愛故に

柳路 ロモン

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 今日も何一つ変わらない、誰かにとってはひどく平凡なはずの、なんでもないお昼のことでした。

 私が家に帰ってきてまず最初に見たのは、あられもない姿をした妻の姿でした。あれだけ私に「この服がお気に入りなの」と教えてくれたあの綺麗な服は、無惨な姿になって、妻の恥部をなんとか隠していました。妻の裸体は見慣れていたはずのに、私は”初めて”の時を思い出すほどの、落雷を彷彿とさせる強いショックを受けました。

 カーテンの閉め切られた薄暗い部屋の中ですすり泣く妻の声が、今でも頭から離れません。

 部屋は強盗が荒らしていったみたいに散らかっていて、妻の着ていた服の一部と思わしき布地や、そこに転がっているべきではないはずの小物類が床の上で寝ていました。妻と一緒に旅行をして、そこのお土産屋さんで購入した、不細工なのに愛らしさを覚えるマスコットキャラクターの人形が、玄関に立ち尽くしていた私を睨んでいました。

 私の妻は、間違いなく抵抗したのでしょう。

 手に持っていた鞄を手からするりと放し、部屋の真ん中に座り込んで泣く妻のそばに駆け寄りました。

 近寄ってみて初めてわかりましたが、妻の首元には、無数の赤い痣が出来ていました。丁度妻の細い首をしっかりと包み込む様な形の赤い痣が。

 それだけではありません。

 色白で、贅肉の少ない、妻の美しい体には、広げた手の形をした痣や、噛み痕、強く吸いつかれてできた丸くて赤い痣––––それは海外では『LOVE-BITE』なんて呼ぶそうですが、その痣からは一切の愛情を感じ取れませんでした––––が、数えきれないほどに。

 そんな妻の肩に手を置くことを躊躇いました。

 怖い思いをしたであろう妻を思いやっての行動ではなく、もっと自分本位な感情が主な理由でした。

 私は、差し出した手を、妻に振り払われるのが怖かったのです。


 ◯


 それは、以前から妻のことを卑猥な目つきで追っていた男の、決死の行動が招いた結果でした。

 その男性は随分と、いや、今となっては背筋が凍るほど不気味な、紳士的な男性だったのを覚えています。この犯行がその男性によるものだと知った時、真っ先に私は「そんなまさか」と思いました。

 その計画は実に見事なもので、他の誰にでも通用する様な手口ではなく、妻の生活習慣の全てを調べ上げた上で行われた、まさしく、私の妻だけを標的にした凶悪な犯行でした。

 元より妻は、困っている人間を放っておけない、優しくて思いやりに満ちた性格の女性でしたから、男の計画にまんまと嵌まってしまったのです。

 詳細はここでは書きませんが、もしも私が妻と同じ様な女性であったなら、きっと、私も彼の餌食となっていたことでしょう。

 男は犯行当日に至るまでに心の奥底で溜め続けていた、都会のドブ川よりも汚しい欲求を、妻に向けて吐き出しました。

 自分が蟻地獄の巣に迷い込んでいると気づいた時にはもう遅い。妻の必死の抵抗は無駄に終わりました。妻は女性一人ではどうにもならないほどの、野獣のような力強さで床に押さえつけられ、行為の障害にしかならない衣服は無惨に破かれ……。

 妻は物言わぬ欲求の吐口となったのです。

 その時の妻の気持ちを理解しようとは思いません。きっと他の誰にも、当事者の気持ちなんてわかるわけがないのですから。

 男は行為を済ませた後、すぐに警察に「証拠品」を持って自首をしたそうです。部屋に残された妻は、最後の最後まで、散らかった部屋の真ん中で横になっていたのでしょう。それでも彼女は最後の力を振り絞り、私に助けを求めました。


「たすけて」


 電話で聞こえた、今まで聞いたこともないような、妻の悲しい囁き声。

 仕事の途中でしたが、全てを放り出して自宅へ向かいました。仕事仲間にはかなり迷惑をかけてしまいましたが、もし私と同じ様な状況に遭遇した時にあれ以上何ができると言うのでしょうか。冷静でいられるはずがありません。

 それで私は、部屋で啜り泣く妻を見つけた、というわけです。



 妻は今でも生きています。ですが、彼女から影は失われてしまいました。生きていることが、辛いのでしょう。あれだけの辱めを受けたのだから、いっそのこと殺してくれとか考えているのかもしれません。自ら命を絶つ方法を、誰にも迷惑をかけずに楽になれる方法をぼんやりと妄想しているのかもしれません。

 ですが彼女はそれをしない。

 多分、私のせいです。

 彼女が生きる支えであり、彼女が死ねない理由でもある私が、今もこうして妻の隣にいるから、妻は「生」という拘束具に絡め取られているのです。彼女を励ましてあげられるのも、彼女を苦しめる原因になるのも、私なのです。このことを理解してしまった時の私の気持ちは、常人には理解できないでしょう。

 お酒を飲む量が少し増えました。「アルコールは苦手」と言っていた妻も、今ではすっかり私の晩酌に付き合ってくれるようになりました。

 決して嬉しくはありません。なるべく妻が好みそうなお酒を選んで用意してみたりするのですが、未だに妻の好きなお酒がわかりません。

 布団に入り横になって目を閉じていると、妻の声を押し殺した泣き声が聞こえるようになりました。そっと後ろから優しく妻の体を抱きしめてみたり、「泣いてもいいよ」と声をかけてみたりするのですが、自分の行いが正しいのか今になってもわかりません。

 わからないことが増えました。

 わからないことが山積みの中で、私がひとつだけわかったことがあります。

 私は、妻のことが大好きでした。彼女を思えば思うほど悲しくなるほどに、愛していました。

 でも、その愛を妻に伝えるには、もう遅すぎるのです。

 取り返しのつかない場所まで、来てしまったようなので。

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