銀朱の羽

 嵐の巨人が過ぎ去って一ヶ月が過ぎた。それはつまり世界の半分近くが吹き飛び、空へと還ったということで、アタシの傷が癒えぬまま四週間が経過してしまったとも言える。


 1


 ふぁさりと暖簾を押し上げて、昇りかけの太陽を眺める。輝く光彩は残酷なまでに美しく瞳を突き刺す。太陽は常に昇る。そんなことは判りきっているのに、少しだけむかっ腹が立つ。

 よく晴れた日が続いたからか朝も早いのに露一つ無い白亜の石畳に踏み出す。

「行ってきます」

 もう無意味になった習慣を自然に繰り返してしまい、舌打ちを一つ。溜息をついて首を振ると束ねた髪がばさばさと揺れる。更なる一歩で跳躍し、自分の翼を広げた。


 風に乗る、といえば聞こえは良い。跳躍からの羽ばたきは飛翔へと変貌し、全てを飛躍できてしまえればいいのにと願って飛ぶ。そんな必要もないのに矢鱈に上昇し、地上からきっちり五百メートル上、【母】の頂上に立つ。この塔は島の中央にあり、世界のあらゆる場所を見渡せる。惑星の頂点の一つから無意味に青の彼方を見渡す。今、立っている星が球状である証明が空と海の狭間にあり、上空には綿あめのような雲がたくさん浮いている。思わず賞嘆の吐息が漏れる。突然吹いた風に煽られ、赤い髪がさわりと頬を撫でる。


 下に目を落とせば島が見渡せる。

 なんでこんなことしてるんだか。

 それはもちろん現実からの逃避。


 東の真ん中辺り、都市部の中央にある我が家は真っ白な長方形。まるで判を押して並べた携行保存食のように同じ作りの家が所狭しと整列している。

 【母】の塔を挟んで西側には市場が広がりごみごみとして色取々に万華鏡のような様相を呈している。更にその先は漁場だ。雑然とした桟橋の凹凸には磯魚為いさないたちが各々水場に出始め、仕事に取り掛かっている。

 島の南側には六十五節前からある避難所の巨大テントが多数ありこれから北の農地近くにも難民キャンプを増設するとはもっぱらの噂だ。だとすれば今節の農作物はどうするのか。全面中止ということは無さそうだが両隣の島が空に還った。である以上は避難地を優先するだろうし、食料は輸入に頼らざるをえないだろう。

 多少忙しくなりそうだなと思考だけで逃避。そうこうしているうちに待ち合わせの時間が近づいてくる。

 嫌だな、と考えても仕方ない。きっぱり断ろう。そう決めて【母】の頂上から歩を進める。


 再びの跳躍。落下。風を切って五百メートル以上の高さから墜下。

 【母】から突き出た細長い止まり木を避けるため、翼をはためかせ最小限の動きで落ちていく。徐々に速度を落としつつ地上から十メートルほどの高度になったとき、強く羽ばたきくるりと身を翻す。そのまま脚から着地。膝を曲げたまま溜息。自分で思っていた以上に重苦しい呼吸が吐き出された。自分の嫌に明るい赤の髪がばさりと顔にかかる。もう切っちまうか。でもせっかく背中まで伸ばしたしなぁ。


「ルーイ」

 考え込んでいると、O型特有の低い声が、待ち合わせ相手独特の伸びある音に出力された。相変わらず律儀なやつだ。

「待ち合わせにゃ早ぇよ」

 精一杯毒づく。

「五分は誤差だ。君こそよく来てくれた」

 正直来ないと思ってたんだろうなこのノッポ野郎は。


「話あんだろ。早くしろ」

 こっちは暇じゃ無ぇんだ、と再び文句を垂れる。頭一つ半違う身長差で会話すると少々首が痛くなる。こいつと歓談はしたくない。

「そう急くな。来たまえ」

 ファリソ待ち合わせ相手はそう言って、難民キャンプの中へと入って行った。暖簾をまくる手の甲には、はっきりと正十一角形世界の形の紋様が見て取れる。相変わらず目が回るような幾何学模様が彩られている。

「チッ」

 相手に聞こえるように舌打ちを一つ。それから早歩きするファリソの後ろを小走りでついていく。

 

