第2話
心優しく、差別せず、よく視て、よく識り、物事を深く考えよ。人の話をよく聴き、視野を広く持て。
――ノブレスオブリージュ。
貴族として生まれたからには、その地位と財産に対しての責任を負う。それが我が家の家訓だった。
両親と私と弟。ロニエ侯爵領は家訓を胸に善政を引き、先の大雨の飢饉の際も餓死者はほとんど出さなかった。それどころか困窮する他領を救うために、奔走したというのに……。
前皇帝陛下はもちろんそれをよく知っており、感謝を伝えてくれた。
……それが悪かったのだろう。
気づけば、我が領の被害が少なかったのは、前皇帝陛下から恩寵により、秘密裏に食糧と資金を得ていたからだという情報が流れた。前皇帝陛下と仲が良かったためだ、と。
もちろん、ロニエの領民たちはそんなことは信じていない。
だが、他領の鬱憤は溜まりに溜まり、どこかでガスを抜く必要があった。
前皇帝陛下の御代であれば……そう思うが、亡くなったものに助けを乞うことはできない。
民衆から上がる様々な不平不満。それは放っておけば帝国全体を揺らがし、帝政の存続も危うくさせるようなものだったのだ。
だから……。
『あなたが犠牲になったのね……』
聞こえてきたのは涼やかな声だった。そして、その声はどこかで聞いた覚えがあって……。
私は死んだはず。なのにこれは……?
目を開けようと思うが、うまく開けられない。手足を動かそうと思ったが、それも叶わなかった。
『ごめんなさい。これは私の責任なの。あなたが負う必要はなかったのに……。まず、あなたにこれを見てほしいの』
言葉が終わると、急に目の前に光景が現れた。
これは……?
『これはあなたがいなくなったあとの世界。あなたがあそこで死んでしまった場合の続きの世界よ』
見えたのは、王宮の一間。そこにいるのは金色の髪と金色の瞳……新皇帝アルフレッドだ。そして、その前に立っているのは青みがかった銀色の髪に緋色の瞳の騎士だった。
「おい、エルウィン・ブラッド! なぜ、勝手に斬首刑を行ったのだ! 私の合図が出るまで執行するなという決まりだっただろう!?」
「さあ。私は本日、代行でこの任務に就きましたのでそのあたりは聞いておりません」
とぼけてみせるその姿にふふっと笑みが漏れてしまう。
エルウィン・ブラッドはブラッド公爵家の次男で、近衛騎士団の団長だ。若いながらに剣の腕は相当なもので、この国で右に出る者はいない。
すでに斬首されてしまったナランと私と彼。三人で幼馴染だった。
騎士らしい強靭な体躯と、鋭い視線。けれど、どこかお調子者というか、悪戯好きというか……。そういう面があって、いつも私とナランを笑わせてくれていた。
彼には両親と弟を国外へ脱出させてくれるよう頼んである。彼に限ってそれを裏切るということはないだろうし、ここにいるはずがない。
だが、私が死の間際に最期に聞いた声はエルウィンのものだった。
私を斬首したのは……彼だ。
「あ、そういえば、申し送りで聞いていた内容はあります」
エルウィンはそう言うと、緋色の目をぎらりと鋭くした。
「アルフレッド皇帝陛下はレディアーナ・ロニエ侯爵令嬢を散々に貶めるおつもりだ、と。斬首するだけに見せかければ、侯爵令嬢は粛々と応じ、自ら断頭台に跪くだろう。その後、動けなくしたあと、民に石を投げさせる。さらに、その後、服をはぎ取り、鞭打ちを行う。羞恥と痛みで泣き喚いた姿を見たあと、斬首するのだ、と」
いつもの優しい声ではない。それは聞いたこともない底冷えするような声だった。
そして……その内容も酷いものだ。アルフレッドはどうしても私を貶めたかったのだろう。
エルウィンによって斬首されていなければ、私は相当な辱めになっていたのは間違いない。
もちろん、それに負けるつもりはない。どれだけ肉体的に貶められても、私の矜持は私だけのものだ。
「お前なんかに、レディアーナは穢されない」
エルウィンは緋色の目を光らせて、アルフレッドに歩み寄った。
「ひっ」
その圧にアルフレッドは数歩たたらを踏んだ。
エルウィンはアルフレッドを上から見下ろして、ぐっと奥歯を噛む。
