第10話 理性的に感情的

 



 目的を果たした私は、保健室に無事戻ってきた。


 時間はとっくに夕方を過ぎているはずだが、外は相変わらず明るいまま。


 擬態する化物は、どうやら時間経過までは忠実に再現できないらしい。


 部屋に入るとすぐに令愛は立ち上がり、私に駆け寄ってきた。


 そして私が血塗れなことも気にせずに、笑顔で「おかえりっ」と迎えてくれる。


 私はできるだけ自然に返事をしようと心に決め、「た、ただいま……」と見事にどもった。


 恥ずかしい、死にたい。


 令愛がまったく気にしてなさそうなのが余計に刺さった。


 続けて、島川くんが嬉しそうに声をあげる。




「後ろにおるんはもしかして生き残りか? まだ無事な人間が残ってたんやな!」




 彼の視線は、私の後ろにいる体操服姿の二人の少年と、一人の少女に向けられていた。




「購買の棚の影に隠れてたところを見つけたの。一年生らしいよ」


「ど、ども、一年C組岡田です」


「同じく名倉っていいます」


「……上原、です」




 岡田くん、名倉くん、上原さんの三人は緊張した様子で軽く挨拶をする。


 私が彼らを見つけたのは、まったくの偶然だった。


 購買に残ったパンをかき集めているうちに、棚の影に隠れた彼らを発見したのだ。


 最初は私が血まみれだったから怯えられてしまったけど、説明したらすぐに人間だとわかってくれた。


 ……いや、今も怯えてはいるようだけど。


 まあ、帰ってくる道中で何度か化物を殺しているので、化物の同類に見えてしまうのも仕方ないかもしれない。




「怪我も無いようで何よりだわぁ。体操服ってことはぁ、異変が起きたのは体育の時間だったのぉ?」




 明治先生の問いに、岡田くんが率先して答える。




「そうです。外でサッカーしてたら、急に空気が変わったのを感じたんです。ふと気づいたら、外を走ってた車や歩いてた人もいきなり消えて。最初は目の錯覚かなって思いました。でも離れた場所にいた同級生がいきなり叫び声をあげて……すごい量の、血が……」


「異変が起きたのは校舎だけでは無かったということですか」


「校庭やグラウンドを含めた学校全体っちゅうことやろな」


「岡田くん、だったよねぇ。そこからどうやって逃げてきたのぉ?」


「無我夢中で走りました。その間にも、見えない化物みたいなやつはどんどん迫ってて、後ろから何かが潰れるような音と、叫び声と、あと化物の笑い声みたいなのが聞こえて……生き残った俺たちはどうにか学校までたどり着いたんですけど、中も化物だらけで、気づいたら俺ら三人だけになってて……そっから、購買の棚に隠れて身を潜めてたんです」




 話しているうちに、どんどん彼の顔は青ざめていった。


 すかさず明治先生が「これでも飲んで落ち着きなさぁい」とペットボトルを渡す。


 冷蔵庫に入っていた経口補水液――ではなく、その空に私が用意しておいた水を入れたようだ。


 中身は私が出てる間に分けて飲んだのだろう。


 決しておいしいものでもないし、特に不満はない。




「私は……見たもの、それだけじゃないけど」




 黙って話を聞いていた上原さんが口を開く。




「と、言いますと?」


「空から何かが降ってくるのを見たの。白くて……いや、ちょっと茶色も入ってたけど、すっごく大きな逆三角形の何かが、校舎の真ん中に突き刺さってた」


「……そんなものがあるなら、とっくに他の人も気づいてると思うけど」




 珍しく巳剣さんが口を開いて余計なことを言う。


 上原さんは首を左右に振ってその言葉を否定した。




「本当に見たの! こっちの二人も知らないって言ってたけど、それはすぐ消えたせい。そう、本当に一瞬だけで――その白い物体が地面に触れた瞬間に、背後から叫び声が聞こえて、一人目が殺されたのよ」


「にわかには信じがたいですね」




 龍岡先輩、ほんとめんどくさいな。


 ここじゃ何が起きるかわかんないって言うのに。




「上原さんだって命の危険がある状況で、わざわざ作り話をする理由が無いと思うけど?」


「まともな精神状態ではないからこそ、幻覚を見た可能性があります」


「そう、じゃあ龍岡先輩は信じなければいい。私は信じる。ねえ上原さん、その白い物体は何に見えた?」


「何、って……表面の感じからすると、動物とかの爪や牙みたいな感じだったけど。でも大きすぎて、何がなんだか……」


「牙ねえ……」




 それが突き刺さった瞬間に、この学校が異界と化した。


 もしかして、それが例の“カイギョ”ってやつ?




