第25話 恨者の犬

 



「ただいまー」




 私は保健室に入った途端、妙に重い空気を感じた。


 みんなの表情もやけに暗い。


 上機嫌そうにニヤニヤと笑っているのは犬塚さんだけだった。


 私の声に反応するように「はっ」と顔をあげた令愛が、こちらに駆け寄ってくる。




「おかえ――へっ」




 当然、その視線は私の背中にへばりつく黒――いや、青いスライムに向くわけで。




「依里花、そ、そそ、それっ……青いのに取り憑かれてっ……!」


「取り憑かれてるんじゃなくて背負ってるだけ。大丈夫、悪い子じゃないから」


「ギイィ……」




 返事には力が無い。


 さっきより元気がなくなってる?


 この場で降ろそうかと思ったけど、ベッドに寝かせた方がよさそうだ。




「そ、そうなの? でも……その、人間とか、動物じゃ……無い、よね」




 令愛の混乱はごもっともで、他の面々も相変わらずテンションは低いけど、ギィのことは気になるのか視線だけこちらに向けている。




「この化物だらけの世界に連れてこられたのは私たちだけじゃ無いみたいでね。ギィ以外にも――ああ、ギィはこの子の名前ね。それ意外にも、アドラシア王国とかいうよくわかんない国の女王様とも会ったよ。どうも最初に見かけた日本人じゃないゾンビたちは、その国の人たちだったみたい」


