第3話(その4) ~春風 椎・名前の無い交差点&4401号室~
キャラウェイの自宅を見つけるのは、思いの外簡単だった。ザ・タワー・エンパイア。高さ151m、45階建。西池袋で1番天国に近い、超高層マンションだ。
エントランスは建物の東側にあり、二重の自動ドアと厳重なオートロックが設置されていた。自動ドアの奥はフロントになっており、コンシェルジュが机に座っていた。
不愛想なガラス扉の前で、初春の日差しよりも暖かい表情をしたキャラウェイが私を待っていた。
「こ、こんにち『は』。キャラウェイ先生!」
慣れない日本語と緊張のあまり、私は「は」の発音を"wa"ではなく"ha"と言ってしまった。
挨拶の後、すぐ自分の失敗に気付いた私は、ちらりとキャラウェイの顔を一瞥した。しかし、彼がそれを気にしている様子は特に見受けられなかった。
「こんにちは、椎さん。日本でもどうぞよろしくお願い致します」
キャラウェイは、先程の若者達とは違い、ゆっくりとわかりやすい活舌で自分に挨拶を返した。
彼は黒のジャケットとズボンを履き、その上に紺色のチェスターコートを羽織っていた。
挨拶の後、紳士が握手を求めると私もそれに応じた。3秒ほど握手をした後、お互い手を放して、強くハグを交わした。
✩☆✩
ザ・タワー・エンパイアには、3基の居住者用エレベーターが設置されており、私達は真ん中のカゴに乗った。
この高層マンションの最上階は共有のラウンジスペースとなっており、彼の部屋はその1つ下の44階。つまり、池袋駅西口で最も高いところに住んでいる。
エレベーターを出ると、更にもう1つオートロックのガラス戸が付いていた。
「お客さんが来た時や何かを届けて貰う時、これが面倒なんですよね。2回もロックを解除しなくてはなりません」
キャラウェイは苦笑いしつつ、ガラス戸へ身体を近付ける。すると、どこからかカチャリと小気味良い音がした。
「スマートフォンを持っていると自動で解錠してくれるんですよ、便利な時代になりました」
左右に開く自動ドアを見ながら、紳士は言った。
✩☆✩
4401号室。キャラウェイ・ティンの日本での住居。44階は部屋が1つだけ。つまり、このフロアには彼しか住んでいない。
私が通されたのは、40畳程の広さのリビングだった。床材は大理石で、日頃から丁寧に手入れされた証明と言わんばかりに、大きなガラス窓から差し込む太陽光を煌々と反射させていた。
部屋の真ん中には木製の大きなローテーブルが設置されており、5人掛けの革製のソファが向かい合う形で置かれている。テーブルとソファーの下に敷かれた黒色の絨毯は、真っ白な大理石ともうまく調和していた。
部屋の北側には、カウンターキッチン。東側には、染み1つ無い真っ白な壁。そして西から南にかけて、何もないと錯覚してしまうぐらい、透明で巨大なガラス戸がずっと続いている。
部屋を見渡しながら、私は広さに対してあまりにも物が少ないように感じた。生活に必要な最低限度の物しか置かれていない。
私はソファーを勧められ、ちょこんと腰掛けた。被っていたベースボールキャップを外して、自分の右側、ソファーの上に置く。
シナモンと一緒に住んでいたサンノゼの家はもっと広かったのだが、いかんせん空が近い。どうにも落ち着かない。
しばらくすると、キャラウェイがキッチンでサンドイッチとホットコーヒーを作って、角砂糖やミルクと一緒にテーブルへ置いた。サンドイッチは全部で20切れで、具材はタマゴ、ツナ、ハム、ポテト、ジャムがそれぞれ5切れずつだった。
コーヒーカップやソーサーは、黄ばみ1つ無く、純白その物だった。私はまず1口そのままで飲んだ。熱い、そして苦い。
多くのアメリカ人がそうであるように、私はブラックコーヒーが苦手だった。テーブルの上に置かれた小瓶から角砂糖を4個、スプーンの上に載せてから静かに投下する。
スプーンでゆっくりかき混ぜた後、水流で混ぜる様にミルクを垂らした。カップ内の渦が収まったのを見届けると、ソーサーにスプーンを置いて、ふーふーふーと3回息を吹きかけた後、再度カップに口を近付ける。うん、この味だ!
キャラウェイは向かいに座ると、両瞼を軽く閉じて、何も入れていないコーヒーに口を付けた。ただそれだけの動作なのだが、そこには何百年も昔からずっと繰り返されてきた星詠みの儀式を思わせる、不思議な神秘さがあった。
「さあ、サンドイッチも食べてみてください。椎さんが来ると聞いて、たくさん作ったんですよ」
食事を勧められた私は、まずツナサンドイッチを手に取った。日本の食べ物は美味しいと聞いたことはあったが、幼少の頃、シナモンに連れられて行った外国での食事の記憶がふと蘇る。
異国の地で生活するにおいて、食文化の違いはかなり重要だ。経験上、口に合わないものは本当に合わない。
そうなると新天地に対する希望や憧れが、一気に打ち砕かれた気分になる。下手すれば3日は立ち直れない。
私は勇気を出して、恐る恐る、少しだけ齧ってみる。
――嘘……めっちゃ美味しい!?
「キャラウェイ先生!このサンドイチ、とても美味しいですネ!こんなに美味しいパンを食べたのは、ワタシ初めてデス!」
私は自分の中に発生した感動を、拙い日本語で包み隠さずに目の前の紳士へと伝えた。
紳士は自分の力作が褒められた事に、とても満足している様子だった。
日本は米が主食の国と聞いていたから、正直パンについては不安だったのだが、このもちもちとした食感に、まるで脊髄に電流がビリっと流れたような深い感銘を覚えた。
キャラウェイは5種類のサンドイッチをそれぞれ1枚ずつ、私は残りの15枚を美味しく頂いた。
お腹が満たされると、ふとドン・キホーテの著者、セルバンテスの言葉が頭に過ぎる。
"All sorrows are less with bread."
(あらゆる悲しみはパンがあれば少なくなる。)
私はまさにその通りだと思った。
飢餓は……あんな思いは、もうしたくない。
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