第3話(その2) ~春風 椎・名前の無い交差点&4401号室~
「目の前の子ども、道路に突飛ばしたらどうなっちゃうんだろう?」
非常識で、馬鹿馬鹿しく、不道徳な衝動が、私の脳内に浮かび上がる。
池袋駅の西口改札を抜け、広場を抜けた先にあるスクランブル交差点でそれは起きた。
歩行者信号は赤。交差点には緑色の大型のバスや、黒いタクシーが何台も何台も通過している。
私は信号待ちをする人混みの前から数えて2列目に立っていた。
目の前に立つのは小さな女の子で、母親と思わしき人物と右手を繋いでいた。きっと7歳くらいだろうか?非力な自分でも、車道に突き倒すことくらいの事は出来る。
私は両手の甲が自分に見えるように、ゆっくりとゆっくりと持ち上げた。
ドクン……ドクン……ドクン、ドクン、ドクン、ドクン
徐々に自分の心拍数が上がっていくのが、はっきりとわかった。
炎天下のサバンナの中、トムソンガゼルまでの距離をじりじりと詰める、飢えたチーターもこんな気分なのだろうか?掌が少女の肩の高さになった。
……ドンッ!!!
少女は、勢い良く走る大型バスの目の前へ飛び出す形になった。鈍い衝撃音。女の子はキックされたサッカーボールの様に、勢いよく前方に跳ねる。
宙を舞う血潮からは、ほんのりと温かみを感じる。愛おしい人間の喪失に取り乱す母親……耳をつんざく金切り声の絶叫……
そこで私の
現実世界の両手は、ずっとツナギのポケット内に入ってる。
もちろん目の前の女の子は生きている。
残忍な妄想。無情な白昼夢。嫌な気分。
その時、私はふと誰かの視線を感じた。
周囲を探ると、車が走る交差点の真ん中で、薄汚い恰好をした黒髪の少女が、自分を見つめていた。
白いワンピースと両手には、黒く乾いた大量の血液が付着していた。右手には刃渡り15cm程のナイフを手にしており、刃先には血の雫が滴り落ちている。
少女はその顔に満面の笑みを浮かべていたが、瞳には全く生気が宿っていなかった。
紛れも無い
驚いた私は目を瞑り、頭を左右交互に3回振った。川を泳いだ後の犬が、ブルブルと体を震わして水滴を飛ばすように、自分の頭にまとわりついた破壊的な衝動を弾き飛ばそうとした。
「きっとアメリカからの長旅で疲れているんだ、私」
私は気持ちを切り替えるべく、心の魔法を使う。
深呼吸を1回挟んだ後、奇跡数の暗算をしながら、目を閉じて状態でゆっくり頭の中で6秒数えた。
Six……
(142857×1=142857)
Five……
(142857×2=285714)
Four……
(142857×3=428571)
Three……
(142857×4=571428)
Two……
(142857×5=714285)
One……
(142857×6=857142)
Zero……
(142857×7=999999)
カウントダウンが終わり、再び両眼を開くと、何事もなかったかのように前を向く。交差点に立っていた血塗れの少女の姿は霧散していた。
幸いにも周囲の人間たちは、誰一人として自分の事を気にも留めていないことが、なんとなくわかった。皆、スマホを見ていたり、イヤホンで音楽を聴いていたからだ。
私の空想内で殺された眼前の女子ですら、先程の奇行には、まったく気付いていないだろう。
ふと、昔読んだ三島由紀夫の金閣寺の一節が、私の脳裏に甦ってきた。
「俺たちが突如として残虐になるのは、たとえばこんなうららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木漏れ陽の戯れているのをぼんやり眺めているときのような、そういう瞬間だと思わないかね」
柏木の言葉だ。彼の人間性に対して、あまり好感は持てなかったが、物怖じせずに世の中の真理を的確に言い表そうとする台詞回しに関しては、とても好意が持てた。
私はゆっくりと空を見上げる。時刻は12時半を少し回った所。3月の空は青く澄んでおり、所々に雲が浮いている。
うららかな春の午後ではあるが、そこにはよく刈り込まれた芝生は無かった。代わりに無感情なアスファルトが、地面一面にきっちり敷き詰められていた。
歩行者信号が赤なのを確認して、ショルダーバッグからスマートフォンを取り出す。マップアプリには、目的地までは500m、時間にして7分と表示されていた。
駅前の交差点の信号が切り替わった。皆、無言で各々の目的地に向け歩き出した。私もスマホをバッグにしまい、人の流れに合わせて進み出す。
何気なく車両用信号を見上げると、その横には地点名標識が付いていなかった。
名前の無い交差点。
これだけ多くの人が行き交う場所なのに……なぜなのだろう?不思議だ。
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