第5話 胡桃と少女
それから更に数日ほど経った朝だった。
「これは……」
小皿の中を見て、
どんな小さな可能性でも拾い上げようと、道雄の脚の
白く変色し、形が崩れている。桔梗はそれを携帯型の
「そういう事だったのか」
桔梗は手荷物から、小さな小瓶と何かの機材を取り出すと道雄の元へと急いだ。
「水をお持ちしました」
老婆は桔梗に言われた通り、水をはった小ぶりのたらいを持ってきた。
桔梗はそれを受け取ると持ってきた機材の中に注ぐ。
「それは?」
見た事も無い物に、老婆は興味深そうに訊く。
金属でできたそれは、小さな入れ物の先に棒状の突起が付いていた。
「中に入れた液体を霧状にして散布する道具だ」
言いながら注いだ水に、小瓶の中の液体を数滴たらす。
「たぶんだが……この樹木のような塊は菌の集合体の可能性がある。これの欠片を何種類かの薬草と一緒に置いていたところ、殺菌作用のある薬草の欠片だけ白く崩れていた。これはヒノキから採った油でな、強い殺菌効果がある。これを患部に散布する」
桔梗は、突起の端に口をつけると勢いよく吹いた。
すると、中のヒノキの油の入った水が反対側から勢いよく霧状になって吹き出て来る。
それをまんべんなく道雄の脚に吹き付けると、桔梗はふうと息をついた。
「これで様子をみてみよう」
何人もの医者に診せ、様々な薬も試して来た。それでも何の効果も得られなかったのに、こんな水を吹きかけただけで本当に良くなるのだろうか。
老婆と道雄は不安げに顔を見合わせた。
※
「桔梗様はずっと旅をしているの?」
その日の夕方。
書き物をしている桔梗に、それを横で見ていたさえが訊いてきた。
「そうだな。旅に出て五年になるか」
「お家は?」
「……私の家はもう無いんだ」
そう言って微笑むとさやは少し寂しそうな顔をした。
「どうして旅をしているの?」
「……人を……探している」
「人を?」
「ふたつ下の弟だ。それに旅をしていれば、この里のように病で困っている者も治してやれるしな」
「旅をしていて困る事ってあるの?」
「ん……そうだな。一番困るのはやはり食い物か。寝床なんかはどうにでもなるが、腹が減っては力が出んからな。獲物も都合よく近くに居る訳でも無いし。空腹の中歩くのは、中々辛いものだぞ」
さえはふーんと言うと、「弟さん見つかるといいね」と言って笑った。
※
翌日の昼頃だった。
何やら外が騒がしい。
何があったのかと土間まで行くと、玄関で女が長老に泣きついていた。聞くとさえの母親だという。
「さえが
「なんじゃて?」
朝から姿が見えなかったが、きっとまた桔梗のもとへ行ったのだろうと思っていたらしい。だが、昼食に呼びに来たらここには来ていないと長老に言われ、里中探し回ったが姿が見えない。
そこで思い出したという。
昨夜、さえは
山胡桃の木は白狼山に沢山生えている。落ちた種子の一部が沢から里へ流れ着き、里の者はそれを保存食として少しづつ食べる。
「今は白鬼がいるから山に入っちゃいけないよと、言い聞かせたはずなのに……」
母親はその場に泣き崩れる。
「桔梗様っ⁉」
母親の話を聞くやいなや、桔梗は長老の家を飛び出した。
────私が無事に山から下りられたのは山犬が弱っていたからだ。
白鬼の言葉を思い出していた。
山に入った者を始末したのはあの山犬だと。そう言っていた。
あの時、もし山犬が怪我をしていなければどうなっていたか……。
────頼む、無事でいてくれ‼
「さえっ‼」
山道を走りながら、大声で叫ぶ。
「さえっ‼」
何度その名を呼んだだろう、叫びすぎて声が枯れて来た。
息もあがりその場で息を整える。その間もさえの声が聞こえてこないかと耳に意識を集中させた。
ざくっ。ざくっ。
「?」
遠くから道を踏みしめる音が聞こえて来た。
「……さえ?」
いや、違う。もっと大きい生き物だ。
途端に桔梗は身体から力が抜けそうになる。
白鬼は桔梗の姿を見ると少し足を止めたが、そのままちょっとバツの悪そうな顔で近づいてきた。その背ではさえが寝息をたてていた。
「胡桃が欲しいって言うもんだからさ……一緒に拾ってたら疲れたのか寝ちまって……」
彼は、背中の少女を背負い直すと起こしてしまっていないか確認した。
「……そうか。……お前」
「なんだよ」
「いい奴だな」
真顔で言うと、白鬼は顔を真っ赤にしたままフイとそっぽを向いた。
「あの山犬の調子はどうだ?」
「ああ、すっかり良くなった。世話になったな」
彼は桔梗をじっと見つめると「ああ」と声を漏らした。
「凄い汗だ。近くに泉がある、そこで少し休んだほうがいい」
そう言って白鬼はさえを背負ったまま歩き出した。
「やっぱりいい奴だ」
「うるさい、そんなんじゃねえよ」
桔梗はフフっと小さく笑うとその後を追った。
太陽が向こうの山に沈もうとしている。
思った以上に走り回っていたようだ。
案内された泉で顔を洗うと、冷たい水は一気に桔梗の汗を引かせた。
「そういえば、名を訊いてなかったな」
顔を腰の手拭いで拭きながら白鬼に尋ねると、彼は桔梗の横にしゃがみ込み「名前なんてねえよ」と答えた。
「名が無い? そんな事あるか」
答えたくないのかと、桔梗は少し
「さらわれる前はあったのかもしれねえ。覚えてねえんだ。爺さんは小僧としか呼ばないし、山犬に名前は必要ないしな」
言われて
桔梗は改めて白鬼をまじまじと見た。こうして見るとなかなか整った顔立ちをしている。
彼の髪も目も夕日の色に染まり、神々しささえ感じた。
「白鬼というのは美しいものだな」
思った事を口にしてみた。
彼は、最初驚いた顔をしたがすぐに眉間に皺を寄せ理解しがたいとでもいうように。
「変な女だな、お前」
そう言うと彼は「もう行こう」と立ち上がった。
※
途中で起きたさえと共に白鬼に別れを告げ、里に下りた。
山の入り口では里の者が待っていて、その中に居た母親が駆け寄りさえを抱きしめた。
「もう、心配させんじゃないよ」
「ごめん、母さん」
「やっぱり胡桃を採りに行ったんだね」
さえの手にあるパンパンになった麻袋を見て、母親はため息をついた。その後桔梗に礼を言い深々と頭を下げると、ふたり手をつないで家へと帰って行った。
※
「もうあの山へ入っても大丈夫だ」
長老が準備していた夕飯を食べ終え、食後の茶を飲んでいる時に桔梗は長老に言った。
「なんですって?」
「ただし、薬草や必要なものを採取する目的で……ならだ。山を荒らしたり、むやみな殺生をするような事があればどうなっても知らん。そう、話をつけてきた」
「白鬼に会ったのですか?」
「なかなか、話のわかるいい奴だったぞ」
そう言って茶をすする桔梗を、老人は不思議なものを見るような顔で見つめていた。
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