 こいつは無駄に身長がある上に、やけに早足だ。生き急いでるんだろうなといつも思う。客としては話が早くて良いが、友人にはなりたくないタイプだ。

 もちろん周囲の目を思いっきり引くことになる。眼の前のノッポ野郎は執政代行官にだけ許された(そしてそいつら以外誰も着ようとしない)真っ黒なローブを纏っている。胸には堂々とした正十一角形に不可思議な紋様の刺繍。暑くないのかと訝しむものの、鉄面皮が全身に広がっているんだろう。こいつは眉一つ動かさない。

 こんなやつのことは気にするだけ無駄だ。

 

 天幕の中は騒然とし皆が皆、何事かとこちらに目を向ける。そりゃそうだ。

 執政代行官が難民キャンプに作られた巨大テント内に直接訪問なんて普通は無い。

 周りの目が気にならないのであろう鉄仮面男はそのままずしずしとテントの奥まで歩いていく。


 周囲の視線が突き刺さる。うるさいな、こっちだってこんなところに居たくない。


 突如、デカブツが急停止、同時にアタシも急いで脚を止める。走るのは、苦手だ。空で生きるほうが遥かに軽やかで風雅だと信じている。

 良し悪しではない。生きる場所の問題だ。アタシは空。こいつは地上。それだけの話だ。


「オルス君。紹介しよう、ルーイ君だ。彼女は君の父親候補の一人で、この島一番の速羽はやはねだ」

 と言いながら手を差し出したファリソの先には、二人の子どもがいる。

 片方は羽形。顔立ちはまだあどけないが、腰からはしっかり翼が生えている雄だ。

 もう一人は角付き。額に大きな角が形成されており、顔は少年同様に幼いが雌だ。

 

 どっちだよ、と一瞬思ったが多分男のほうだ。U型特有の中性的な体型と顔つき。そして体に比して巨大な翼。飛ぶならU型とはよく言ったもので、身体能力と体重のバランスが最も飛行に適している。

 一方の角付きは恐らくA型だろう。未だ成長期を迎えていないだろうとは言え身長は百五十センチに届かない。


「お前のほうだな」

 羽形の少年に目を向ける。何故か後ろの角付きがびくっと驚いて推定オルス少年の後ろに隠れた。なんだこりゃ。ムカつくな。

「オルスだ。よろしく、ルーイさん」

 オルスは良く日に焼けた顔でまっすぐこちらを見つめてくる。おどおどとしている角付きの頭を軽く撫でるのも忘れない。ガキのくせにいちゃつきやがって。


「さん付けはいらねぇ。あんたを引き取るつもりもねぇ」

「ルーイ君」

 断言するアタシに、ファリソがすかさず割って入る。面倒くせぇ野郎だ。いちいちいちゃもん付けないと生きていけないのかこいつ。


「難民キャンプは既に過密状態を超えて飽和状態にある。独居者で父親の資格を持つものは難民受け入れの義務がある。拒否はできない」

 あぁん? と思わず声が出る。

「お前の頭にはウニでも詰まってんのか? その無駄に長くて暑苦しい髪の毛は昆布だったりするのか? 独居状態だと断言できねぇだろうが。だから断ってるだよこのウスラトンカチが。酸素足りてっか? 外出て呼吸してこいよ。ここは陸の上だからお前でも息できるんだぞ知ってたか? そうしたらカニミソしか詰まってない頭でも少しは回るようになるんじゃねぇか?」

 下から睨み上げてこめかみをトントンと叩きながら問う。


 ひぇ、と怯えた声を出したのは角付きのガキだ。いちいち羽形の小僧にくっついて回るから苛立つことこの上ない。一体何の嫌がらせだ。一瞥をくれてやったら完全にオルスの後ろに隠れたのでとりあえず放っておく。