「なるほど……? と、とにかく色んな人が巻き込まれてて、そのギィって子もそのうちの一人なんだ」


「他の仲間はみんなゾンビに襲われて死んじゃったみたいだから、最後の生き残りなの」


「あ……そっか、そんなことが……」




 事情を話しながら、ベッドの前までやってきた。


 私はそこにギィを降ろそうとすると、邪魔をするように犬塚さんが立ちはだかった。




「退いてくれない?」


「嫌よ。何でそんな気持ち悪い化物と一緒に過ごさないといけないのよ、あんた一人でも嫌だっていうのに」


「それを決めるのは犬塚さんじゃない」


「まだ私に逆らえると思ってるの?」




 犬塚さんは何故か強気にそう話す。


 彼女の手にはスマホが握られていた。




「とにかく邪魔だから退いて。ギィを休ませたいの」


「だからそいつキモいから捨ててこいって言ってのよ。あんたと違って私はまともな人間なの。化物同士で馴れ合えるあんたとは違――」




 私は足裏で犬塚さんの腹を蹴った。


 吹っ飛んだ彼女はベッドの向こうにある棚にぶつかる。




「あがっ……いったあぁあ……倉金、ふざけた真似をぉおおッ!」」


「ごめん、後頭部ぶつけることまで考えてなかった。当たりどころ悪かったら死んでたね、生きててよかったよ」


「倉金えぇぇええッ!」




 心地よい叫び声をバックに、私はギィをベッドに寝かせた。


 彼女は「ギイィ……」と弱々しく鳴く。


 とりあえず見えない傷があってはいけないので、犬塚さんが喚くのを無視してヒーリングとキュアをかけてみる。


 けど変化は無かった。


 身体的な傷じゃないとすると、弱ってるのは何が原因なんだろう。


 色が変わったときは割と元気だったんだけどなぁ。




「聞きなさいよ、この便器女ッ!」




 無視されて寂しかったのか、ついに掴みかかってくる犬塚さん。




「下品だなあ」


「下品なのはあんたでしょう? 倉金、自分がどういう立場か本当にわかってないのね」


「スマホ見せつけられても困るんだけど」


「わかんないの。見せたって言ってんのよ」




 彼女の言葉を受けて、なぜか令愛がびくっと体を震わせる。


 私は令愛に近づくと、小声で尋ねる。




「怪我してない?」


「……え?」


「あいつら見えるところに痕を残さないの上手だからさ。ひどいことされなかった?」


「え、あの、なんで……」


「大体何が起きたかわかってるから。見たんでしょ、あの動画。令愛は大人しく見てるだけとは思えないから」


「大人しく見てたわよぉ? ドン引きしてた、あんたの無様な姿を見てね!」




 それでこのお葬式ムードか。


 汚いものを見せちゃって申し訳ない。




「もう全員が倉金の本性を知ってる。ここにあんたの味方は一人もいないのよ!」


「勝手なことを言わないでッ!」




 令愛が目の前で声を荒らげた。


 来るかなとは思ってたから、びっくりはしかなったけど――いや、正直に言うとちょっとびっくりしたかも。




「他人を傷つけておいて、それを誇るなんてどうかしてる!」


「聞いたでしょう? 声も、音も。あれは倉金が望んで――」


「暴力で抑えつけておいて何を偉そうにッ!」


「だからぁ、私たちは何もしてないわよぉ。倉金が誘って、倉金が自分の意思でやったの」


「そんなわけない!」


「あんた倉金の何を知ってんのよ。あいつはね、浅ましくて、おろかで、欲深くて、無能で、生きる価値が無い、そういう人間なのよ!」




 犬塚さんがそう言い放った直後、誰かが机を拳で強く叩いた。




「いい加減にせえよ、犬塚海珠!」




 そして島川くんの怒号が響き渡る。


 彼は立ち上がると、大股で犬塚さんに詰め寄った。




「あんなもん見せられて、誰があんたの味方するっちゅうんや。あんたは自分の悪行を晒しただけやろうが!」


「悪行? 何のこと? だから言ってるじゃない、倉金はぁ、自分あれを望んだんだって。現場にいた私が言うんだから間違いないわ」


「何やとォ……!」


「無駄よ島川くぅん。そういう人間はねぇ、心が化物になっちゃって、善悪の判別がつかなくなってるのよぉ」




 明治先生も私の味方をしてくれるようで。


 まあ、七瀬さんのこととかあったからね、彼女の立場からすれば自然なことだろう。




「教師がそんなこと言っていいんですか? むしろ学生として悪いのは倉金さんだと思いまーす」


「……会衣が思うに、この人とは言葉が通じない」


「牛沢だっけ? さっきからあんた喋り方キモすぎ。ぶりっこすんなって、軽蔑した目であの動画見てたくせにさぁ」


「会衣はそんなことしてない!」


「でも見たことに変わりはないわけでしょう? あんなもん見て、前と同じように倉金と接することができる? 無理よねぇ。どれだけ綺麗事を並べて言い訳したところで、みんな心のどこかでは倉金のこと見下してるのよ! わかるでしょう、そういうのに慣れた倉金なら、みんなの視線が変わったことぐらい!」




 確かにみんな目に見える形でテンションが下がってはいる。


 もっとも、そんなに軽蔑はしてないとは思うけど。


 違うかな? そういう視線は浴び慣れてるから、たぶん間違っちゃいないと思う。


 基本的にここにいる人たちっていい人なんだよ。


 令愛なんかは特に、強く拳を握りしめて、今にも殴りかかりそうなぐらい怒ってくれてる。


 まあ、一部例外は居るけど――それでも、あの教室みたいに、この不出来な演説で犬塚さんの味方が多数派になるほど腐っちゃいない。


 ただ、あんなものを見せられたら少なからず傷つくわけで。


 誰かを傷つけたなら、ちゃんと罰っさないと。


 こんな無秩序な世界だからこそ、なおさらみんなの不満を貯めないためにも。




「ふふっ、黙っちゃってどうしたの倉金ェ。何も言えないんでしょう。見られたくない本性を見られてしまったから。でもね、あんたが私に逆らうから――」




 私は手にしたドリーマーを、優しく犬塚さんの脇腹に突き刺した。


 生きた人間を裂く感触を味わうのは集堂くん以来だ。


 やっぱりゾンビとは違って新鮮で、ぷりぷりしてて、“命を奪ってる”っていう実感があるね。


 殺すつもりはないけど。




「……あ?」




 彼女は口を開いたアホ面のまま固まる。


 保健室にいるみんなも、それを見て絶句した。


 私はすぐにナイフを引き抜く。


 傷口からごぷりと血が溢れ出し、さっと犬塚さんの血の気が引いていく。




「ひ、ぐ、い、いやあぁぁぁあああああああがっ」




 叫びだしてうるさいので、もう一回刺しておく。


 この刹那的な欲望の満たし方も悪くはないんだけどね。


 令愛が危惧していた通り、これに溺れると理性が飛んで戻ってこれなくなっちゃいそうだから。




「な、なひっ、を……ほ、ひいぃいっ、たひゅけてっ、たひゅけてぇええっ!」




 尻もちを付くようにへたりこんだ犬塚さんは、額にびっしりと汗を浮かべながら後ずさる。




「あがっ、ご、ふっ……ひやっ、ひにたくなひっ……ひいぃいいっ!」




 そして四つん這いになって逃げようとしたので、お尻にナイフを突き刺してみた。




「はがあぁぁあああっ!」




 あはは、尻尾みたいでキュートだね!