「ふん、それを知ったところで何だと言うのですか。それよりも倉金さん、あなたは食料の確保に向かったはずです。見たところ手荷物は無いようですが、そちらはどうなったのですか?」




 私はテーブルの前に移動すると、スマホの画面からだばーっと大量のパンを取り出した。




「キモ……なにそれ」




 巳剣さんが小声で言った。


 正直、それに関しては私も同意する。




「スマホ調べてたらインベントリって画面があってね。インベントリって要するにゲームのアイテムを入れるバッグのことなんだけど、それがあるなら入るんじゃないかって試してみたら見ての通り」




 冗談半分でパンを画面に突っ込んだら、ずぼって入っちゃってびっくりしたよね。


 あ、龍岡先輩悔しそうな顔してる。


 せっかく食べ物が手に入ったんだから喜べばいいのに。




「相変わらず至れり尽くせりねぇ」


「そないなけったいなもんまで用意して、オレらを閉じ込めたやつは何が目的なんや? 先輩に力を与えたのも同じやつなんやろうし」


「会衣たちが怯える姿を見て楽しんでいるのかも」


「悪趣味だよ……あたしは、そんな人がいるとは思いたくない」


「私は閉じ込めた存在と、これを作った存在は別物じゃないかと思ってるけど」


「ってことは、依里花は何か手がかりを見つけたの?」


「いやぜんぜん、なんとなくそう感じたってだけ。ただ、あの化物たちのことをカイギョの壊疽って誰かが名付けてるわけでしょ? 明治先生、確か壊疽って――」


「そうねぇ、作った本人がわざわざ腐ってる、なんて名付けるとは考えにくいわぁ」


「腐る……ですか」


「ゾンビなんかがまさにそれだよね!」


「何者かが化物どもが現れた世界で生き延びるために、倉金くんに力を与えた、と言いたいのですか?」


「一つの仮説だけどね」




 私がそう言うと、龍岡先輩は不機嫌そうに「ふん」と鼻を鳴らす。


 興味のない私は、テーブルの前のパンを指して言った。




「まあ、こんなこと議論したってお腹が空くだけか。とりあえずみんな、これ食べちゃってよ。長持ちしないやつから優先的にね」




 龍岡先輩と巳剣さん以外は、各々好みのパンを手に取る。


 その二人も、不満げに、あるいは私のことを警戒しながらも、食欲には勝てないのか少し遅れてパンを選んだ。


 その際、巳剣さんと偶然目が合った。


 私がにこりと笑いかけると、彼女は睨み返した。




「ねえ依里花」


「なあに、令愛」


「結構な量があるけど、これって購買にあったパン全部なのかな?」


「違うよ。私が購買に行ったとき、すでに誰かがパンを持っていった形跡があったんだよね。そこの一年生たちに聞いたら、自分たちじゃないって言ってたから、隠れる前に誰かが来たんじゃないかな」