 二度と関わらないだろうから、もうどうでもいい。

「ルーイ君。気持ちはわかるが、」

「解ってねぇからそういう言葉が出るんだろうがこの木偶の坊」

 ファリソと再びの睨み合い。角付きのガキといい、陸人はバカしかいねぇのか。


 話にならない。髪を翻して踵を返す。避難所のテントから出た瞬間、ばさりと翼を広げて蒼穹へと真っ逆さまに墜落していく。

 だめだ、今日は仕事にならねぇ。


 2


 【母】の上に再び降り立つ。今日二度目の着地は、本日二度目の遁逃だ。

 我ながら、情けないったらありゃしない。

 翼を日除けに使いながら、あぐらをかいて適当に時間を潰す。視界を空と海だけで埋め尽くして、島は見ないようにしていた。

 人の営みが鬱陶しい。

 普段は気にならないようなことも、ささくれだって引っかかる。それが嫌いで青い風景ばかり眺めている。

 太陽は真上にあり午前と午後の境界に座っていると示してくれた。それを証左するかのように、からんからんと正午の鐘が鳴る。


 腹減ったな。

 腹が減るだけましか。

 そう考えて、余計気落ちした。


 その時だ。

「空人の考えることはどの島でも一緒だな」

 羽ばたく音がしたかと思えば、隣から聞き慣れない声がする。

 誰かと思って顔を上げると、さっきの子どもだ。確か、オルスと言ったか。


「んだよ」

 思わず口をついた言葉は思いの外に不機嫌を隠せず、いい歳して何をしているのか自分でもわからなくなってくる。

「昼飯持ってきた」

 ひょいと差し出される立方体の保存食。まるで茶色く焼け焦げた居住区みたいだ。避難所から持ってきたのだろうそれは、どこから見ても不味そうだ。

 こいつはこいつでガキのくせに気が回るらしい。


「いらねぇ」

「置いとく」

 オルスは勝手に隣に座る。ハンカチの上にはこんがり日焼けた家のような食い物。

 二本一セットのそれが三本置かれる。残り一本はオルスの口の中だ。


「横に座るんじゃねぇ」

「空の上は自由だ。そうだろ」

 そうだよ。

 それを言われてしまったら空人としては何も言い返せない。

 ここには他に誰もいない。

 【母】の上、雲の下、海と陸から離れ星には届かない、一呼吸の間隙。空人たちの命の在処。


「角付きの女は良いのか」

 自分でも簡単に解るくらい不快を隠しきれていない。

「アウラは大丈夫。今頃ファリソさんと移住先について話し合ってる」


 アウラ。

「へぇ。ちゃんと意味のある単語が出力されたんだ、あの子」

 素直に驚く。滅多にない。これだけでむかっ腹が少し軽くなる。

 我ながら単純過ぎる。子どもか。

 子どもみたいなもんか。誰かに八つ当たりするなんて。


「結構あるよ。オレも有意名だ」

「へぇ」

 意外だ。オルスなんて単語、聞いたことがない。

「どんな意味」

 もう何を会話してるのか判らないが、とにかく気が紛れるから話を続ける。

 うん、と空を指すオルス。

「ファーストエデンの近くにある星の周りを回ってる小さな星の名前なんだって」

「じゃあここからは見えないか」

 少し残念だなと声だけで応じる。気持ちの側が全然追いつかない。会話ってこんな適当で良いんだっけ。しばらくしてないから思い出せない。


「ファーストからでも見えない。小さすぎるんだって」

「月とは違ぇのか」

「月は本来ファーストの周りを回ってる星を指す単語だから、」

「あぁ、なるほど。近くの星にとっての月だったと」

「そういうこと。しかも、たくさんある内の一つだ」

「たくさんあるのか」

ここイレブンでも増えたろ」

「それもそうか」

「そういうこと」


 はぁ、と溜息。

「んなぁ。何の話だっけ」

「あぁこれ。何でも良い」

 何でも良いだと?

「お前どういう理由で会話してるわけ?」

 うーん、と腕を組み、じっと考え込むオルス。幼いなりには顔立ちが整っている。鋭いと形容するのがちょうど良いだろうか。もう少し大人になったら人目を引くようになるだろう。黒い髪。黒い眉。黒い翼。