「レディアーナは民のために死んだ。荒れた帝政の対価を自らの命で贖うために。今、革命を起こす機運が高まれば、飢饉で苦しんだ民がより苦しむことになるだろう、と。いずれ民が望めば新しい時代が来る。だが、それは今ではない。戦も飢えもないままの革命が一番望ましい、とな」
「お、お前はなにを言ってるんだ……!?」
「……レディアーナがその命を捧げなければ、お前の世はすぐに終わっただろうという話だ」
「だから、なにを言ってるんだ……!!」
アルフレッドは聞きたくないとばかりに首を振った。……理解できないのか、理解したくないのか。
ただその態度はエルウィンから急速に表情を失わせた。
エルウィンの顔は……無、だ。これまで感じた怒りや悲しみ、悔しさといったものもない。エルウィンは一度目を閉じて、アルフレッドから離れた。
「俺はこんな国も、レディアーナに石を投げた民も守るつもりはない」
「待て! エルウィン・ブラッド!!」
「黙れ、下衆が。二度と俺の名前を呼ぶな」
そう言って、踵を返し、部屋を出て行く。
「今、お前を殺すのは簡単だ。だが、しない。お前はこのまま生きてせいぜい国を治めるがいい。――大勢死ぬだろうが、天の意思なんだろうな」
エルウィンに「待って……!」と声をかけようとする。
でも、思ったことは、言葉として発声することはできなかった。もしかして私には……肉体がないのだろうか。
肉体は死に、精神だけが存在している。そう考えれば、今の状態を認識できるような気がした。
だとすれば、今の私がエルウィンになにかを伝えることはできなくて……。
すると、見ていた光景がパッと切り替わった。これは――
『次はあなたが死んだあとの三十年分の景色。次々と変わるから、取り残されないように』
――そこから見た光景は地獄と言っていいものだった。
何度も襲い来る飢饉。対応できない王宮。その度に見せしめのように殺されていく貴族。庶民は勤勉さも就労も忘れ、貴族の処刑を待ちわびるようになった。。
善良で忠誠心ある貴族から処刑され、一部の貴族はどうせ処刑されるのならば、と悪逆の限りを尽くす。また領を放棄し、他国へ亡命する貴族も増えた。
そんな中、庶民派として喧伝する皇帝アルフレッドは、質素倹約を掲げ、緊縮財政を続けていく。
しかし、同時に経済活動も鈍化し、生産力も落ち、どれだけ倹約しても、倹約しただけ経済力をなくしていった。
……私が死んだあとの国は、滅亡への道を歩み続けていた。
『そして……ようやく、彼が現れます。凄惨な世界の果てに……』
見えた光景は、馬に乗ったエルウィン。三十年後ということは、もう五十になったのだろうか。
短く整えられた銀色の髪と、伸びた顎髭。精悍な青年は渋みのある男性へと変化していた。だが……その緋色の目に光を感じない。
新皇帝の前ですべての表情を失ったあの日。あの光を失った瞳と同じ色をしていた。
『彼は隣国へ渡り、あなたの家族とともに兵力を蓄えます。……本来なら三十年も必要なかったでしょう。ですが、国が荒れ果てるのを待ち続け、ようやく動くのです。そして、あっという間に帝国に勝利します』
次に現れた光景は、年を取った皇帝アルフレッドと皇后フィレナが断頭台に跪く姿だった。
苦労に苦労を重ねたのだろう。二人の姿は三十年後ではなく、あれから五十年は経っているように思えた。
「石を投げろ」
集まった民衆に向かって、エルウィンが興味なさそうに声を出す。
石を投げられた皇帝アルフレッドと皇后フィレナは、すでに泣き叫んでいる。そこに矜持などまるで感じなかった。
「……レディアーナは涙を見せなかった。命乞いもしなかった。なのに貴様らはなんだ?」
エルウィンに表情はない。ただ興味がなさそうに呟いた。
「服を剥げ」
ああ……これは……。私がされるはずだったこと。エルウィンが私を守ってくれた。
あの仕打ちを、二人にしようとしているのだ。
懸命に「エルウィン」、「エルウィン」と呼びかけようとする。そんなことはしてはいけない、と。だが、声を発することはできなくて……。