「つまり、他にも生存しているグループがいるってこと!?」


「校内を自由に動き回ってる上に、持っていったパンの量も個人で運ぶには多すぎる。ひょっとすると、私と同じ力を持ってるのかもね」




 私としては面白くないけれど、現実的に考えて力が私だけに与えられたと考えるのは不自然だ。


 この広い校舎の中、私たち同様にどこかに聖域を作って隠れている人間たちがいてもおかしくはない。




「そっか……そう聞くと、少し安心するね。合流して協力できるといいんだけど」


「力を一人が占有している状況は危ういですからね」


「龍岡先輩は、私が危険だって言いたいの?」


「ええ、可能ならあなたは状況を正確に把握できる別の人物に力を譲渡するべきです」




 そっか、ついに隠さなくなってきたか。


 知的そうに見えるけど、案外短気なんだね。




「あはは、状況を正確に把握できる、って誰のこと? もしかして龍岡先輩のことかな?」


「この中で適性が高いのは僕でしょう。しかし多数決で決めても構いませんよ。ですが――少なくとも、あなたには力を持つべき人間の素養があるとは思えない」


「何を根拠に?」


「倉金さん、あなたは暴力に喜びを見出す人間です。今は化物に矛先が向いていますが、いつ人間に向けられるかわかりません」


「龍岡先輩、それはあんまりですッ!」




 真っ先に声を上げる令愛。


 本当にたのもしいと同時に、申し訳なくなる。




「せやで、仰木先輩の言うとおりや。第一あんた、倉金先輩と知り合いってわけでもないんやろ?」


「ほんの数分程度の付き合いでわかるものじゃないって会衣は思う」


「あいにく、人間観察は得意な方ですから。少し話せば、どういうタイプの人間かはわかります」




 周囲から糾弾されても、龍岡先輩は眼鏡をクイッと持ち上げて余裕を崩さない。


 突如として始まった口論に、来たばかりの一年生たちはパンを握ったまま不安に様子を眺めていた。




「龍岡先輩って嘘が下手だね」


「僕のどこに嘘があると?」


「本当は私みたいな落ちこぼれが力を持ってることが我慢できないんでしょう?」


「くだらない、そのような嫉妬心で僕が物事を判断するとでも?」


「してるよ。じゃなきゃ、明らかに私と仲の悪い巳剣さんの言い分を鵜呑みにしたりしない」


「何で私が出てくるのよ!」




 部屋の隅で腕を組んでいた巳剣さんが声をあげた。


 けれど、かつて私を見下していたときほどの余裕はない。


 そこにあるのは“焦り”だ。




「私も人間観察は得意なんだ。他人から向けられる悪意の判別が得意だから、すぐにわかったよ。龍岡先輩と巳剣さんは同じタイプだって」


「被害妄想ですね」


「でも巳剣さんから聞いたんでしょ? 私がクラスメイトからひどい暴力を受けていて、その復讐する可能性があるって」


「何のことでしょう」


「本当に嘘が下手だね。いいよ、教えてあげる。確かに巳剣さんの言う通り、私は今、暴力を振りかざすのが楽しくて楽しくて仕方ないんだ!」




 歯を見せてにぃっと笑ってみせると、龍岡先輩と巳剣さんの頬がほぼ同時に引きつった。


 その愉快なリアクションに、私の心はさらに躍る。




「さっき一年生の子を見つける前にね、吉岡さんと浅沼くんを殺してきたよ」


「嘘っ……」




 巳剣さん、引きつった声を出してる。


 かわいい。




「まあ、もちろん二人はゾンビになってたんだけどね。でも、今まで一方的に暴力を振るってきて、私のことゴミみたいに扱う連中が腐ったゴミみたいに死ぬのを見て、私は今まで人生で感じたことが無いぐらい幸せだった! 楽しかったぁ!」


「あ、あなたは……」


「どうしたの龍岡先輩、そんなに怯えて。後ずさって。さっきまでの威勢はどこ? あ、もしかしてちょっと脅せば私が屈服すると思ってた? ううん、違う、巳剣さんがそう教えたんだね! あははははは! 違うよ、違う。私は今まで選択肢を持たなかった。力が無いから。そうできなかっただけで、心の中ではずっと、ずっとずっとずっと、私を苦しめるやつらを皆殺しにしたいと思ってたッ! それが本心だったッ!」




 想像よりも大きな声が出て、保健室に響き渡る。


 みんなそれぞれ驚いて、怯えて、蔑んで、そんな視線を私に向けている。


 明治先生は案外落ち着いてるけど、令愛なんかは見てわかるぐらい困惑してて。


 そう、そうだよ、これが本当の私。


 終わってるでしょ? 今まで優しくしてきて後悔したでしょ?


