第1話(その8) ~春風 椎・シリコンバレー~
クローブとのやり取りの後、私は少しだけ1人の時間が欲しくなった。本日の主役である私に話掛ける人間は、後を絶たなかったからだ。いささか疲れてきた。
私はテーブルの上に置かれた包装紙入りのハンバーガーを4個、自分の皿に移した。そのまま自宅に入り、2階のバルコニーへと上がった。幸いそこには誰も居なかった。
石造りの手すりに腕と皿を載せると、階下の人々とその奥に広がる夜景を眺めながら、ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」を軽く口ずさんだ。
シナモンが大好きな曲で、私も大好きな曲だ。イギリスに実在していた戦争孤児院をモチーフにしていると知ってから、なおさら好きになった。サビを唄い終わると、皿の上からハンバーガーを手に取り、パクリと頬張ばった。
4個目のハンバーガーに齧りついていると、後ろから優しく右肩をタッチされた。まるで壊れやすい美術品を扱う時ぐらい、緻密な繊細さだった。
触れられた私は、一瞬、自分の肩に天使の羽毛が舞い降りたと錯覚したほどだ。
『やあ、椎。20歳のお誕生日、心から祝福致します』
それは都会には似合わない、とても牧歌的な声色だった。
『チィン先生!はるばる日本から来てくれたんですか!?やだ、とっても嬉しい!!!』
大好きな東洋人の姿を認めると、私は食べかけのハンバーガーを皿に置いた。白衣から取り出したハンカチで口回りを急いで拭った後、愛すべき師匠に全力でハグをした。
キャラウェイ・チィンは、シナモンとクローブの昔馴染みの中国人。彼らに経済学を教えた師でもある。
私は8歳でシナモンに拾われた後、12歳までホームスクーリングで物事を学んでいた。その間、兄と一緒に自分を教育してくれたのが、キャラウェイだった。
彼は不思議な男性で、初めて会った時から、およそ初対面の相手だとは思えないほど好感が持てた。それは地元の住民しか知らない隠された水源地から、とめどなく湧き出る地下水を思わせた。
キャラウェイはイングリッシュネームで、本名は「チィン・ワンウェイ」というそうだ。イングリッシュネームとは、非英語圏の人間が英語圏で使うニックネームの様なものだ。
ブルース・リーやジャッキー・チェンなども、このイングリッシュネームであり、経済人だとアリババの創始者であるジャック・マーも同様だ。
ハグが終わった後、彼は私の右側に立って、一緒にパーティ参加者らを眺めた。その間、終始無言だった。
私はクールダウン中の自分を気遣って、この紳士が何も喋らないことを察した。温かい沈黙。
彼の身長はとても高く、横に並ぶ自分よりも頭1つ以上は大きかった。外見の年齢は40代後半から50代前半といった所。
彫りの深い顔立ちで、目尻にはその長い人生に相応しいだけのシワが深く刻まれていた。
ふと、彼が全く老けていない事に、私は改めて気が付いた。12年前と現在とで、まるで容姿が変わっていない。
キャラウェイは、照明が反射するくらい真っ白のワイシャツの上に、その上に漆黒のジャケットを羽織っていた。
昔ながらのアナログ腕時計が巻かれた右手には、黄金色の液体を注がれたシャンパングラスが保持されていた。
『そういえば、お酒は飲まないんですか?』
5分間の沈黙の後、紳士が尋ねた。
『カルフォルニア州では、21歳以上じゃないとアルコールは飲めないんです』
私は両手の人差し指で×印を作って、口元にくっつけた。
『なんと!?これは失礼しました。ここ最近、ずっと日本で暮らしていたもので……あの国は20歳になると飲酒が可能になるんですよ』
愛する師匠が、自分の無知をとても恥じている様に見えた。私は話題を変えようと、留学の話を持ち出すことにした。
『気にしないでください。そういえばキャラウェイ、日本の学校の手配はどうなりましたか?』
『全て順調ですよ。あなたを担当する先生はとても素敵な人です。どうぞ、お楽しみに』
私がメアリーに話していた学校とは、キャラウェイが経営する私立校のことだった。彼は東京の池袋で学校を経営しており、私はそこに4月から入学する段取りとなっていた。
『しかし……椎。今更な話ですが、本当にあの学校で良かったんでしょうか?』と紳士は不安そうに尋ねた。
『ぜ~んぜん問題ないです!』
本当に問題ないし、むしろ早く通いたいぐらいなので、私は嬉々として返答した。
『それならよかった。また何かあれば連絡しますね』
『わかりました。今日、キャラウェイがパーティーに来てくれて、本当に本当に嬉しかったです』
『私も20歳の誕生日を、こうしてお祝い出来て良かったです。また日本でお会いしましょう。さて、私はこの辺で失礼します。お身体をお大事に。愛しています』
『私も日本で会えるのを楽しみにしています!愛しています、先生!』
私達は別れのハグをした。
一見すると、全然運動が出来なそうな風体なのに、キャラウェイの身体はきっちりと鍛え上げられていた。スーツ越しには判別しにくいが、抱擁したらすぐにわかる。私の素敵なお師匠様。
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