『……この後、皇帝エルウィンは広場に集まった民をすべて殺しました。処刑を楽しむ民は我が帝国には不要、と』
告げられた言葉に胸が痛んだ。
『皇帝エルウィンは政治をおろそかにはしませんでした。が、災害などが起こっても民を救うことはなく、切り捨てました。また、後継者を作ることもなく、七十で病没します。帝国は滅亡。残った土地と民は隣国に分割統治され、この世界はようやく平和を取り戻しました』
つまり私が死んだ五十年後。我が国は滅びてしまうのだ。……ナランと私が斬首された甲斐もなく。
『最後に、この光景を見てください』
現れた光景は……これまでとはまったく違っていた。
緑の葉が生い茂る森。そこにきれいな小川が流れている。清流には魚がいるのか、ときおり、光を反射しきらめいていた。
「みろ! さかながいるぞ!」
「エルウィン、あぶないよ、かわにちかづきすぎちゃ」
「かわ、きれいね」
ああ……これは……。懐かしい姿に胸がぎゅうっと痛んだ。
見えたのは、幼いころのエルウィンとナラン、そして私だった。
これはきっとナランの領地だろう。五歳のころ、みんなで森を散策していたのだ。周囲にはもちろんたくさんの大人がいるし、危険はない。だが、私はここで川に落ちてしまう。どうしてだったか……私には落ちる直前の記憶がなかった。
『私はここで、あなたを呼びました』
そこで光景が入れ替わる。次に見えたとき、私は一人で川の上流へと向かっていた。
下流ではエルウィンの大きな声とナランの困ったような声が響いている。
たしか、エルウィンが服を脱いで川へ入ると言い始めて、ナランがそれを必死で止めて……大人の気がすべてそちらに向いたとき、私は上流のだれかに呼ばれた気がして歩き始めたのだ。
まだだれも、私がいなくなったことには気づいていない。
それはそうだろう。私は自分の立場をよく理解していたし、一人で行動するなんてことはなかったのだから。
でも……そのときは一人で歩き始めたのだ。それがこの声に呼ばれたからだとしたら……? この声に聞き覚えがあったのも……。
『あなたに力を授けるつもりでした。あなたであればよきことに使ってくれるだろうという確信があったからです』
小さな体で上流へととことこ向かっていく私。なにかに惹きつけられるように、まっすぐに進んでいる。そして――
『……ですが、あなたのほかにもう一人いました』
――私のあとを追う、同じぐらいの年頃の茶色い髪の少女。
「ずるい。あのこだけ、ずるい」
ぶつぶつと呟いて、私のあとをついてくる。
幼い私は呼ばれる声に夢中でそれに気づいていない。
小川はあるところまで行くと、小さな洞穴から湧き出ていた。
幼い私は小川の脇を通り、洞穴へと入っていく。
そこには、淡く光る球体が浮かんでいた。
「うわぁ……きれい……」
きらきらと輝く光。青や緑、赤にゆっくりと色が変わっていく。
幼い私は魅入られるようにそれに手を伸ばした。
その瞬間、私はスッと目が覚めたような感覚になる。
思わずパチパチと瞬きすれば、しっかりと目が瞬いた。両手をにぎにぎと動かせば、小さな手がぎゅうぎゅうと動いた。――精神が体に入った!?
びっくりして思わず固まってしまう。すると、急に背中をドンッと押されて――
「それ、わたしがもらうね」
――私はそのまま小川へと落ちていた。
小さな体はどんどん流され、洞穴の外へと押し出されていく。水を吸ったドレスが重く、うまく水面から顔が出せない。
一瞬、顔が出たとき、ヒュッと息を吸ったが、水も一緒に入ってしまって、ゲホゲホッと噎せ、また顔が沈んだ。
「だれ……っか」
また顔が浮き上がった瞬間、なんとか声を出す。けれど、すぐに水流に呑まれて――
私の目には、茶色い髪の少女の表情だけが残っていた。歪な笑みが私を見て喜んでいる。ああ……この顔は……。私が断頭台から見た、あの……。
『ここからもう一度、やり直してみましょう』
その声と同時に、私は喉の痛みと苦しさから、意識を手放した。
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