第3話(その9) ~春風 椎・名前の無い交差点&4401号室~

カートとたっぷり触れ合った後、私は再びキャラウェイの横に座って、甘いコーヒーの入ったカップに手を伸ばした。



 頃合いも良いので、このコーヒーを飲み終わったら、日本での仮住まいへ移動する事にした。キャラウェイに頼んで、予約してもらったホテルだ。そこに滞在しながら、入学式までに新しい住居を探す予定だった。


 カップの中身を飲み干した後、私は席を立とうと別れの口上を述べた。


「では、ワタシはそろそろ行きマス。予約してもらたホテルがありマス。古場先生、カート君。会えてよかたデス。4月から、どうぞよろしくお願いしまス」


「ダッテサー、キョウジュー。あーあー、ココデ、キミとオ別レだなんて、ボクはートッテモーザンネンだなー」


 奏はキャラウェイに向かって、あからさまな棒読みでこう言った。その寂しそうな表情は、どこか演技じみている。


 ふと家主の方へ視線を移すと、彼は下を向きながらクスクスと笑っている。


「その……実は、意図的に黙っていたんですが、あなたには日本文化の勉強ということで、奏さんの家でホームステイをして貰います」


 キャラウェイは微笑みながら、にこやかに言った。


 私は状況がまるで理解できていなかった。


 ――はい?どゆこと?


「じゃあ、春風ちゃん。そろそろボクらの家に行こっか。キミの新しいお家を早く紹介したいし。んじゃ、教授、コーヒーごちそう様でした」


 そういうと、奏はその場に立ち上がった。自分の足元で寝転んでいるカートに「ほらもう帰るよ、さあ立って立って」と促していた。


 ――ふぇ?ちょっと、そんなの聞いてないんだけどぉ??


「せ、先生。どういう事デスか?ホテル、予約、どうなたんデスか……?」


 自分の混乱と疑問を、たどたどしい日本語でなんとか言語化した。


「実は最初から予約を取っていません」


 とキャラウェイは悪びれる様子も無く言った。

 

 ――???????? 


 私は唖然とした表情で、奏へ視線を移す。彼女は2度目のドッキリが成功した事に、とても大満足しているみたいだ。焦っている私を、子どもっぽい無邪気な表情で眺めていた。


「その顔いいねぇ!春風ちゃんは、からかいがいがあるなぁ」


 奏はそう言うと、キャラウェイに右手でハイタッチした。


「椎さん、驚かせて申し訳ありません。ただ、椎さんがあたふたする姿を見るのは、とても珍しい体験だったので、個人的に楽しませてもらいました」


 混乱した頭の中で状況を整理する。




 ――なるほど、ドッキリなのは、よぉ~くわかった。さてどうする?ここで強くホームステイ断れば、予定していたホテル暮らしだって出来るはず。のんびりと一人暮らしをするのも悪くはない。


 ……でも、目の前のいたずら好きの綺麗な女性。そして、可愛い狼の子どもと一緒に暮らす生活の方が、きっと何倍も、何百倍も、いや何万倍も刺激的に違いない。うん、そうだよね――




 自分の中で結論は出た。


 同時に「2回もイタズラされたまんまじゃ、何だか悔しい」という感情が芽生えてきた。「なんとか、古場先生に一泡吹かせてやらねば」と思い立った時、サンノゼで聞いたメアリーの言葉が脳内に蘇って来た。





『日本はハグ文化があんまり無いから気を付けて。一応、仲の良い同性同士ならする人達もいるけど、異性にハグなんてしようものなら……相手をその気にさせちゃうぞ♪』





 ――これだ!私達、同性だし、まあ大丈夫でしょ!


 仕返しのアイデアを思い付いた私は、ソファから立ち上がり、カートを起こそうとしている奏の前に行った。


「わかりましタ。古場先生、ホームステイ、どうぞよろしくお願いしまス!」


 そう言った私は、意地悪そうな笑みを浮かべながら、奏の胸元に思いっきり抱き付いた。


「ひゃ!?は、春風ちゃん!?」


 奏は両腕を万歳の形に上げて、飛べない雛鳥の様にバタバタさせた。


「古場せんせ、ハグはアメリカの挨拶デス。そして、これはヨーロッパの挨拶デス」


 私はつま先立ちをして、奏の右頬に軽くキスをした。これはフランス育ちのクローブに教わった挨拶の仕方だ。


 どうやら仕返しの効果はてきめんだったようだ。キスの後、上目遣いで奏の顔を眺めると、肌が紅く染まっていた。視線は落ち着きなく、あちらこちらへと泳いでいる。


 しばらくすると、奏は天井に上げた両腕を、私の背中に回した。どうやら、「ボクは動揺していないんだぞ」というフリをしようと、彼女なりに努力しているみたいだった。


 が、密着している私には、徐々に早まる心拍音を全く隠せていない。


 私はもう一度、彼女の左頬にキスをした。というのも、古場奏のハグ文化にあまり慣れていない、そのドギドマとした様子が、どこか愛おしく思えたからだ。


 あれ?愛おしく?それって、つまり――


 ――あぁ、なるほど、そういう事か。


 2回目のキスをした時、はっきりと自覚した。





 ――やっぱり、私はこの人の事をとても愛しているんだ。





 風の噂で聞いていた一目惚れを、まさか自分が体験する事になるとは思わなかった。


 自分の感情を認識すると、急にハグしているのが恥ずかしくなってきた。


 でも、同時に離れたくない気持ちにもなった。


 頭の中がチグハグになるのを感じる。変な気分だ。


 でも、嫌な気分では無かった。絶対に。





「ぐぬぬ、優しい悪魔め……」


 私が自分の恋心を確信した時、頭上から意地悪な天使がぼそりと呟いた。

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