第1話(その7) ~春風 椎・シリコンバレー~


『はっぴーばーすでー、お姫様!』


 メアリーと別れた直後、会場の外にも聞こえるくらい大きな笑い声を上げながら、自分に抱擁してきた男が居た。


 それは世界中に潜む幸せをくまなく全て見つけてきた時の様な、ハッピーで馬鹿げた爆笑だった。


 私はハグを返しながら、男の身体から放たれる異臭にすぐ気が付いた。


『くっさ!ちょっと、クローブ!また草吸ったでしょ?めっちゃ臭うんだけど!』

『いいじゃないか!カルフォルニア州では合法だァ!』


『別に吸うなって言ってる訳じゃないんだよ。ただ、キメてからハグしないで。臭いが移る』

『ちぇ、わかったよ。姫の仰る通りに』


 そう言うと、クローヴは残念そうに私の身体から離れた。


✩☆✩


 クローブ・クルーベ・ブキャナン、年恰好は40代半ば。世界で2番目に富を保有している資産家だ。


 経営者として様々な業種に手を出しているが、その中で彼が最も成功したのは、ブロックチェーンを応用した暗号通貨を取り扱う仕事だった。


 彼の活躍により、オンライン上において、個人間の通貨取引が大ブームとなった。


 その結果、人々は資産をインターネット上で管理するようになり、全世界の半分以上の銀行が廃業に追いやられることとなった。


 背丈は170cmより少し高いくらい。頭髪は金色の縮れ毛で、とても短かった。


 一時期メタバースに入り浸りすぎた事が原因で太ってしまい、それを挽回するべく、最近は現実世界でのスポーツに執心している。


 その甲斐もあって、かつて病的に真っ白だった肌は、今ではとても健康的な日の焼け方をしている。


 私以外の参加者が皆、ドレスコードを守っている中、彼は紺色の長袖Tシャツと青いジーパンでこの会場に来ていた。


 クローブはシナモンにとって、兄弟子の様な存在だが、生き方や性格は正反対そのものだった。


 シナモンがDAOを中心に、遊牧民の様にあっちこっちへと彷徨うのに対して、クローブは超巨大なグループ会社を運営し、皇帝の如くその頂に座していた。


 また、何事にもクールなシナモンに対して、クローブは病的なまでに陽気で、かなり頭のねじが外れた人物であった。何をしでかすかわからない予測不可能さは、まさに天才のそれと言って過言ではないだろう。


 一昨年のエイプリルフール、クローブは自分の会社が倒産すると嘘の発表をして、全世界の株価を大暴落させた。


 その挙句、同じ日に出演したテレビ番組では、カメラの前で堂々とマリファナを喫煙しながら、その全く面白くもない4月嘘についてのインタビューを受けていた。


 会場中の空気があからさまに凍り付いている中、彼は意に介さず、ずっと大爆笑していた。まるで、自宅でB級コメディ映画を見ている時の様に。


✩☆✩


『もうシナモンには会ったの?』と私はクローブに訊ねた。

『いや、まだだ。今日はキミに会いたくて来たんだからな。そういえば、生身で会うのはいつぶりだっけ?』


『去年の7月10日に会ったのが最後だから、8ヵ月ぶりだね。仮想現実ではちょくちょく顔合わせてたけど』


『さっすが、椎!質問したら、すぐに答えが返ってくる。何でも知ってる!そこら辺のパソコンよりも高性能!なあ、極東の島国で学校に通うなんて言わずにさ、ウチの会社来いよ!』


 こう言いながら、クローブはまたハグしようとしてきたので、私は右の掌で彼の胸の辺りを抑えて、動きを止めた。


『やだ!日本へは、ぜ~ったいに行くもん!キャラウェイとも約束したし!あと、何でもは知らない。キミの方がたくさん物事知ってるでしょ?私なんかよりもさ』


『ごめんごめん、怒るなって』

『別に怒っては無いよ、まったく』


 私は本当に怒ってなどはいなかった。クローブには色々と恩があったし、人間性そのものは苦手じゃなかった。彼の行動は、確かに狂気を孕んではいるものの、その常識に囚われない生き方を、私は凄く尊敬していた。


『君が日本に行くと寂しくなるな』とクローブは言った。

『そうかなぁ?会おうと思えば、私達にはストロベリーフィールズがあるじゃん?』


『ん~、確かにあれは君達の開発した中でも、とびっきりに凄いものだ。現在あるメタバースの中でも間違いなく最高峰の出来だろう。


 でも、文明こそどんどん進化していくが、俺たちの中身は石器時代からあんまり進歩していない様な気がするんだよな。


 なぁ、考えてみろよ?俺たちホモ・サピエンスは25万年前に誕生してから、その歴史の99%以上を、このくそったれな現実世界で生きてきたんだぜ。


 つまり、仮想世界でいくら毎日やり取りをしようと、物理的距離が遠いとストレスを感じるって事さ。本能的に実体同士のやり取り、肉と肉のぶつかり合いを求めてしまう』


 物理的距離が遠いとストレスを感じる。私には彼の言いたいことがよくわかった。人類の技術の発展に、私達の心――いや、本能が追い付けていないのだ。


 遠く離れた相手と交流できるオンライン世界も素晴らしいけど、私はやっぱりハグした時に感じる身近な人肌の暖かさが好きだ。


『キミの言う通りだと思う。ねぇ、クローブ。私がアメリカに戻ってきたら、またこんな風に直接会って、お話しようね』

『もちろん。逆に俺が日本に行った時は会いに行くよ』


『ありがとう。それ、すっごく楽しみに待ってる。ただ、日本でウィードは吸わないでね。違法だから。あのポール・マッカートニーでさえ、それが原因で1980年に留置所へぶち込まれる羽目になったんだし』


『わかってる、わかってるって!んじゃ、そろそろ可愛げの全くないクソくらえな兄弟の所に行ってくるわ。あっちでも元気でな、お姫様!愛してるぜ!』

『私も愛してる!バイバイ!』


 放送禁止用語の混じった素敵な挨拶を述べた後、クローブはズボンの右ポケットから紙煙草を取り出し、口に咥えた。


 私の姿を一瞥した彼は、思い直した様にその場では火を着けず、くるりと振り返った。そして、右手をサヨナラの形で振りながら群衆の方へと歩いて行った。

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