第1話(その10) ~春風 椎・シリコンバレー~
シナモンは私の頭を撫でていた右手をグラスに戻し、ウイスキーを喉に流し込んだ。
『ところで、椎』
しばしの沈黙の後、彼はボソリと言った。
シナモンはどちらかと言えば寡黙な人間だ。逆に私はお喋り過ぎるぐらいなのだが、兄の沈黙はとても好きだった。「自分の為にしっかりと言葉を考えてくれているんだ」って思うと、なんだか幸せな気分に浸れた。
『改めて聞くけど、本当に日本の小学校に通うつもりなのかい?』
シナモンは、幼い自分の娘がどこへ遊びに行くかを尋ねる父親の様に、落ち着いた自然な口調で質問をした。
『うん、そのつもりだよ』
『どうしてそうしようと思ったのかな?』
『私さ、小学校に行ったことなかったじゃん?だから、少しだけでもいいからどんな所なのか見てみたくてさ。
ちっちゃい時、小学校に通わなかった事は全く後悔していないよ。だって、10歳までの私があんな酷い状態だったから……。あれじゃ共同生活なんて、夢のまた夢だっただろうし……』
私はシナモンの左腕から右手を放し、テーブルに置かれたアップルジュースを取って、こくりと飲んだ。
ジュースの甘い味が喉を優しく通り抜けて、口から放たれた言葉の傷を癒してくれる。姉と同じ名前の果物。まるでもう一人の私みたい。
私は左に座るシナモンを見上げながら、ふと気が付いたことを問いかける。
『あっ!?もしかして、私の
『ああ、そうだよ。今の君ならあの症例とだって上手くやっていけると、私も信じたい。……が、またいつ昔みたいな症状が再発しないか……。
今までは同じアメリカに住んでいたが、今度は8000km以上も離れた極東に行く。そうなると、今までみたいにすぐ顔を合わせられる訳じゃない』
その言葉を聞いて、目の前のシナモンが、こんなにも自分の事を考えてくれている事を誇らしげに思えた。
メディアやネットでは、心無い冷血漢の様に扱われる事もある彼だけど、本当の素顔はこんなにも優しい。
ふと、昔読んだ「源氏物語」に想いを馳せる。田舎に暮らす幼い紫の君を拾い、理想の姫に育て上げた光源氏の姿を目の前のシナモンに重ねる。
――高貴な立ち振る舞いにハッとする様な美貌、そして頭の回転がすこぶる速い。
光源氏との違いはたった1つ。シナモンは派手な女遊びを好まない。素敵なことにね。
紫の君はもちろん私……と思いたいけど、流石に無理があるかなぁ。だって義理とはいえ兄妹だし、
気の利いた素敵な詩の1つも書けないダサいツナギ女。
今後、私がシナモンの紫の上になることはないんだろうなぁ――
そんな事をダラダラと考えた後、私はゆっくりとソファから立ち上がった。大きなテーブルの縁に沿って歩き、シナモンの真正面に背中を向けた状態で立った。
そして、胸元に右手を入れると、猫の形をした銀色のペンダントを服の上に出した。首にかかったチェーンを取り外し、その鎖を右手に持った後、そこからひらりと半回転する。
私の視界にグラスを持って、足を組んで座っているシナモンが映り込んだ。
兄の姿を視認すると、右足を持ち上げ、両手を真横に伸ばした。まるで玉乗りをしている道化師の様なポーズで、子どもっぽくおどけてみせた。
『大丈夫だよ!シナモン!私にはここまで育てくれたみんなから学んだ、あったかくて素敵な教えがたくさんあるもん!いざとなったら君から習った、お母さんの「心の魔法」と、このペンダントでなんとかするからさ!』
――そして、私の愛するシナモン、キミの若紫はこんなに大きく育ったんだよ!
ピエロのポーズを決めた私は、もう一度シナモンに背を向けた。チェーンを付け直し、ペンダントを再び胸元にしまう。
また、くるりとシナモンと正対する形で半回転する。今度は一度気を付けの姿勢を取った後、肩を45度に開いた海軍式の敬礼をした。
『んじゃ、私はそろそろパーティーの後片付け手伝ってくるよ!』
『主役なのに?』
『主役だから後片付けも自分でやりたいんだよ』
私は兄に敬礼しながら、にっこり微笑んだ。
シナモンは、ロックグラスに残ったウイスキーを飲み干して、『いってらっしゃい』と私に言った。娘であり妹でもある、世界で一番大切な少女が、広々とした庭園へ躍り出る姿を見届けながら。
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