 自分のそばかすと、やけに派手な髪色が嫌になって顔を背ける。視線の先には赤い羽根。綺麗だね、と言ってくれた人はもう居ない。そんなこと判ってる。


 オルスは遠くを見ながら、呟くように囁く。

「少なくとも会話に意味は要らないかな」


 無意味な会話。違う。これは、

「会話そのものが目的。オレは結構そういうの省くから、積極的にやれって」

「お前の女が?」

「アウラが」

 アタシの苛立ちを不意にぶつけちまう。クソ。

「あーもう。なんかごめん。アタシが悪かった。もう嫌だ」

 三角座りでうずくまって、羽で全身を覆う。何も見たくないし、何もしたくない。

 それからオルスは午後一時の鐘が鳴るまで黙ってアタシの隣にいるだけになった。


「じゃあ、オレの話聞いてくんない?」

 何が「じゃあ」なのか全く判らないが、嫌とも応とも言わずに居たらオルスは口を開き始める。

「大事なのは音があること。響くこと。奏でること。この辺も聞きかじり」

 アウラのか、それとも他の誰か言葉なのか。

「響くってことは音を受け取る何かがあるってこと。それで奏でるってことはお互いに音を出してるってこと」

 そのためには音が要る。オルスはそう呟く。

「別に音じゃなくても良いと思う。それこそ言葉だったら何でも良いはず」


 音ではない言葉。触れ合う手と手。唇の感触が脳裏をよぎる。

 見透かされている気がしてならない。

 誰に?

 もちろん、オルスと、キーファに。


3


 キーファが嵐災の予報を出した二番島に行くと言い始めた時、アタシは止めた。

 当たり前だ。わざわざ死ににいくようなもんだ。阻まない理由がない。

 でも、結局は細長い四角の家で、思いっきり言い合いになった。


「だからさ、死ぬ可能性があるんだろ? キーファはなんでそんな危険を冒してまで嵐に近づこうとするんだよ!」

 ハンモックから降りて絨毯の上で仁王立ちする。

 対するキーファは頭半分低い位置から口答えだ。

「言ったでしょう。嵐自体に何らかの意図があって嵐災を起こす可能性があるの! どうしてわからないの!」

 短くまとめた黒い髪と、大きな黒い瞳とは対照的な白い肌。アタシのど派手な髪とぼやけたような褐色肌とは大違いだ。

「そうじゃない!」

 叫ぶ。無意味な行為だとは解っていても、彼女の好奇心を止められないと理解していても、悲鳴に似た音を発せざるを得ない。

 だって、キーファが死ぬかもしれないなんて、許せない。

 それでも。

 死か理解かどちらかに触れる危険極まる賭けであっても、彼女の人生にとって最も大事な一瞬を、キーファは優先した。


 思い出の中のアタシは無為な金切り声を上げ続ける。

「そんなもんよりもっと大事なもんがあるだろ!?」

 アタシのことを、もっと見て欲しかった。側にいて欲しかった。

「キーファは自分の命より研究のが大事なのか!?」

 なのにアタシはそれを隠して、キーファの命のためだなんて綺麗事を口にした。

 全然、誰とも、奏でられない。そんな音だ。

「嵐なんて十三節に一回必ず来るんだろ!? だったら今、行かなくても良いだろ! 次また来た時に繰り返し観測してもデータ採れるんだろ!? なんで行くんだよ!」

 ちょっとはアタシの気持ちも考えてくれよ、なんて大事な事は何一つ言えずに。


「だから何度も説明したよね? 【母】経由の干渉は何らかの阻害があったの。遠隔での接触は不可能。だから直接星読みによるハッキングが有効な可能性があるって」

「可能性に命を賭けんのかよ! そんな危ない事しなくても別にいいだろ!」

「よくない! 全然解ってない! 次の島の予測が付かない以上、今回やらなければ今度はどこに嵐災が来るか判らないの! 多くの命を救うためなの!」

 お互いが譲らない。どうして理解してくれないのかと真っ向から反発し合う。


 キーファが研究熱心なのは昔から知っていた。風読みと言えば大半が高いところに陣取って、西を眺めるだけの役立たずだ。言う事といえばやれ雨雲が見えただとか、あそこで雷が光っただとか、誰が見ても判るようなことばかり。

 でも彼女は違った。


 幼い頃からずっと一人で携帯【図書館】端末を眺める時間の長い珍しい子だった。独りぼっちでも平気みたいで、二十節十歳まで同期の友達はいなかったと思う。

 反面大人たちには可愛がられていた。それが少しつまらなくて、アタシのほうからちょっかいを出し始めたのは覚えている。

 でも、いつの間にか──本当にいつの間にか、仲良くなっていた。理由そのものはよく覚えていない。それでもアタシたち二人は二十八節になった決めた頃には、彼女と二人で父親の資格を取って同棲しようと話し合っていた。