 でもこれ以上やると死んじゃいそうだから、そろそろ潮時かな。




「ヒーリング」




 私は犬塚さんに手のひらをかざし、その傷を癒やしていく。




「は、はえ……? 痛みが、引いて……」


「依里花……? なにをして、るの……?」




 震え声でそう尋ねる令愛。


 私は彼女を怖がらせないよう、笑顔で答える。




「みんな犬塚さんを放っておいたらまずいことになると思ってた。けど、今の私を見て“やりすぎ”だって思ったでしょ? それぐらいの禊が必要だったんだよ。数少ない生存者同士、これからも一緒に生活していくんだから。ね、犬塚さん?」


「はっ、はっ、はっ、はっ」


「犬塚さん、返事は?」


「は、はひっ……はひいぃっ……」




 すっかり怯えきった彼女は、従順に返事をしてくれる。


 こうなるとかわいいよね。


 ギャップってやつなのかな、このままペットにしても面白そう。




「完全に傷は治したから、痕だって残らない。一瞬の痛みだけで許しあえるんだから、いい方法だと思わない?」


「……会衣も、何かしたらそうなる?」


「ははっ、するわけないじゃん。牛沢さんのこと傷つけたくないもん。私が犬塚さんのこと嫌いだからやっただけ、安心して」


「倉金さん、前に言ってたわよねぇ。自分に危害を加えた人間だけを憎んでるってぇ」


「要するに犬塚はその標的のうちの一人っちゅうわけか」


「そういうこと。犬塚さんが何もしなければ、私もこんなことしなくていいんだけど――どうして学校がこんな風になっても、お互いに助け合えないんだろうね」




 仮にうまく私を排除できたとしても、自分たちが生きていけなくなるだけなのに。


 今だって、私の方が明らかに圧倒的な力を持っているのに、無駄に逆らって、無駄に床を這いつくばって苦しんでる。


 彼らの生態は、ギィよりよっぽど不思議で仕方ない。




 ◇◇◇




 犬塚さんの暴走も収まったところで、私はギィと向き合った。


 令愛はそんな私の隣に座って、同じようにギィの顔を見つめている。


 その距離感は相変わらず近いままで、先ほどの犬塚さんを痛めつける光景を見てもなお、離れようはしないらしい。




「ごめんね、依里花」


「よく急に謝るよね、令愛って」


「だって……」


「別に見られてもいいよ、あんなもの。クラスメイト以外でも、夢実ちゃんの両親とかも見たことあるみたいだしね」


「依里花が犬塚さんにあんな風になるのも仕方ないよ」


「ああ、あれ……驚かせちゃったよね」


「確かに、びっくりはしたけど。もしかしたらあのまま殺しちゃうのかなって」




 令愛の声が震えてたのは、単純に状況が把握できてなかったからか。


 そうだよね、あんなことしたら普通は殺すって思うよねえ。




「そんなつまんないことしないよ」




 そう吐き捨てる私の顔を、令愛はじっと見つめた。




「それと、“そっち側”とやらに行くつもりも無いから安心して。私――令愛が隣にいるこの場所、心地いいって思ってるから」




 ちょっと勇気を出して、踏み込んだことを言ってみる。


 昨日、令愛はあんなこと言ってたんだし――大丈夫、だよね。


 そう思っていると、彼女はほんのり頬を染めて、心から生じた熱が表情をほぐすように頬を緩める。




「よかった」


「よかった?」


「あたし、相手の心に踏み込みすぎてうざがられることがあるんだよね……正直、依里花にもちょっと踏み込み過ぎかな、とは思ってたから。思ってても、止められなかったけど」


