丸呑みにして昼飯としている始末だ。んなもんと比較して不味かったらとっくに廃業している。

 まぁこの辺の食糧事情が雑なのは史上初めての災害の後だ。ある程度は仕方ない。さておき、一番雑なのが長鰭なもんだからロウロさんには改めて欲しくもある。


 そうこうしているうちに、客が何人か店に入ってきた。底鉱掘てこほりの奴らだ。

「大将、もうやってるかい?」

 大体がE型以上の大きさで、全員筋骨逞しい。O型のオレよりもデカく見える。が、

「あら、おはようライラちゃん」「今日も元気だねぇ~」「おはようございます!」「今日もロウロの旦那のところ?」「偉いねー」「ライラさん、隣いいですか!」

 まぁこんなもんだ。二十節ちょっとの子どもなんて珍しいから、誰もが猫なで声を上げる。普段は野太い声で怒鳴ってんだが喋ってんだが判らねぇようなやつらなのに小さな子がいると途端にこうだ。釣人でも無いから仕事の邪魔にはならないし何よりみんなから慕われ、敬われている長鰭の旦那の子どもみたいなものだ。とりあえず、で猫可愛がりしてもいいと思っている。

「おうお前ら、ライラちゃんいじって遊ぶのは大概にしとけ」

 釘を刺す。タガネにハンマー、ピッケルなんかを持った強面どもが揃いも揃って、小さな子を囲っていたら普通は怖がる。

 問題は、ライラちゃん本人は全く怖がらないというところにもあるのだが。

「牛や猫じゃねぇんだぞ、他所様んとこの子だ。飯ならそろそろ煮上がるから少しは待て」

 三々五々に散っては席に着く筋肉だるまどもを睨みつけ、肝心のライラちゃんへとスープを渡す。

「ほいよ。熱いから少し冷ましてからにしな」

「はい、ありがとうございます!」


2


 ふうふうと息を吹きかけて熱を冷ますライラちゃんを尻目にひたすらスープとパンを作り続ける。朝の少し遅い時間、底鉱掘たちを相手に、百節以上作り続けた食事を出す。毎日メニューは少し変わる。磯魚為と養魚網の持ってくる魚や貝次第だ。別に昨日と違っても誰も何も言わないが、材料によって少しずつ調理の方法は違う。日によってスープの内容も違う。当然だ。メインの魚が違うのだから、サブの汁物も当然別物になる。

 何事にも調和というものがある。

 まぁ、食うやつらが気にしているかどうかは不明だ。文句を言われた事もない。

 ただ自然にそうであるから受け取っているようにも見える。

 何もない日々というのは失ってから大事だと解るのだろう。

 これも推測にすぎない。オレは大きな何かを失った経験が無い──いや、無いわけではない。要らないだろうと切り捨ててそのままにしてあるだけだ。


 朝九時の鐘が鳴る。底鉱掘たちはとっくに出て行って、飯屋は暇な時間になる。

「ロウロさんはまだ起きないかい?」

 ライラちゃんが使ったどんぶりや皿、箸を受け取りながら聞いてみる。ここに居るということはまだ長鰭の旦那は寝ているということなのだろう。相変わらず寝坊助な男だ。あれでも一応、親の資格を持っているのだから驚きである。