 子どもが欲しかったわけじゃない。彼女と一緒にいたかった。それだけの理由だ。寮で暮した時期に二人きりの時間を作るのは難しいと悟ったし、何よりも二人だけの家が欲しかった。特別な関係だとお互い確認したかった。


 仕事の上でも彼女は良いパートナーだった。

 手の連中とつるんで観測範囲にある大気の状態を把握していた。他の島の湿度から明後日の天気まで何でも当てていた。他島のぶんまで天気の予測ができれば遠羽とおはねの仕事もしやすかったし、何より雨に濡れずに済んだ。

 惰性で風読みになった使えない連中とは大違いだ。

 彼女は本気で風読みという生き方を選んだ。


 だから、アタシとキーファは衝突した。

 こっちは彼女と共にいたいだけの女だ。


 夕食時に言い合いになった結果、食べかけの料理がテーブルの上に残った。

 まだ湯気の立ちのぼるスープ。

 バラバラにしたトウモロコシ。

 綺麗に盛り付けられたサラダ。

 そんなものばかりだけ残った。

 一つも手を付けられていない。


4


「それでさ、ネルケが言ったんだ。花の冠は僕だよって」

 オルスは何か喋っている。アタシは全く聞いていない。

「オレはよく判らかったけどアウラが気付いたらしくて」

 ただ人の声が横で流れて心地よく聞き流しているだけ。

「アイツ星読みとしてだけじゃなく、地頭もいいんだよ」

 なんで他人の事をそんなに嬉しそうに言えるんだろう。


「色々あったけど全員でまた話せた。生きてて良かった」


 話せた。

 生きてて良かった。

 その一言にわだかまりを覚える。


「なぁ。死にに行ったやつのことはどう受け取ればいい」

 見知らぬ子どもにいきなり何を聞いてるんだアタシは。


「その人は自分で選択して、望んで死へ向かったのか?」

「ごめん。忘れて。なんでもない。独り言だから、今の」

 独り言。もう誰にも届かない言葉。誰にも響かない音。


「オレが望んで死へと赴くなら、誰にも止めさせないよ」


 ふざけるな。お前も友達がいるだろ。角女はどうする。

「だってそれがオレの選んだ命の使い方だから、誰にも」

「誰にも文句言わせないってのかこのクソガキが。女は」

 どうする。残される側の気持ちを考えてみろお前らは。


「女じゃない。アウラだ。いい加減覚えろよルーイ

「さん付けするなこの青二才。お前らと関わるつもりは」

「そっちに無くてもこっちにある。遠羽なんだろあんた」

 お互いに立ち上がって取っ組み合い寸前の言い合いだ。

 額がぶつかる寸前で睨み合って互いに一歩も引かない。


「羽形が揉めたらどう解決するかこの島では決まってる」

「【母】の頂上から飛び降りて、着地までの時間を競う」


 どこの島でも同じだ。空人の考えることなんてだいたい一緒だ。


「「上等だ」」

 二人で頷き、

 頭突きした。


5


 赤い翼を広げる。成長しきっていないはずのオルスと比べても一回り小さい。

 違う。オルスのそれが破格の大きさなんだ。

 こいつ、いつの頃から空で生きると決めた?


「オルス、今何節いくつ?」

 ぎり、と睨むガキンチョ。

「ハンデはいらない」

 大事なのは速く、正確に飛ぶこと。それだけだ。空の上ではそれだけ考えていればいい。

「判った。なぁ」

「何。飛ぼうよ」

 はぁ、とこれみよがしに溜息をついて見せる。

「アタシもあんたも、お互いの発言にムカついた。そうだな?」

 言葉に頷くオルス。

「飛ぶのはいい。そこまでは良いんだけど。飛んでどうなる。というか、どうする」

 きょとんとした幼顔が返ってくる。考えてなかったのか?