「私も最初はびっくりしてたかな」


「やっぱりそうなんだ」


「私の場合は、そういう人とあんまり接したことがないっていうのが大きいけどね。でも、令愛はそのままでいてほしいな」


「もっと踏み込んでもいいの?」


「……いいよ」




 今の返事、よかったのかな。


 令愛は嬉しそうに私に腕を絡めると、肩に頭を乗せた。


 心地よい体温は、私の中にある人間への疑念を――ごく一部ではあるけれど――溶かしていくような気がした。




「ギイィィ……」




 すると、ギィが恨めしそうに声を出す。




「え、えっと、ギィ。大丈夫?」




 令愛は前かがみになって彼女に尋ねた。


 ギィは少し悩んだあと、




「……グゥ」




 と否定の言葉を返す。




「大丈夫じゃないって。なんとかできないかなあ」


「原因がわかんないとね」




 キュアも効かなかったから、ゾンビ化はしていない。


 ヒーリングで傷だって癒やしたはずで――他に考えられる可能性はなんだろう。


 こればっかりは明治先生に診てもらっても意味は無い。


 ……ギィは言葉を喋れない。


 試す意味でも、彼女を“パーティ”に入れてみてもいいかもしれない。




「スキルってやつで、病気を見られる……みたいなのは無い?」


「あるかもしれない。試してみるね」




 私はスマホを操作し、パーティの画面を開く。


 勧誘対象――カメラが向いた方か。


 これでギィを指定して、参加申請を飛ばせば、




「……ギィ?」




 どうやら何かが彼女に見えてようになったみたいだ。




「ギィ、そのまま承諾してみて」


「ギィ、ギィ」




 ギィは二度うなずくと、パーティへの参加を承諾する。


 これでステータス画面を開けば――




【ギィ】

【レベル:1】

【HP:8/10】

【MP:10/10】

【筋力:5】

【魔力:5】

【体力:5】

【素早さ:5】




 よし、出てきた!


