青の星
くろかわ
翡翠の瞳
水底から見上げる月は揺らめいて、私の呼気と合わせてあぶく立つ。銀色の太陽は仄かに水を透過して、私を照らしていた。脳の半分だけがまどろんでいる。もう半分は完全に眠っている。
私が選んだ形質は魚のそれに極めて近似しており、神経や脳の構造もそれを模したものになっている。他の魚形は大抵、鰓呼吸と肺呼吸の混交を選ぶが、私は片方だけだ。だから、眠る時も水底にいる。私の居場所は海の底にある。大人になる時誰しもが決めることだ。自分の居場所。命の在処。私の場合はそれがただ海のまどろみの中だった。それだけのことだ。
ぼんやりと思考が拡散するままに任せていると、不意に影に覗き込まれる。
月影を遮って私の居場所を見つめるそれは人、だろうか。
同族ならこの時間まで起きている個体は多くない。大抵の場合水中で休んでいるはずだ。釣り人なら夜釣りはおすすめできない。私達が住んでいる場所だし、確か岸辺は昨今の長雨で少しぬかるんでいたはずだ。注意せねばと顔を出す。
『こんばんは』
私の顔は普通の人のそれとは大きく違う。そのため、普通の発話はできない。一か八か、手話で話しかけてみる。海の民ならそれで通じるが、そもそも魚形なら水中に潜るはずだから違う。手話は陸人にも共通の言語だが、必修単位を取ったら忘れてしまう者もかなり多い。
「えっ」
きょとんとした顔を返される。子供だ。太陽のように金色の髪は月を反射して輝き、私を見つめる碧い瞳は驚きに満ちあふれて大きく開かれている。詳しい年の頃は不明だが、未成年であることは間違い無さそうだ。大人なら何らかの形質を持つ。その子供には角もなく手の甲に紋様もなく、ましてや腰骨から飛び出た翼もない。脳の肥大化を選んだのなら夜中に一人で出歩くことは稀だ。だから、子供と判断していいだろう。
『こんばんは』
もう一度、ゆっくりと手話で会話を試みる。
子供は手にした
「手話……かな? 言語変換するから、もう一度お願い」
環境に合わせ肉体の変化を選んだ私達と違い、陸人の一部は端末を使いこなす事を選んで久しい。だが、子供の持ち物にしては古すぎる。父親のものをこっそり盗み出してきたのだろうか。幼年期には必ず一人一台持たされるから、自分のものがあるはずだ。とにかく、この子供には謎が多い。
それでも、足場が悪く転落する可能性が高いことだけは確かだ。
『こんばんは』
「こんばんは」
少し古いとはいえ、タブレット越しなら通じるようだ。安心した私は言葉を指と手でゆっくりと象る。
『夜は足元が危ない。早く帰りなさい』
「帰る場所、無くなったから」
子供は気が抜けたようにうつむいて、悲鳴のようにつぶやく。
自分の状態をチェック。脳の疲労は問題なし。身体は少々乳酸値が高いが、幼子を放っておけば良心が私を更に苛む。幸い明日は狩りをせずとも良さそうなくらい魚が体胞に詰まっているし、深夜の密会くらいならいいだろう。
『話せば君は楽になるか?』
「わからない。あなたが聞く理由もわからないし」
『大人の責務というやつだ。君はまだ子供だろう』
「うん。まだ雄か雌かも決めてない」
すっと岸辺に近づく。肩まで水上に出し、桟橋に体を預ける。
『ここは私達の巣だ。他に起きている者は居ないし、陸人がここに来るのは昼間だけだ。言いたいことを言うと良い』
「巣って。家じゃないんだ」
そう言って子供は私の横に座る。足でちゃぷちゃぷを水面を撫でると、映った月が波でかき乱される。
かき乱されているのは月だけではないのだろう。子供はしばらくの間沈黙を続ける。私の役目はただ次の一言を待つだけだ。
静かな時間が少しだけ通り過ぎたあと、子供は意を決したように口を開く。
「島が嵐で吹っ飛んでさ。丸裸になったんだ」
嵐か。あの嵐だ。間違いなく。
子供はぎゅっとタブレットを掻き抱く。私は小さく頷き、じっと子供の言葉を待つ。
「みんな必死だった。なんとか逃げようって、船に乗って。それでも、壊れたり溺れたり。酷いのになると、島に取り残されたり」
私もその場にいた、とは言い出せなかった。私は無力だ。子供一人救えない。
島そのものを破壊された島民の救助活動は苛烈を極めた。まだ船で外に出られたものは幸運だった。私のように水中生活に適した形質を持つ者が救援できたからだ。それでも、飛んできた船の破片や石にぶつかるもの、暴れる濁流に飲み込まれたもの、私達ですら打倒できない巨大海洋生物に飲み込まれたものなど、被害者の後は絶たなかった。
そもそも、嵐の発生が唐突すぎた。この島の観測所は、災害の発生した島に竜巻が生じてからそれが巨大な嵐だと認識したほどだ。そんな突発的な災害を他の島から救援に行くなど、ほとんど自殺行為に等しい。何せ、泳げば片道一週間。潮流は複雑怪奇で迷路のようだ。空路なら一日で済むが、竜巻の中を突っ切れる
我々魚形と観測所、それに羽形は話し合った。彼らを本当に救うべきか? と。出した結論は臆病者のそれだ。
救うべきだが、我々の被害を出してはいけない。
勿論、この意見に異を唱えるつもりはない。妥当で当然、ごく自然な結論だ。二次遭難者を出しては元も子もない。