「あー。じゃあ。こうしよう。ルーイがオレを引き取るかどうか。飛んで、決める」

 そう来たか。面倒くさいやつめ。

「判った。理由、聞いて良い?」

「銀朱のルーイ」

 しばらく聞いていなかった単語を耳にする。やっぱりそれか。初めからそう言え。

「二番島と一番島を一日で往復する遠羽。世界で一番速い女」

 恥ずかしくなってそっぽを向く。どこから聞いてきたんだそんな話。

「速いだけだ。自慢することじゃねぇ」

「一番島から六番島までの観測飛行は有名だろ」

 ぎょっとして思わずオルスの顔を睨みつける。表情一つ変えず、こちらを一直線に見つめているそいつは、いきなりアタシの傷を抉った。間違いなく無自覚に。


 遠羽の仕事は必ず二人以上で一組だ。飛ぶものと観測するもの。六番島までの天気を予測したのはキーファで、アタシの隣にはもう彼女はいない。羽が片方無くなったようなもんだ。

 片羽を亡くした空人。

 笑えない。

 胸が痛い。


「その話はすんな」

「判った」

 物わかりが良いのか悪いのか、いまいち判断が付かない。


「ルール確認」

「おう」

「ハンデなし、せーので飛ぶ。【母】の止まり木に十一回、手か足を付ける」

「で、その後は先に着地したほうの勝ち」

「いくぞ」


 どちらともなく、せーの、と声を張り上げて疾走、跳躍、飛翔。

 真っ白な【母】の塔の上から、地面に向かって飛び出した。


6


 競翔のセオリー通り、先に【母】から突き出た止まり木──正確には部屋だったり通路だったり、謎の行き止まりだったりするそれら──に腕を伸ばす。なるたけ早く十一回止まり木をタッチして、そのまま下へと加速。地上から二十メートルを目安に減速すればいい。アタシの羽なら地上十メートルで減速だ。大抵の羽形は、ここまでぎりぎりの距離では止まらない。距離感の把握力、翼の筋力、何より度胸の差だ。

 だから、青い空に飛び出してまずは手近な止まり木を探す。飛び慣れた塔だ。当然こちらが有利で、まず最初の一本に手を触れる。何で出来ているのか未だによく理解されていないという塔は、触れたところから幾何学模様の光りが走る。

(まず一本)

 先行したと思った直後、真っ黒な塊となったオルスが同じ止まり木の下側にいた。


 オルスは止まり木を蹴り、棒で叩かれた球のように加速。

(あのバカ──)

 地面に突撃するつもりか? それとも途中で減速を挟むのか。アタシなら──。

 強く羽ばたき、真下へと加速する。ものが落ちる速さは一定だ。だからこそ、競翔は成り立つ。落ちるのではない。下へ飛ぶ。飛べるやつが勝つ。

 アタシなら、減速なんて絶対にしない。確信がある。あいつはアタシと似ている。沈黙する相手へ勝手に喋る。今日何があったのかとどうでもいい話をわざわざ振る。そんなに語り上手じゃないのに、放っておいてと言われるまで必ず相手に寄り添う。だから最後はだんまりになって、仕舞には二人揃って沈黙のまま過ごす羽目になる。


 口下手だから、話すより行動したほうが通じ合う。そういうやつだ。


 空中を疾走するオルスの背中目がけて疾駆。銀朱のあだ名は伊達じゃないってことを見せつけてやろうじゃないか。


 二本めの止まり木はやや左。翼を広げればかする距離だ。一度強く羽ばたき、接触直前まで羽を折りたたんで真っ逆さまに地面へと飛ぶ。オルスと並ぶ。こいつは多分知らないはずだ。

 案の定オルスは翼を広げて一瞬減速し、右手を伸ばして止まり木に触れる。一方、反対側のアタシは違う。髪の色と同じ派手な赤を広げて塔の出っ張りを撫でる。ほぼ減速無し。多少の空気抵抗こそあれど、広げた翼はそのまま次の加速に使える。

 。思いの外知らないやつが多いが腰骨から生えたこれは元々は腕の一種。

 そんなのアリかよ、と言いたげなオルスの顔を尻目に再加速。三本めを目指す。


 体半分だけ先行するアタシと同じ戦略をオルスは採用せず、止まり木の下側に回り込んで蹴り落ちる。案外賢いようで、最善を尽くして考えてくる。翼が大きければ、それだけ広げた時に空気抵抗が増える。リーチが伸びるのは良いが、減速しては意味がない。だが、まだまだだ。経験が足りない。アタシには届かない。