 いいよ、大丈夫、私は悲しくない。


 だってそれが私にとっての日常だったし、何より今は、そんな目を向けてもなお、みんなは私に頼るしかないんだから。




「生まれつき強い人たちは意外と気づかないらしいんだけど、人ってね、力に従うしかないんだよ。例えば、私を最初に殴ったのは集堂くんだったけど、その頃はまだ“やりすぎ”みたいな空気があったっていうか、みんな引いてたんだ。ちょうど今この場にいるみんなみたいに。でも繰り返すうちに慣れていって、みんな普通に私を殴るようになった」


「だから……何だと言うんです?」


「私にも慣れるよ、そのうちね。龍岡先輩は弱いから、私に従うしかないんだもん」


「……ち、力を、渡すつもりは……無い、と」


「今のところそんなものは無いし、あったとしても、どうして私が復讐の権利を手放すと思ったの?」


「……」


「ああ、わかった。龍岡先輩、自分が殺されないかって心配なんだね。大丈夫、私は生きた人間を殺したりしないから」




 もう、これ以上は、ね。




「もちろん――」




 私は巳剣さんに歩み寄ると、顔を限界まで近づける。




「苦しみや痛みには、相応の報いを与えたいと思ってるけど、ただ殺したんじゃ相手を楽にするだけでしょう?」


「ひ……ひっ……」


「できるだけ長い時間をかけて苦しめないと、私が味わってきたものに比べたら味気ないよ。そういう意味でも、生きた人間をただ殺すだけっていうのはつまらないと思ってる。私をさんざん苦しめた巳剣さんもわかってくれるよね?」




 彼女の頬を、冷や汗が伝って落ちた。


 彼女は小刻みに顔を左右に振って恐怖していたが、終いには腰を抜かしてへたりこんでしまう。


 私は巳剣さんを見下ろし、その眺めの良さに心を震わせた。




「見上げてごらん、巳剣さん」


「や……やだ……やだぁ……っ」


「それが、私がいつも見てた景色だよ。悪意にまみれた瞳が、いくつもいくつも頭上で嗤ってる。嫌だよねえ、ここにいるだけで窒息しそうなぐらい息苦しいよねぇ」


「は……あ……ぁ……」


「どうしたの巳剣さん。そんなに嫌なら、いつもみたいに私のことを見下して嘲笑えばいいじゃん。やられっぱなしなんて、らしくない・・・・・なあ――」


「……ご、ごめん、なさい」




 か細く、消え入るような声で巳剣さんは言った。


 私は顔に浮かべていた笑顔をすっと消した。




「何?」


「ごめん、なさい。謝るわ……私が、やってきたこと、謝るから……」


「だから許してほしい?」




 巳剣さんは何度も首を縦に振る。




「まさか本当に殺されるとは思っていなかったから、焦っているの? 脅せば素直に力を渡してくれると思ってた? そこまで舐め腐ってたわけ?」




 今度は横に振った。




「正直に言え」




 抑揚のない声でそう言うと、彼女はまたしても「ひっ」と声をあげて、今度は首を縦に振る。




「言ったよね、別に生きた人間を殺したいわけじゃないって。ああ、それとも私がわざわざ巳剣さんをゾンビに変えて殺すと思った? はは、たしかにそれはおもしろいねえ! 今の私ならゾンビ程度なら捕まえるのは簡単だし、試してみてもいいかもお! いい案だ、さすが巳剣さん! あのクラスにいただけはある!」




 彼女はぶんぶんと必死に首を横に振る。


 もはや何を否定しているのかもよくわからない。




「でもさ、別に謝るのは勝手だけど――仮に謝ったとして、その謝罪の言葉で私が得することって何? 時間が戻ってくるの? 体に残った痣が消える? 切られた髪を戻してくれるの?」


