茜色の教室

柳路 ロモン

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「明日から、一緒に帰ろうか。手を繋いで」


 彼女の声を、しっかりと聞いたのはこれが初めてだった。僕の耳に届くまでに空気の中に溶けてしまいそうな儚さを帯び、それでいて、樹齢千年に達した大木のような力強さが、その声にはあった。

 西の空に浮かぶ太陽の光が差し込む教室にて、彼女は窓を背にして、そんなことを言った。夕風に揺れる、ベージュ色の厚いカーテンと、彼女の黒く艶やかな髪が印象的だった。顔を隠す前髪がふわりと揺れて、普段なかなかお目にかかれない彼女の瞳が、ちらりと見えた。

 吹奏楽部の演奏も、練習に励む野球部の声も、どうしてか、今の僕の耳にはひとつも届かなかった。そのせいで、聞かなかったことにしたい言葉が、ハッキリと聞こえてしまった。

 その言葉は、誰もが泣いて喜びながら首を縦に振る魅力的な提案に聞こえて、実際は、ただ僕を苦しめるだけの束縛でしかない。

 教室、学年、学校。この小さな社会の中でも、僕たちには相応の『身分』が与えられる。

 有意義な学生生活を送れる者と、そうでない者。与えられたアオハルを思うがままに満喫できる者と、そうでない者。

 僕と彼女の間には、『学校内での身分』という、到底三年間というわずかな期間では超えることや破壊することの出来ない、天を突くように高く堅牢な壁が存在している。

 

 僕は前者である。

 

 成績は学年上位。運動もそれなりに出来る。友人に恵まれ、異性から好意を持たれ甘酸っぱい時間を過ごしたこともある。

 それなのにだ。

 どうして、そんな僕が、教室の端っこでいつも本を読んでいて、声はいつも吃り気味な上にか細くて聞き取れない、薄暗くてじめじめとした場所がお似合いの、こんな、陰気な女子生徒と、下校時間を共にしなければいけないのだ。しかも、恋仲のように、手を繋いで。

 嫌悪感で胸が一杯になった僕の顔は、勝手に、醜く歪んだ。学校にいる間は使うことのなかった表情筋が、初めて動いた。

 今すぐにでも「NO」と言ってやりたい。異性に対しては紳士的に振る舞うことを心がけていた自分を忘れ去り、思いつく限りの罵詈雑言を彼女に浴びせてやりたい。

 しかし、僕にはそれが出来ない。 

 最初に口を開いて以来、沈黙を貫いていた彼女が、僕の表情の変わり様を見てか、俯きがちだった顔を上げて、口を大きく湾曲させた。それに合わせて白い歯と、前髪に隠れていた瞳がまた僕の前に姿を見せた。

 

「返事は?」

 

 また、あの声が聞こえた。

 もし、僕がここで「NO」と答えてしまった時、これから先の僕の学生生活がどうなってしまうのかが、簡単に想像できてしまうのが恐ろしい。

 今この場で、僕が口にできる言葉なんて、それ以外考えつかないのに、やはり、言い淀んでしまう。そんな僕がとった手段は、声は出さず、首を縦に振るというものだった。ゆっくりと、秒速数ミリセンチメートルの速度で、僕は首を縦に一回振った。

 自分の意思は確かに彼女に伝えた、これで何も文句はないはずだ。

 しかし、彼女は何を思ったのか、ゆらりと動き出し、重力の存在を感じられない、ふわふわとした優雅な動きで、歩み寄ってきた。

 彼女は僕の前に立つと、首を左に傾けた。目を合わせてはいけないと、本能的に感じ取った僕は、さっと顔を横に背けた。


「声に出してくれないと、わかんないかな。私、君みたいに頭はよくないからさ」


 悪戯っぽい声の調子で、彼女は言った。

 僕の仕草の真意を理解していながらも、敢えてそうでないかのように振る舞う彼女に、吐き気によく似た不快感を催しながら、懸命に、「自分の目の前にあの憎たらしい女子生徒がいる」という事実を認識しないよう努めていた。

 しかし現実は非情である。

 再び教室に迷い込んだ夕風に運ばれて、嗅ぎ慣れない、ほのかな甘みと、心安らぐ柔らかさを孕んだ匂いが僕の鼻をくすぐった。すんと小さく鼻から息を吸い、「これはいったいなんの香りだ」と、匂いの出どころを視線だけで探すと、彼女に行き着いた。

 目が合った。


「さぁ。返事は?」


 彼女は、僕がどんなウィットに富んだ返事をするかには一切期待していないだろう。僕には、自由な解答を行うための権利が与えられていないのだから。

 ただ、僕が、「YES」と答えるのを、ひたすらに待っている。

 僕は、その言葉を口にするのに必要なだけの空気を吸い、端的に、そして、精一杯の不満をその言葉に乗せ、


「わかった」


 と呟いた。

 この瞬間、僕は、明日から、この女子生徒と一緒に下校時間を過ごすことが決まった。周囲の人間にその事実を知らしめるように堂々と、恋人のように手を繋ぎながら、僕たちは帰る。

 最悪だ。なんで僕がこんな目に。

 どうして、たった一瞬の過ちが、僕をこうも苦しめるのか。

 多分、それが、たとえ一瞬だとしても、”過ち”であることには変わりないからなのだと思うが、そうだとしても、僕は、こんな目に遭わないと償いきれないほどの間違いを犯したのだろうか。

 

 「それじゃあ、よろしくね」


 差し出された彼女の左手のひらに、自分の手を近づけることすら恐ろしい。しかし、もしここで、その握手を拒否した場合、もっと恐ろしい何かが僕に襲いかかってくるのだ。

 おずおずと、震える右手を、彼女の手のひらに近づける。指先が彼女の手に触れるまで、残り数センチのところだ、というところで、いきなり彼女に手首を強く掴まれた。手のひらではなく、手首。華奢な彼女の筋肉量からは想像もつかないほどの凄まじい握力で、僕を拘束している。

 突然の出来事に驚いてしまった僕は、後ろによろめき、そのまま後ろにどすんと尻餅をついて倒れ込みそうになったが、彼女がそれを許してくれなかった。

 

「約束は、絶対だから」


 前髪の黒いカーテンの向こう側でぎらりと光った彼女の瞳に見つめられ、僕の心臓は、より一層強く、早く、脈を打ち始めた。自分がまだ生きている、という感覚がこんなにも恨めしいと思ったことは一度もない。

 驚きで呆気にとられていた僕の顔が、再び、嫌悪と憎悪の色に染まる。それでも彼女は、僕に向かって、微笑みかける。

 数時間前までは上手に出来ていたはずの、作り笑いも、今では随分とぎこちない。

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