 四本、五本、六本。差は広がり続ける。空で一番速い女に勝つには四十節も生きていない子どもじゃ荷が重すぎる。

 あいつはまだ、自分の飛び方を知らない。

 既に体一つ離れた距離にいるオルスを見る。

 

 考えている。

 そんな顔だ。

 勝ち方を、飛び方を、生き方を。

 だったらこっちも容赦しない。大人げないが大人のやり方ってやつを見せてやる。


 七本め。止まり木を横切るぎりぎりのところで蹴る。真下に、ではない。次に狙う止まり木の方向へと、斜め下側に。左右の調節をスキップする。もちろん、これだけでは終わらない。大きく右に動いたアタシは、八本目と九本目を同時に触れるべく、大きく翼を広げて二本の止まり木を同時に撫でる。飛行ルートの微調整が必要だが、慣れた塔ならではの芸当だ。

 そろそろ諦めがついたかと首を曲げて眼尻でオルスを追おうとした矢先、黒い翼が目に飛び込んで来た。

「九」

 オルスは並んだアタシにそう告げる。

 同じ手口か。あの一瞬で見て覚えたのか、それとも昔から使っていた技なのか。


 次の二本に狙いをつける。

 逡巡。

 オルスは確実にこちらの後ろに着いてきて、アタシの動きをそっくり真似る。慣れない塔だから勝つならそれしかない。最後の最後にあいつが取るであろう行動は一つだけだ。

 だったら。


 予定通り二本の止まり木の間をすり抜けつつ翼で同時に撫でる。ここまでは良い。

 残り距離はおおよそだが百五十もない。もう余計な寄り道をする必要は無い。

 だから、二人同時に、強く羽ばたく。

 地面へと飛翔する。墜落ではない。地に向かって空を駆ける。

 ──だが。あいつは。


 翼空気抵抗の少なさや羽ばたく回数の稼げる小さな翼は、短距離翔なら有利だ。

 距離百五十は空人なら数瞬もかからない。だが実際にそれだけ飛ぶわけではない。落下してしまう。地面に突撃しては意味がない。空を飛ぶのが、空人アタシたちの生き方だ。

 それをてめぇは──。


 距離三十の段階でオルスは再び羽を広げる。減速ではない。加速だ。

 判りきっている。何故とは問わない。だが、勝負のために命を捨てるなんてことをアタシは絶対に許さない。


 同時に翼を広げる。こちらも加速だ。だが、その加速は下方向ではない。

 横だ。


「この、クソガキがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 体当たりでオルスに直撃する。ガキのみぞおちに肩を突き入れる。

 二人で思いっきり吹き飛ぶ。漁り場の資材へ体ごと突っ込む。

 大きな音を立てて筏の材料や釣り竿のもと、魚取り網の中を突っ切って、ごろごろと転がっていく。

 土煙を上げて静止。オルスクソガキの胸ぐらを掴み上げる。


「てめぇ、今何しようとしたか言ってみろ!」

 頭突きせんばかりの距離で怒鳴る。

「加速だ」

「そうじゃねぇだろうが!」

 あれは、あそこで加速したら、

「お前は落ちようとしたんだろうが!」

 叫ぶ。涙を堪えながら、咆える。

「当たり前だ」

「だから! 残ったやつはどうするんだよ! お前が死んだら! 誰が!」

 誰が、その気持ちの穴を、心の空洞を、埋めるんだ?