 ってか名前、本当にギィになってるんだ。


 ここで正体がわかるんじゃないかって期待してたんだけどな。


 そしてなぜかHPが減ってる。


 やっぱり何か体に異常が起きてるみたいだ。




「依里花、何かわかったの?」


「ギィの状態は……“飢餓”だって」


「お腹が空いてるってこと?」


「ギイィ……」




 それで元気が無かったんだ。


 飢餓じゃキュアも効かないのも当然。


 でもよかった、保健室で対処できそうな異常で。




「じゃああのパン持ってくるねっ」


「お願い」




 令愛は机の上に山積みにされた、まだ食べられるパンを取ってくる。


 そして封を開いてギィに手渡した。




「甘いのでよかったかな?」


「……グゥ」




 ギィは少し申し訳無さそうに、首を横に振った。




「じゃあ辛いやつのほうがいいの?」


「グゥ」


「パン以外がいい……?」


「グゥ」


「パン以外でも駄目だって」




 困り顔でこちらを見つめる令愛。


 かわいい。


 しかし、どうしてパンを食べようとしないんだろう。


 もしかすると――




「人間の食べ物は受け付けないのかもね」




 そう考えると、友好の証としてチョコを渡してきた理由もわかる。


 食べられないから簡単に渡せたのだ。




「他の世界から連れてこられたから、地球には食べられるものがないってことなの?」


「ギィ……」


「代用品は無いのかなぁ」


「ギィたちがエネルギー補給に使ってたものは固体?」


「グゥ」


「液体?」


「グゥ」


「なら気体?」


「グゥぅ……」


「……実体が無いもの?」


「ギィ」




 これは本格的にどうしようもなさそう。




「実体が無いってどういうことなの?」


「例えが悪いかもしれないけど――ほら、悪魔が人間の魂を食べる、みたいな話とかあるじゃん? あとは電気とか、電波とか。これは地球に存在するから違うんだろうけど」


「ああ……そういうやつかぁ。じゃああたしたち、ギィのこと助けられないのかな」


「ヒーリングをかけつづければ命を繋ぐことはできるけど、それにも限界があるから」




 仮に死んでもリザレクションを習得すれば蘇生できる。


 だが、根本的な問題が解決しなければ意味が無い。




「目の前にいるのに、何もできないなんて……」


「ギイィ、ギィッ!」


「な、なに?」


「心配してくれてありがとうって言ってるんじゃない?」


「ギィッ!」


「そうなんだ……お礼を言われることなんて何も無いよ。あたし、ここに来てから誰の力にもなれてない……」


「落ち込まないの。生きてるだけで十分なんだから」


「……うん、それもわかってる」




 わかっていても納得できない、か。


 お人好しも難儀だね。


 特にこういう辛い状況に追い込まれると。




「とにかく、今のところHPの減りは緩やかだから、しばらくヒーリングで対処するね」


「ギイィ」


「その間に助ける方法が見つかるといいんだけど」


「ギィ……」




 ――まあ、現状でも無いわけじゃない。


 完全にうまくいくかはわからないし、ギィが承諾するかどうかが問題だ。


 あとは犬塚さんの動き次第かな。




 ◇◇◇




 その夜、真恋から連絡が来た。


 あのあと、調理実習室の前まで到達し、そこから廊下を右折し半分ほど進んだところで討伐を打ち切ったらしい。


 さすがに体力の限界を感じたのだろう。


 だが、外周ですら半分弱の化物が放置されている。


 明日になればどれだけの数が溢れていることやら。


 今日同様に、明日も最初に合流して化物を倒していく約束をしたが、それも予定通り行くかは怪しいものだ。


 現状、このフロアに留まる時間制限は無いけれど、化物たちの進化が実質そのタイムリミットになっている。


 一日後か、二日後か――それまでにあの階段前の壁を突破する手段を見つけないと生存は厳しいだろう。


 そのために、今は体を休めるしかない。


 隣で腕にぎゅっと抱きつく令愛の体温を感じながら、私は意識を手放す。




 ◇◇◇




 眠りについてから数時間が経った頃、私は部屋の中で動く何者かの気配を感じ、目を覚ました。


 だが瞼は閉じたままだ。


 ただ用を足すために起きた可能性だってある。


 しかしその人物は私の方に近づき――そして制服のポケットに入れていたスマホに手を伸ばした。


 それをそっと引き抜くと、「ふふっ」と小さく笑う。


 その直後、「ひゃっ」と寝ぼけたような令愛の声が聞こえ、ガサッと何かが大きく動いた。




「起きなさい倉金ッ!」




 言われるがまま、上体を起こす。


 すると私の首元に、冷たいカッターナイフの刃が当てられた。


 犬塚さんか――と思ったけど、その当人は前方におり、令愛の首にナイフを突きつけている。


 となると、私を拘束しているのは――




「龍岡先輩?」




 見上げると、そこには最近影の薄い、龍岡先輩らしき顔があった。




「はぁ……はぁ……そ、そうです、僕です。何か問題でもありますか?」




 明らかに緊張した様子で彼は話す。


 カッターを突きつける手は震えており、とてもじゃないけど動脈をかっ切れそうにない。


 そもそも、こんな文具じゃ私の皮膚を貫くことはできないと思うけど。




「こんな時間に何ぃ……会衣、眠いよ」




 騒がしい犬塚さんの声に反応し、他の人たちも徐々に起き始める。


 どうやら一年生三人組はその前から起きていたようで、保健室の入口付近で待機していた。




「犬塚、あんた何してるんや!」


「何って見ての通りよ」


「人質を取ってぇ、倉金さんの力を奪おうとしているのねぇ」


「その通り。巳剣、あんたも起きてるなら手伝いなさいよ! 死にたくないでしょう!?」


「……」


「巳剣ィッ!」




 部屋の隅に座り込む巳剣さんは、犬塚さんから目をそらして何も答えない。


 犬塚さんは鬼の形相を浮かべるが、なおも無視は続いた。




「あんたがそこまで頭が悪い人間だとは思わなかったわ。倉金、見ての通りよ。あんたの大事な大事な仰木さんの命は私が握ってる」


「ひっ……ぅ、く……」


「スマホもこっちの手に渡ったわ。あんた自身もそうやってナイフを首に当てられてる以上、拒否はできない。早く私にあんたの力を全部よこしなさい。さもなくば――」




 犬塚さんは手にしたナイフに力を込める。




「仰木令愛を殺すわ」




 令愛の首にわずかな血の筋が浮かぶ。


 震える彼女の体。


 流れは概ね予定通りだけれど、無意味に令愛を傷つけられたことに私は苛立ちを感じていた。



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