「で、できない、けど……けどぉ……っ」


「わかった。じゃあ謝って。土下座して、この場で私に向けて全力で謝ってみてよ」




 巳剣さんの中にまだプライドが残っているのか、これだけ必死なのに、すぐさま土下座はしない。


 一人前に葛藤するような仕草を見せる。




「しないの?」




 そこに私が一滴の悪意を垂らすと、背中を押して突き落とされた彼女はすぐさま土下座の姿勢に移った。


 この辺のやりかたも、みんなが教えてくれたことだよね、愛しい同級生さんたち。


 そして巳剣さんは地面に額を擦り付けて、大声で叫んだ。




「ごめんなさいいぃっ! 私が悪かったです! もう二度と倉金さんをいじめたりしませんから、どうか殺さないでくださいぃいいっ!」


「あはははは。自己保身がにじみ出てる、0点」


「へ?」




 顔を上げた巳剣さん。


 私はその顔面を、思いっきり真正面から蹴りつけた。


「へぶぅっ!?」と無様な声を上げながら、彼女は吹き飛ばされる。




「依里花っ!?」


「おい、それはさすがにあかんやろ!」




 黙っていた令愛や島川くんも、さすがにこれには声をあげた。


 私はそれらの声を無視して、鼻が折れてしまい、血を流す巳剣さんに告げる。




「はい、これで終わり。私はもう巳剣さんに復讐しない」


「ふ、ふえ……?」




 痛みと衝撃で意識が朦朧とするなか、巳剣さんは私を見上げて間の抜けた声をあげた。


 龍岡先輩も思わず「何を言っているんだ……」とつぶやく。


 私は倒れた巳剣さんに近づくと、その顔に手をかざした。




「ヒーリング」




 放たれた光が、折れてしまった鼻を治療する。


 そして彼女の手を掴んで、立ち上がらせた。




「会衣は何が起きたか理解ができない……」




 他の人を置いてけぼりにしていることは私もわかってる。




「どういう、つもりなの……?」


「巳剣さんは直接私に暴力を振るうタイプじゃなかったし、はっきり言って小物だから、そこまで恨む理由が無いってだけ」


「だからって全力で顔面蹴るやつはおらへんやろ……」


「あれは必要な儀式・・なんだよ島川くん。巳剣さんは、何も無しに自分が許されるほど清廉潔白だと思ってた?」


「……それは」




 今頃巳剣さんの頭の中には、私にしたことが再生されているのだろう。


 “倉金になら何をしてもいい”という価値観の世界ではない。


 蹴飛ばした私が言うのも何だけど、“正常な価値観”で自らの行いを俯瞰するのだ。


 その結果、出した結論を――




「蹴られても仕方ないぐらいのことは、したわ」




 自己保身のための謝罪の言葉ではなく、心から絞り出すように、巳剣さんは言った。


 言わせただけようにも思えるけど、その時点で私の目的は達している。




「というわけで、これで和解しました。別に仲良くするわけじゃなくて、プラマイゼロになっただけだけど。あと龍岡先輩は、もう変なこと考えないでね。ただでさえ私と相性悪いタイプなんだからさ」


「……別にそんなことを考えた覚えはありません」




 まだ折れないか。


 でもしばらくは妙な考えを起こすこともないだろう。


 そこまで愚かじゃないと思いたい。




「私が憎むのは私に危害を加えた一部の人間だけ。ここにいるみんなのことは守りたいと思ってる。というか、守れる立場になれたことが嬉しくって、それを自分で壊すような真似はしたくないんだよね。だから、私に悪意を向けない限り、私はみんなの味方だよ」




 私は笑顔でそういった。


 別に作ったつもりは無いけど、笑うのは得意な方じゃないから、果たしてみんなを安心させる効果があったかは疑問だ。




「……さっきの見せられて、それを全部信じろっちゅうんは無理あるわ。信じたいとは思っとるけどな」




 未だにドン引きしている新入り一年生たちの気持ちを代弁するように、島川くんが言った。


 それに対して、意外にも明治先生が反論する。




「そうかしらぁ。人間、誰しも闇があるのは当たり前だわぁ。理由はどうあれ、私たちのことを守ってくれるって言うんだから、信用してもいいと思うけどぉ」


「センセのちゃらんぽらんっぷりは、そこまで行くと尊敬してまうな」


「褒められちゃったぁ、照れるわねぇ」




 明治先生の徹底して空気を読まない喋り方は、私も尊敬に値すると思う。


 でも、ここまで私として一番反応が気になる人物が、一度も口を開いていなかった。


 令愛。


 彼女は一連の話が終わっても、うつむいて立ち尽くしたままだ。


 ……これは嫌われたかな。


 まあ、最初から住む世界が違う人間って感じだったし、ようやくまともな状態に戻ったと――




「……っ!」




 思ったら、令愛が私にタックルをしてきた。


 ぼふっ、と胸に顔を埋めて、両腕で体をホールドする。


 ……抱きつかれた?