「オレは、飛ぶために生きてきた。そのために生きていく」

 見れば解る。

 巨大な翼。かなり早くに生き方を決めた結果。空以外の場所で生きることすら困難なほどに巨大化し、強靭になった黒い羽。

「あんたから師事を受けるためにこの島に来た」

 平然と己の生について言い切る、成年すらしていない子ども。

「そんなどうでもいい事に命賭けるのかてめぇは!」

「あんたにとっては取るに足らないことでも、オレにとってはそうじゃない」

 真正面から睨み合う。

 こいつも、同じことを言う。

「ふざけるな! 死ぬために飛ぶな!」

「違う。飛ぶことは生きることだ」

 少なくとも、オレにとっては。そいつは少しばつが悪そうにそう言う。


「なんでどいつもこいつも死にに急ぐんだよ! 自殺しに行くために飛ぶ方法なんて絶対に教えてやらないからな!」

「──ごめん」

「謝って済む話じゃねぇんだよこのバカ」

 いつの間にか涙声で。

 子どもの上に乗っかって。

 情けないったらありゃしない。


「でも、じゃあ、だからこそ、教えて欲しい」

 この期に及んで口答えするんじゃねぇ。

「生きるための飛び方を」

 それを言われてしまったらアタシとしては何も言い返せない。


 ざわざわと周りが騒々しくなっていく。周囲に人気が増えてくる。一体何ごとかとこちらを覗いてくる陸人や海人。

 アタシは構わず叫ぶ。


「生き方、ちゃんと教えてやるから、二度とこんな飛び方するんじゃねぇぞ」

「生き残るために飛ぶ。それで良い?」

 どことなく曖昧な言い方に少し首を傾げる。が、今はこれで良しとする。

 どうせ聞いたってこいつらの言うことなんか解りっこないんだ。だったら、

「少しでもマシな命の使い方を覚えろ」

「わかった」

 これでいい。


8


「お前の羽だとベッドは無理だろ?」

 夕暮れ時。午後八時の鐘が鳴る。あのあと二人で漁場の長鰭にしこたま怒られた。そこからファリソに話をつけて、【母】にいる手の連中に手続きしたらこんな時間になっていた。

 時間の流れは速い。多分、まごまごしているうちに一月、二月と過ぎ去って行く。アタシたちは置いていかれないよう、精一杯羽を広げるだけだ。

「無理じゃない。ルーイみたいに胸にでかい脂肪の塊があるわけじゃないから」

「あっそ。じゃあ、アタシがハンモックな」

「良いの?」

 小首を傾げるオルス。

「良いよ。お前が使わなきゃ誰も使わ──」

 言葉にしようとして、音が詰まる。やっぱり、まだ駄目だ。ちくしょう。

「床でも良いよ」

 そんなに大きくない腹嚢をぽんぽんと叩きながら、シュラフならあるし、と嘯く。こいつ。

「家族にそんな真似させられるか」

 大きくないバッグの中身はほとんど寝具で、私物らしいものは無いように見えた。


 ゆっくりと地面を歩いて、我が家へと向かう。

「──なぁ」


 出し抜けに口を開くオルス。

「なんだよ」

「産まれてこのかた、ずっと寮暮らしだったから、その、」

 なんだ、意外とかわいいとこあるじゃねぇか。

「父さん呼びは恥ずかしいってか?」

 思わずからかう。

「うるさいな」

 少し頬を染めてそっぽを向くオルス。視線を辿れば、月が出ている。


 ふぁさりと暖簾をくぐって、家の中に入る。

「ただいま」

 もう口にする意味は無いだろうと今朝は思っていたのに、自然と言葉が紡がれる。

「お邪魔します」

 袋を胸に抱きしめて入ってくるオルスの額を指で叩く。

「痛えよ」

 不満を漏らすガキの顔に指を突きつけて、

「ここは、お前の家だ。解るな?」

 一瞬の無言。こいつは多分、独りが長かったんだろうな。

「ただいま、父さん」

「おかえり、オルス」

 同じくらいの背丈だが、少し背伸びして我が子の頭を乱暴に撫でる。

 ここからだ。こいつとの関係はここから始まる。多分、きっと。

 それはアタシとオルスが決めることで、他の誰かが勝手な判断を下すんじゃない。


9


「何食う?」

 オルスが部屋から出てきていきなり聞いてきた。

「なんもねぇよ」

 すっからかんだ。一人身だったし引き取る気も無かったから、仕事の帰りに買って食べるつもりだった。

「じゃあ、昼間と一緒で悪いけど」

 梱包された完全栄養食を取り出して見せつけてくる。

「その不味そうなやつ、また食うのかよ」

 我ながら大人げないな、と思いながらもついつい本音が漏れる。

「仕方ないだろ、色々あったんだから。文句言うなよ」

「言わねぇよ。ほら、寄越せ」

 ぽいと投げられた直方体の不味そうな携行食料を口にする。

 見た目通りだ。旨いもんじゃねぇな。

「独りだったら絶対食わない」

「そう? それなりにいける」

 本気か?

「まず最初に、お前のバカ舌を治すところからだな」

 生きるための、最初の一歩だ。

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