だが、そうでない意志を持つものもいた。迷う我らよりも先立った、勇気ある者達だ。彼らは残念ながら、予測の通りは少なからず命を落とした。そして、少なからぬ命を助けた。
私は救助を少し待つべき、という日和見の意見だった。私は臆病者だった。
「父さんは船を引っ張るために泳いでた。羽形だってのに、乗ってたら重くなるって言って」
正しい。飛べば嵐に巻き込まれて死ぬ。翼は大きく、船の上では嵩張るし、重さもそれなりにある。どこまでも正しいが、それは恐らく死を意味する。翼にある血管は冷却効果を促進し、体温低下を起こせば容易に死に至る。しかも、嵐の最中だ。そうなっても誰も……この子以外は誰も顧みもしないだろう。救助にあたっていた魚形もそう判断したはずだ。自ら海に飛び込んだ羽付きなど、どうやっても助けられない。海と空の境界線は未だ絶対だ。
子供は翡翠の瞳からあふれた雫で海面を少しだけ揺らし、嗚咽を呑み込んでいる。
私は優しく子供の爪先に触れる。
疑問の表情を浮かべた子供と、タブレット越しに見つめ合う。
『声を出して泣いたか?』
「避難所でそんなことしてたら迷惑」
『ここには誰もいない』
私はそれだけ象ると、黙って子供の側に寄り添う。さざなみだけがさらさらと音を立てて、無間の夜を彩る。
夜明けが近付く。他の魚形が起き始める前に、子供の足を軽く揺する。
「ん……あぁ、そっか。寝てたのか」
目をこする子供が私をタブレットに映すのを待って、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
『おはよう』
「おはよう」
『夜明けを見ると良い。いかなる時も太陽は常に昇る』
つうと空をひれのある手で指差し、視線を促す。水平線を照らし、夜空が緩やかに朝焼けへと変容していく。
「水の中からはどう見える?」
『水中の朝は遅い。もっと上がってからでないと明るくならない』
「じゃあ、まだ暗いままがいい」
そう言って子供は大きく息を吸い込み、どぼんと水面に埋没した。まったく。
全身の力を抜いて水底に沈む子供。私はそれを包容するように、魚と類似した下半身で囲む。魚と違う点は、エラが肋骨を縫うように存在することと、腰骨の周りに食料を入れておく体胞があること、そして腕があることだ。人はこの形を取ったとき、
子供はカタカタとタブレットを打鍵し、背中にいる私に見せた。
『すごい。もしかして完全な長鰭?』
私も同じ方法で、タブレットをなぞって子供に応える。
『人の言葉と陸を捨てる覚悟が要る』
私はそれで満足だ。無限の海だけが私を満たしてくれると、幼い頃は信じていたからこの形を選んだ。勿論別の道もあった。陸人達の営む観測所との交流を生活の礎に据えた
『君はどうなりたい?』
問う私。
『まだわからない』
答える子供。
『それでいい。ゆっくり考えると良い。特に、海の中では朝日は遅い。君は嵐に呑まれ、未だに彷徨っている。助けの手はいくらでもある。君は生きている』
子供はその言葉を見てから、両足をばたつかせて呼吸に戻る。
磯魚為達が起き出した頃には、子供の姿は消えていた。惑星探索を旨とする長鰭の私には当面の間、専門の仕事は回ってこないだろうということで、今日は一日休むことにする。私一人働かなくとも、嵐の影響で魚には困らないだろう。
難民の子供との遭遇から
私は子供達が自分の将来を決める一助となるために、特別授業の講師を行っている。長鰭を選ぶ個体は珍しいし、長鰭には他の全ての魚形の技能を習得せねばならない高いハードルがある。こういう授業にはうってつけだ。
潮読みから連絡があり、教師と子供達を水底で待つ。
定刻間際、どこからか水中をかき乱す音がする。水面上ではちょっとした騒ぎになっている。聞こえる限りでは、どうやら子供一人が先走って海の中に飛び込んだらしい。
今日の授業は雌雄を決めたか決めないかくらいの子供達だったはずだ。そういう元気な子もいるだろう。
震源に向かってするりと鼻先を向けると、見覚えのある金の髪が見えた。翡翠の瞳と目が合う。どうやら、その子は女性であることを選んだようだ。
『危ないから、先生の指示があるまで水中に入ってはいけない』
手で注意を促すが、彼女は聞き入れてくれない。そのまま間近まで近寄って来る。
『おじさん』
彼女も手話で応じる。四節の間に学んだのだろう。勉強熱心だ。普通、このくらいの子供はまだ、言語変換機能に頼る。
『見えてるかい?』
『見てて、おじさん。私、風読みと潮読みになる。絶対に嵐を見逃さない大人になる』
教師に少し同情する。決断が早いことは美点だが、協調性が無いのは問題だ。
『水面に上がりなさい』
再度促すが、
『だから、一緒に暮らそう。色んなこと、教えて』
予想外の言葉にぽかんとしている間に、彼女は水面にすうっと上がっていった。
水底から見上げる陽の光は揺らめいて、私の呼気と合わせてあぶく立つ。金色の太陽は鮮やかに水を透過して、私を照らしている。脳の半分が驚きを隠せず動揺している。もう半分は完全に呆れていたが、そのあと安堵と少しだけの喜びで染まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます