第4話(その3) ~春風 椎・椎名町サンロード~
「これ、食べ物じゃないんデスカ?信じられまセン!本物みたいデス!」
喫茶店の店頭に展示された食品サンプルを指差しながら、私は驚きの声を上げた。
そこには精巧に作られたホットケーキやサンドイッチ、コーヒーなどの模型が、棚の上に飾られている。私の育ったアメリカでは、そんなものを見た事も聞いた事もなかった。
興奮しながら奏の顔を見たが、私が食品サンプルのどこに感動したのか、あまりよくわかっていない様子だった。その表情を見て、「きっと日本では、どこにでもある普遍的な物なのだろう」と私は推測した。
入店後、私はまず最初に出された水を一気飲みした。800円の蜂蜜がたっぷりと塗られたホットケーキを3枚注文して、それらを全て平らげた。大好きなコーヒーは、フラッシュバック後に飲むと、不安感を増幅させる事があるので注文しなかった。
「ヤッパリ疲れた時は、甘いモノが一番ですネ!」
完食後、私は嬉々として喋った。
対面に座る奏は、先程大泣きしていた私が、180度態度を変えたことに驚いている様子だった。彼女はホットココアとサンドイッチを注文しており、カートは床で固形のドックフードを食べていた。
「カナデ、カートくん。私のわがまま、聞いてくれて、ありがとうございまシタ。とても元気、なりましタ!」
「いいよ~ん。キミは日本に来たばっかだし、しょーがないよ」と奏は言う。
「そうだよ〜椎お姉ちゃんが元気になって、おれうれしい!」とカートも言う。
✩☆✩
患っている
その代わり、フラッシュバック発症後、素早く精神を安静にさせる力を、アメリカで訓練して身に付けていた。すなわち、心の魔法だ。
心の魔法を習得する過程で、心の知能指数――つまり、EQを高める特訓も行った。
そのお陰で10歳の時には、なんとか人並みの生活が送れるようになった私だった。しかし、20歳になった今でも、未だに自身の内面に対する自信が、まるで持てなかった。自分でも悲しくなるくらい馬鹿だし、すぐに精神的なパニックになる。
でも、シナモンとキャラウェイから教わった心の魔法と、彼らから鍛えられたEQに関しては、絶対の自信を持っていた。愛する師匠達――そして、産みの母親から学んだ事に関してだけは、誰にも負けたくなかった。例え、それが大好きな姉の林檎だったとしても。
今回のフラッシュバックは、「育ての母親」のワードがトリガーとなったが、毎回その言葉を聞いたら症状が出るわけでは無い。当然、出ない事の方が圧倒的に多い。そもそも、毎度の様に発症していたら、こうして外を出歩くなんて夢のまた夢だろう。
それはある種のランダム性を伴っていた。まるで日本のおみくじみたいだ。大凶を引くと、過去の自分から殺意の高い爆弾が贈呈される。
かと言って、大吉を引いたら引いたで、場合によっては大凶よりも辛い目に合う。なんにせよ、最低最悪のおみくじだ。
過呼吸の時、目の前のふたりが自分の症状について、詳しく聞いてこなかった事、そしてパニックにならなかった事が、私にとってはとてもありがたかった。
咄嗟に出たホームシックの嘘が、奏にはきっとバレていると直感的に思った。が、それをあの場で追求する事無く、この店へ連れてきてくれた事に深い尊敬の念を覚えた。その辺りの対応は、キャラウェイにとても似ている。
✩☆✩
私達が居るのは、個人経営の小さな喫茶店だった。4人掛けのテーブルが8卓あり、店内は木材を基調とした落ち着いた空間。店内のスピーカーからは、ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビィ」が静かに流れている。
壁際には、高さ2mほどの木製本棚があった。全部で5段。1段目に2枚のレコードといくつかのフィギア、それ以外の段には「デビルマン」や「火の鳥」などの古い漫画がぎっしりと詰められている。
「いいお店でしょ~?ボクのお気に入りなんだぁ。さっきの場所から近くて良かったよ」
奏はココアを一口飲んでから、そう言った。
「ホントそうですネ、とても安心しマス」と私は言う。
「ここさ、『カンガルーとライオン、ときどきオオカミ』って名前なんだ、このお店。ボクらの家からも近いし、ぜひ使ってよ」
カンガルーとライオン、ときどきオオカミ。その言葉は、私に絵本のタイトルを連想させた。同時にとても素敵な名前だとも思った。
私が店名の響きにうっとりしていると、ドッグフードを完食したカートが声を掛けてきた。
「ねえ、椎お姉ちゃん!おれのこと、お母さんみたいに『かーと』って呼んで!」
池袋から椎名町に向かっている途中、カートは12月18日に旭山動物園で生まれたと、奏から聞いた。今日が3月20日なので、生後3か月を過ぎている。口内には、すでに牙が生えてきていた。
「わかりましタ。よろしくでス、カート!」
そう言いながら、私はカートの耳の後ろを優しく撫でた。
「あはは!ありがとう、お姉ちゃん!」
カートは嬉しそうに尻尾をバタバタと振っていた。
私はこんな愛らしく可愛い生物と暮らす未来を考える。すると、私の表情筋はだらしなく緩んだ。
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