「うーん、連絡無いです。まだちょっとだけ居てもいいですか」

「いくらでも。今は何を調べてるんだい?」

 ひょいとライラちゃんの【図書館】端末を覗き込む。

 そこには、魚形の生態について図示された本が開いていた。


浜鰭はまひれ沖鰭おきひれの違いってなんでしょう」

 なるほど、そりゃ解らんわけだ。

「それなぁ、本に載ってないんだよ」

 そうなんですか、と緑色の瞳を輝かせる。本にない知識を聞くと必ず、彼女は目を輝かせて前のめりになる。好奇心旺盛なのは良いことだ。


「浜鰭も沖鰭もいわゆる俗語ってやつよ。体の造りに違いは無いんだ」

「無い」

 うなずく。そう、差は無い。

 ぽかんとしたライラちゃんの顔と向き合う。

「普通の魚形──磯魚為、養魚網、底鉱掘ってのはだいたい、肋骨の隙間に鰓があるよな。で、首と胸だけ隠す肌着に、陽射しを避ける羽織物姿だ」

「そうですね。羽織物は泳ぐ時に脱ぐんですよね。着衣泳、学校でやりましたけど、あれはちょっと大変でした」

「そう。で、邪魔にならないよう肌着は体に貼り付くやつだ」

 はい、と再びうなずく金色の髪。

「肋骨の鰓まで服があると呼吸の邪魔んなるからな。魚形は基本、全部そうだ」

 彼女にとって一番近しい長鰭だけが例外なので、これまた受け入れが難しいのではあろうが、仕方あるまい。


「同じなのに区別するんですか?」

「そう。これは縄張り意識みたいなもんで、浜鰭の連中はだいたい島から一キロ未満の距離で活動してる」

 職業は関係ない。どれだけ島と遠いのか、だ。

「沖鰭の人たちは一キロ以上が目安なんですね」

「そう。なんでか知らんが、あいつらの中ではそういう区分けになってる」

「でも体は同じ、ですか」

「一番違うのは心のほうだろうなぁ」

 心。首を傾げるライラちゃん。

「島とか【母】灯台ってのは、拠り所でな。欲しいやつと要らねぇやつ、両方いる」

「お家が無いと困りませ──困らない人いましたね。そうか、なるほど」

「ま、沖鰭の中には地面の上じゃなく、海中で巣と言い張ってるやつもいるわけで」

「はい。おじさん、起きてきませんね。多分巣の中で寝てるんだろうな」

 あの人が一番顕著だ。ライラちゃんがここに来るまでは、浜に上がる日なんてほぼ無かった。

 災害で長鰭の最大の仕事、惑星探査がオシャカになってからというもの、ロウロの旦那は沖鰭とほとんど同じ仕事をしている。それでも日に一度は島に帰って来る。

 陸人の身からすれば良い習慣だと思うが、本人はどう思っているんだか。

 沖鰭の──海人の考えは陸人には解らない。まぁ、別に良い。理解はそこまで重要じゃない。

 一番大事なことは他にある。繋がりがあることそのもの。それだけだ。


「隣、座るよ」

「どうぞどうぞ」

 彼女は小さな背を少しずらしてくれる。そんな必要もないくらい長い椅子と大きなテーブルだ。気遣いは嬉しい反面、少し心配にもなる。ちゃんと居場所はあるのか。

 自分の手にはスープとパン。客足が遠のいたこの時間にようやく朝食だ。

「コックさんて大変なんですね」

「客に出すのが優先の商売だからな。まぁ、慣れたもんよ」

「いつもすいません、忙しい時にばっかり、」

「そういうのは良いんだって。むしろ、忙しくない時間に来られたんじゃこっちの飯食う暇が無くなっちまう」

 俯く彼女の頭を左二腕の手のひらで撫でる。さらさらとした髪の感触。

「だいたいな、オレみたいな陸人より、海人のほうが優先されるべきなんだ」

 どういう意味ですか、と問う緑色の瞳。


「オレたち陸人ってのはごく一部を除けば、海にも空にも出られなかった爪弾き者が溜まりがちでな」

「そうなんですか」

 きょとんとした顔で見上げてくる小さな子。

「手の連中みたいに子どもの頃から優秀なやつだけが選べる形質だったり、脳とか角みたいな覚悟を持ってその生き方を選んだやつらだったりは別だがよ」

 そうじゃない、持たざるものが圧倒的に多い。

「形無しの風読みやら商人なんかを見たことないか?」

 あります。そう言って頷く彼女。まだその意味が解りきっていない、そんな顔で。

「ああいうのは、自分のあり方を決められなかった連中だ。けどよ、だからって何も悪いことばかりじゃない。島の中は安全だからよ」

 空を飛ぶほど目指したい先があったわけでもなく、海に潜って生きるほどこの星と繋がれなかった、曖昧な立場の連中。

「まぁそれでも、オレみたいな何の努力もしてこなかったやつ、できなかったやつと海人、空人に価値の差ってのは当然ある。少なくとも、オレはそう考えてる」

 腕を生やしたのだって、楽な選択肢を選んだだけだ。男になった理由も特にない。生きなければ行けない以上、形無しは避けたかった。何かしらで得意な物事があったほうが楽だ。男を選んだのも陸の上なら筋力があったほうが生きやすいだろうとだけ思ったからだ。深い考えがあったわけでもなく、誰かのために決めた性別、特質でもない。ただ利己的に、短絡的にそう思っただけ。


「私はそうは思いません」

 ライラちゃんは毅然と言い切る。

「そうかい?」

 無為に、とは言わないまでも、明確な指向性を持たず生きてきた身分だ。だから、命を賭けた生業をせずにいる。

「灯台が必要な人はいつだっているんです。イムノさんはここにいます」

 私は帰る場所を失くしたから、と顔を上げ虚空を見つめる彼女。

「だから、魚形の、みんなの帰ってくる場所を守ってる人は、とても大事なんです」

 呟くような彼女の言葉は、悲鳴のようにも、言い聞かせているようにも感じる。

 オレにだけではない。

 彼女自身に、だろう。

「島が失くなって、父さんが居なくなって、私の居場所が消えてしまって、そうして初めてわかったんです。陸の上は空と海の間にあって、全部が繋がる場所だって」

 だから、と体ごとこちらを向くライラちゃん。

 この子は、とても強い。

「私が嵐をなんとかできるようになるまで、イムノさんはみんなの帰る場所を守ってくれませんか」

 スープにもパンにも口をつけずにいたオレに彼女は手を差し伸べて、

「ほら、食べてください。みんなのぶんだけ作って自分が食べないなんて。そんなの絶対だめですよ」

「百節以上も歳の離れた子に言われるなんてな」

 我ながらおかしくて笑ってしまう。

 つられて一緒に彼女も笑う。

「おじさん、言ってました。生きる場所を決めたかどうかは、自分でも解ってない人もいるって。でも、誰にでも必ずどこかにあると私は思うんです」

 救われないと思っても。顧みられないと感じていても。

「そこにいていい理由なんて、自分が決めればそれでいいんです」

 だから、と立ち上がってオレの腰ほどしかない女の子は口を開く。

「イムノさんの料理、私は好きですよ。悩んだら、私のためにご飯作ってください。私のためにレシピ教えてください。みんなにご飯を振る舞ってください。私は、嵐と戦います。イムノさんは、戦う私を守ってください。嵐に負けないみんなの居場所を営んでください」

 きっとそこが、命の在処ですよ、と──。

 そう言って、彼女は月のように微笑んだ。


3


 視界の端に通知が来る。同時にぴこんとライラちゃんの端末が鳴る。

 ロウロの旦那がようやく起きたようだ。

 時刻は既に午前十一時過ぎ。ライラちゃんは洗い物の手伝いまでしてくれた。

 いい歳した大人が雁首揃えて、何やってんだかまったく。

『旦那、流石に今日は遅すぎやしませんか』

『済まない。半眠のつもりが全眠になっていた』

 道理で遅いわけだ。

「イムノさんもおじさんも、その眼良いなぁ。成人しないと入れちゃいけないんですよね?」

「成長途中の身体には負担があるからね。大人になるまでゆっくり待ちな」

 大人になったら両目に入れます、と鼻息荒く宣言する彼女を尻目に、

『というわけで旦那。そろそろ交代の時間ですぜ』

『ありがとう、イムノ君。私はせいぜいライラに怒られるとしよう』


「じゃあ、行ってきます!」

 そう言ってテントから出ようとする彼女に、ちょっと待ちなと声をかける。

「ほら、できたてのほうがいいだろ」

 新しい弁当を二人分持たせて、

「それと、おまけ」

 焼いたクッキーを手渡す。

「二人で食べてくれ」

「駄目です」

 受け取りこそするものの、拒否の言葉を発する彼女。どういうことだ?

「はい!」

 そういって、ライラちゃんはクッキーを一枚取り出し、オレに手渡した。

 右二腕で受け取り、右一腕で彼女の頭を優しく撫でる。

「ありがとうな」

 えへへ、と笑う彼女。じゃあ、と言って走り出す小さな背中。

 金色に揺れる髪が叫ぶ。

「私、大人になるまでなんて待ちきれません! 最短で嵐に辿り着いてみせます!」

 きっと、彼女の疾走はもうとっくに始まっていて、オレはそれを見送るだけだ。

 でも、それでいいんだろう。そこが、ここが、オレの場所でいいのだから。


 そう納得して、昼飯の仕込みに取り掛かった。

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