第3話(その6) ~春風 椎・名前の無い交差点&4401号室~

 4401号室のインターフォンが鳴り響いたのは、キャラウェイが景色を眺めながら、私に地名や観光地を説明している時だった。


「おや、もうこんな時間ですか、ちょっと失礼します」


 こう呟いた彼は、1階エントランスの自動ドアを解除するために、スマートフォンを起動した。


 こんな時間?


 彼の言葉が気になった私は、スマホで時間を確認すると、画面には13時25分と表示されていた。


「あえて秘密にしていたのですが、13時半に来客が来る約束だったんですよ。椎さんにも関係する人です」


 1階のロックを解除した後、キャラウェイが言った。


 2分後、再びインターフォンが鳴った。今度は、44階のガラス戸の前にあったものだ。


「さっき私が言ってた意味わかりました?こう言う事なんです」


 先生は苦笑しながら、もう1度スマホでセキュリティロックを解除した。操作を終えると、玄関の方へ歩き出した。私も彼の後を追う。


 3回のノックの後、木製の扉が開いた。


 扉が開くと、春の暖かい風が室内に吹き込んできた。


 そこには、私が今まで見た事無いくらい美しい女性が、ニコニコしながら立っていた。








~~~








 彼女を見た瞬間、私は胸の辺りが真っ白に灼ける感覚を覚えた。


 乾燥した心に激しい雷が落ち、荒れ狂う強風で、そこから大きな炎がめらめらと燃え上がる。


 それは私に8400エーカーもの土地を焼き払った、ヤーネルヒル大火災を連想させた。


 誰にも止める事が出来ない、不条理な山火事。


 知らない動揺。知らない高揚。知らない欲情。


 こんなの学校では教わらなかった。


 自分の精神をコントロールする術を学んできたのにも関わらず、濁流の様に膨れ上がる、この不思議な気持ちはとても制御出来そうにない。


 どうすればいいのか、まるでわからない。感情の海に溺死しまいそうだ。


 でも、不思議と怖くはなかった。


 いっそのこと、この気持ちを抱いたまま死んでしまいたい気分にさえなった。



✩☆✩



 女性の身長は、160cmよりやや高いぐらい。長い黒髪をハーフアップでまとめている。ドア風が吹くとその柔らかい毛先が、その性格を表現するかの様にひらひらとなびいていた。


 彼女はベージュのニットカーディガンを羽織り、その下に白い無地のシャツを着ていた。


 下半身は黒のロングスカートで、足には厚底になっているブラウンのレディースサンダルを履いていた。


 女性の横には、1頭の子犬が並んで立っていた。私は犬について、あまり詳しくは無かったが、おおよそ生後2~3ヵ月ぐらいに見えた。というのも、身体はすでに柴犬の成犬よりも大きかったが、顔には子犬特有のあどけなさと愛らしさが残っていたからだ。


 体毛はとても柔らかそうで、頭蓋から臀部にかけて、ところどころに白が混じった濃いグレーに染まっていた。フサフサとした太い尾も同様だ。打って変わって、口吻周辺と脇腹、そして四肢は真っ白な色をしていた。


「お邪魔するね、教授」

「どうぞ、お上がりください」


 女性はサンダルを脱いで、玄関のフローリングに立つと右手を顔の横まで上げた。キャラウェイも右手を上げるのを確認すると、女性の方から勢いよくハイタッチした。パァンという破裂音が44階中に鳴り響く。


 私は音にびっくりして、目を大きく見開いた。日本人がこんなに激しい挨拶の仕方をするのを、知らなかったからだ。


「あ~なんか驚かせちゃってごめんなさい、春風さん。これが教授とボクの挨拶の仕方なの。どうもはじめまして、古場奏です」


 古場奏もゆっくりと喋ってくれたので、私は彼女が言っている事を理解できた。


 奏は簡単な自己紹介を終えると、先ほどキャラウェイにしてみせた感じに、右の掌を軽く振り上げた。


 私は少し照れながら、自分の右手で優しくハイタッチをする。ぱぁん、と軽くて弱弱しい音が玄関内に小さく木霊した。


「はじまして、シ……じゃなかた、春風椎デス」

 自己紹介の後、ハイタッチした手で奏に握手を求めた。


 奏は快く応じてくれたが、握手をしている時、彼女の頬が少し紅潮していたのを、私は見逃さなかった。


 もしかして、この人も自分と同じ気持ちなのだろうか?そうであって欲しい。私は切望する。


「奏さん、玄関で自己紹介というのも無粋ですので、一旦リビングまで行きましょう」

「それもそうだね。んじゃ行こっか、春風ちゃん」


 奏がこう言い終えた後、握手は優しく解かれた。


 ――もう少しこの人の手を握っていたかったのに。


 手を開きながら、私はほんの少しだけ泣いてしまいそうな気持ちに陥った。

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