第5話 喫茶店のクリームソーダと過去の話
「家出をしたことがあるかって? 」
実家近くの喫茶店。目の前にいるのは姉の雪子だ。彼女は注文したパンケーキを食べながら、私の質問に首を傾げていた。
「そう。5歳くらいの時に。突然いなくなっちゃったみたいなことなかった? 」
私の目の前には相変わらずクリームソーダが置かれていた。レトロな喫茶店の王道クリームソーダ。丸いフォルムのグラスに注がれたメロンソーダと、バニラビーンズの粒が見えるアイスからはバニラの濃厚な香りがする。ここのは砂糖漬けにされていない、新鮮なままのさくらんぼが乗っている。思い出にだいぶ近づいているような気はしたが、私が求めているのはどうもこれでもないらしい。
私はどうしてもあの夢の内容が気になった。あれを夢、と片付けてしまえばそれでいいのかもしれないが、私にはあれがただの夢だとは思えなかった。たった一人で喫茶店へ向かう……そんな事実があったのなら、5歳離れた姉なら何か覚えているかもしれない、そう思って久しぶりに姉を呼び出した。「こんな夜中に何の用よ? 」
なんて文句を言いながらも、なんだかんだで来てくれた。なかなか連絡は取らないが、別に仲が悪いわけではない。姉は私の相談にはいつも乗ってくれるのだ。
「そんな小さい時に一人で家を出て行っていたらおおごとになってるはずだよ。それに、あんたが5歳の時といったらそれどころじゃなかったんだから」
そこまで話終わると、彼女はナイフで切ったパンケーキをフォークで刺して、口の中に押し込んだ。
「それどころじゃなかったって? 」
「あれ? 覚えてない? あんた喘息拗らせちゃって大変だったのよ」
姉の話によると、私は5歳の時に、喘息の発作が悪化して入院したことがあったそうだ。その時は生死を彷徨うくらいだったらしく、母も姉も気が気ではなかったらしい。
私は今でこそ落ち着いているが幼少期は喘息を持っていた。そのことは覚えている。ただそこまでの大変なことになっていたなんてことは知らなかった。いや、覚えていなかっただけなのだろうけど。
「お父さん亡くなってすぐのことだったから、お母さん、顔が真っ青だったのを覚えてるわ。そりゃそうよね、旦那が亡くなったばかりで息子までってなっちゃったら」
父は私が3歳の時に亡くなった。心筋梗塞だったらしい。父が亡くなってから母は女でひとつで私と姉を育ててくれた。
「ま、そういうことだから、5歳くらいの時にあんたが家出したっていうのはありえないわけ。その後だって病院に通ってたし。第一、そんな弱い体で家出しようなんて考えるほど、あんたは馬鹿じゃなかったよ」
褒められたのかなんなのか、よくわからないが、とにかく5歳前後の私には家出をすることは不可能だったようだ。だったらあの喫茶店の記憶はなんなのか……幼い頃見た、印象に残っているただの夢だったのだろうか。
「話はこれでおしまい? 」
いつのまにかパンケーキを完食していた彼女は言った。
「ああ、時間をとらせてしまって悪かった。そういえば息子たちは元気にしているか? 」
姉は結婚して息子が2人いる。確か2人共高校生になるんじゃなかったっけ?
「相変わらず元気だよ。今は2人共部活三昧で家にいる時間の方が短いよ」
「何やってるの? 」
「バスケと弓道。全く、よくやるよ」
運動が得意じゃない姉のその言葉は本心だろう。
「たまには叔父さんらしいこともしてよね」
「ああ、時間が合えばそうするよ」
「そう言って実行したこと一度もないでしょ? 」
確かに彼らに会ったのはいつだっただろうか……本当にここまで仕事しかしてこなかったんだなと改めて実感した。
「そうだ、せっかくここまできたんだから、お母さんのところには寄っていくんでしょうね? 」
「うん。そのつもりだよ」
「よかった。そのまま帰っちゃうのかと思ったわ」
姉の目から見る私はそんなに薄情に見えているか。
「仕事もいいけど、たまには顔見せなよ」
だから今から行こうと思っているんだよ……と言おうと思ったが、ここで突っかかっても仕方がないと思い言葉にすることをやめた。
お会計を済ませて店を出る。姉とは駅で別れ、私は久々に実家へと向かう。少し雲がかかった空はもうすっかりオレンジ色に染まっていた。
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