 思った以上に勢いがあったので、そう認識するまでに少し時間がかかってしまった。




「依里花……依里花……っ」


「どうしたの、令愛。怖いなら無理して抱きつく必要ないのに」


「違うよ、そんなんじゃない」




 顔を上げた令愛は、瞳を涙で濡らしながら、上目遣いで言った。




「もう、それ以上、そっち・・・に行かないで」




 破壊力はばつぐんだ。涙は女の武器って言うけど、威力が高いと女相手にも効くらしい。


 ただ問題は――令愛が何を言ってるのか、さっぱりわからないことだけど。


 私はごまかすように、彼女の頭をぎこちない手付きでぽんぽんとなでた。




 ◇◇◇




 私たちはそれぞれ保険室内でグループに分かれて、もらったパンをかじり、時間が過ぎるのを待つ。


 龍岡先輩は食事が喉を通らないみたいで、手に持ったパンは未開封のままだ。


 巳剣さんに至っては膝を抱えてうつむき、微動だにしない。


 私が助けた一年生たちは、時折怯えを感じさせる視線をこちらに向けていた。


 血まみれの制服からは着替えたんだし、みんなを守るって宣言したんだから、そんなに怖がらなくてもいいのに。


 保健室の隅には、私が帰り道で教室に立ち寄り、持ち帰ってきた色んな物資が置かれている。


 水を溜めるためのバケツやタライ、何かと便利なロープ、ビニール袋やタオル、持ち主が死にもう使われることも無い体操服や制服。


 その中からサイズが合うものをチョイスし、着替えたというわけだ。


 タライに“ウォーター”で水を張り、そこで軽く体も洗えたので、気持ちも心もすっきりしていた。


 他の人も使えるよう、保健室に備え付けられたカーテンの向こうに場所を確保したので、今は牛沢さんが身を清めている。


 体は心地よい気だるさに包まれ、油断するとあくびも出る。


 しかし、外の明るさは変わらない。


 時間を確認するには、スマホか、保健室に備え付けられた時計を使うしかない。


 今は午後の七時。


 家によっては夕食を食べている時間帯だ。


 そんな時間のせいか、一年生の上原さんが膝を抱えて「早く家に帰りたいよ……」と家庭を恋しがっていた。


 でも私は平気だ。


 恋しく思える家族がいなくてよかった。




「……ごめんね、依里花」




 私の隣には令愛がいた。


 床にタオルケットを引き、並んで座る私たちの体は、肩が触れ合うほど近い。


 令愛は軽く私に寄りかかって、その体重に心地よさを感じる私は、自分の気持ち悪さに若干の自己嫌悪を感じていた。




「たぶん、謝るのは私のほうなんじゃないかな」


「どうして?」


「ああいう人間だって、今まで隠して令愛と話してたから」


「そんなことないよ……それに、別に依里花への印象が変わったわけでもないし」


「それはそれで変だよ」


「そうかな。だって、依里花がどんな人間でも、私の命を救ってくれたことに変わりはないもん」


「ほんの気まぐれで取った行動なのに」


「気まぐれで命を賭けられる人なら、余計に信じちゃうよ」




 そこまで言われたら、もう令愛は無敵だ。


 私が何を言っても、良いように解釈してしまうに違いない。




「あたしがさっき謝ったのはね、自分勝手にお母さんと依里花を重ねちゃったこと」


「令愛の母親?」


「うちの親、小さい頃に離婚しちゃって、父親が一人で育ててくれたんだ」


「じゃあ母親は――」


「宗教にはまって、家庭を顧みなくなっちゃって。最終的にあたしを連れ去ってその宗教の施設に入れようとしたから、離婚したんだって。だから、そんな人と重ねるなんて本当に間違ってると思う……でも」




 てっきり、令愛は恵まれた家庭環境で育ってきたんだと思っていた。


 だからこんなに立派で優しい人間に育ったのだと。


 闇なんて誰にだってある――まさに明治先生の言う通りなのかもしれない。




「子供まで連れ去るなんて、過激な宗教だね」


「ネットとかで調べてもあんまり出てこないんだけど……戒世かいせ教って言うんだって。世界を破戒する、で戒世。って、言っても依里花は知らないよね、はは……」




 苦笑する令愛。


 でも私は、その名前に奇妙な既視感を覚えていた。



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