第4話(その2) ~春風 椎・椎名町サンロード~


「ボクさぁ~、九州の長崎県出身だから、ここの地名がすっごく好きなんだよねぇ」


 駅の北側に広がる椎名町サンロード商店街の入り口で、奏は愉しげに語った。


 奏とカートは、豊島区長崎に住んでいると、ここまでの道中に聞かされた。


 私が長崎について知っている事は、第二次世界大戦中に原子爆弾が落とされたという事くらいだった。奏がこれだけ嬉しそうに言うくらいなのだから、九州の長崎県はきっと素敵な場所なのだろう。もっと日本について勉強するべきだった。私は自分の無知を恥じる。


 ふと七色に彩られた商店街のゲートを見上げると、そこに自分の名前の漢字が使われていた事に気が付いた。春風椎の「椎」だ。小さな発見に思わず立ちすくんでしまうと、奏が私の背後からこう言った。


「キミの名前も『椎』だから、この街をすっごく気に入ってもらえると思う」


 その通りかもしれない。私、この街が好きになれそうだ。



✩☆✩



「ところで春風ちゃん。キミの事さ、『椎』って名前で呼んでもいいかな?教授みたいに」


 奏は前を向きながら、自分より背丈の低い女の子に訊ねた。


 質問された私は、新しい先生の横顔を上目遣いで眺める。


 私からの目線に気が付いた奏は、こちらに顔を向けると、どこか子供っぽい口調で「やっぱダメ?」と聞いてきた。


「ベ、別にいいデスよ。好きな呼び方、してくだサイ」


「やった~!じゃあさ、椎もボクの事を『奏』って呼んでもいいよ!」


「ありがとうございマス、カナデさん」


「ん~『さん』はいらないかなぁ?『奏』だけでいいよ、君の住んでたアメリカみたいに。どう、言えそう?」


「わかりまシタ……か、カナデ!よろしくお願いしまス!」


「ありがとぉ~。椎の素直な所、超大好き!」


 奏は左手で私の頭を、キャップ越しに優しく撫でた。こういう所は、なんだかメアリーに似ているなぁと思う。


 ただ、1つだけ違う。スキンシップの際、気分がいいのはどちらも変わらない。が、奏の場合はそれに加えて、胸の奥がキュンと締め付けられる想いがする。


 同時に期待してしまう。もっと、身体の色々な所……自分でも触った事ない場所に、その長い指で触れて欲しいと。


 馬鹿みたいだ、私。


 奏とは、まだ出会ったばかりなのに……



✩☆✩



 私達のやり取りを見て、一緒に歩くカートが、甘える様に体を丸めながらくねらせ、奏の左脚に体を擦り付けた。


「お母さん、おれもなでなでしてよぉ~」


 カートは首輪をつけておらず、代わりに赤い8の字型のハーネスを着けて、古場奏の右側を歩いていた。ハーネスから伸びる紐も赤色。その先端の輪っかは、奏の右手に握られている。


「そうだよね~。は~い」

 そう言うと、奏は歩みを止めて、彼の頭に優しく触れた。


「わぁい、お母さん、大好きぃ!」

 小さなお願いが叶ったカートは、尻尾を千切れんばかりに大きく振りながら言った。


 その微笑ましい様子を見ながら、私の口から意図せぬ言葉が漏れ出した。まるで穴の空いたビーチボールみたいに。


「オカアサン……?」


「そう!ボクがこの子のお母さん!乳離れしたタイミングでボクが預かったから、育ての親ってことで、お母さんって呼んでもらってるの」










 それは突然やって来た。


 アポイントメントも取ってくれなかったし、なんならノックすらしてくれなかった。


 脳裏にあの日の出来事が――ソムドで私の母親代わりだった女性、フランの最期がフラッシュバックする。




 ――2026年4月30日




ドロドロに溶けた眼球。


眼窩から落ちてくるブヨブヨとした蛆。


硬直から弛緩に移行した柔らかい関節。


赤黒く染まった、表皮が剝がされた肉。


気が付けば慣れてしまった歪な腐乱臭。




 その瞬間、自分の額からドロドロとした脂汗が出るのを強く感じた。呼吸がどんどん荒くなる。嘔吐感が一気に込み上げてくる。


 自慢の41-Capを使用しようにも、もう間に合わない。


 代わりに胸元へ仕舞った猫型のロケットペンダントを右手で引き摺り出し、力無く握った。


 昼間の商店街は、買い物客がたくさん歩いていた。もし可能なら周囲の人々なんか気にせず、その場で力なく座り込みたい気分だ。幼子の様に泣き叫びたくなる真っ黒な衝動が、過去から襲い掛かってくる。


 今日は飛行機に乗っていた時といい、駅前の交差点に立っていた時といい、なんだか調子がおかしい。










 背後から視線を感じる。


 私はゆっくりと振り返る。視線の送り主は、池袋駅の交差点に立っていたあの少女だった。ただし、今度は服装が違う。先程は血塗れの白い服だったのに対し、目の前の少女が着ているのは、真っ黒なワンピースであった。


 彼女はあの時と違い笑っておらず、様々な感情が入り混じった不思議な表情を、その幼い顔に浮かべていた。虚無、絶望、切望……。その双眸からは、大粒の涙が流れ落ちている。










「椎、どうしたの?」


 異変に気が付いた奏が、心配そうに声を掛けた。


 この時、私はペンダントを握って、後ろを振り返っていた状態で棒立ちになっていた。突発性の過呼吸になっており、身体は氷点下の河から這い上がって来た時みたく、ブルブルと激しく震えている。


「ごめんなサイ。ちょとホームシクかもしれないデス。少シ休みタイです」


 私はおもむろに奏の方を振り向くと、自分の感情を悟られない様、かなり無理して笑顔を作った。ただ、両眼からボロボロと流れ出した涙を隠す余裕は、その時の自分には一切無かった。



✩☆✩



 過呼吸になった後、奏の手を借りて商店街の端に移動し、自分で応急処置をした。今回使ったのは、吸った息を10秒程度かけてゆっくり吐き出す呼吸法だ。


 この間、奏は私の背中を優しく背中を擦ってくれていた。


 幼いカートは、お座りをしながら、2人の様子を心配そうに見上げている。


 2分後、私の体調は快復した。その後、休憩を兼ねて、私達は商店街の中にあるペット同伴可の喫茶店へ向かった。

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