唯一の絆

「……実?」



 優しく肩に手を置かれて、深い思考の海からすくい上げられる。



 目の前には、中途半端に手をつけたコーヒーメーカー。

 隣には気遣わしげなエリオスの顔。



 数秒考えて、ふと思い出す。

 そういえば、コーヒーを飲もうと思って台所に立っていたんだっけ。



「ここ数日、ずっと心ここにあらずといった感じだね。火傷やけどしそうで心配だよ。」

「ごめん……」



 さっとコーヒーの袋を取り上げられてしまい、実は複雑そうな表情で目を伏せる。



「ここは私たちに任せて、ソファーでお友達とお話していなさい。」



 そう言ってくれたのは詩織だ。



「うん、ありがとう………詩織さん……」



 彼女をそう呼ぶと、途端に胸が痛んだ。



 セリシアに地球へと送り返された直後は混乱していたが、その後落ち着いた自分は、詩織のことを以前のように〝母さん〟とは呼べなくなってしまった。



 自分の母は、ちゃんと別にいる。



 たった数日の出来事だったけど、再びセリシアと過ごしたことで、そのことが心にみて分かった。



 自分が本当の意味で母と呼べるのは、あの人だけなのだ。



 そう実感したら、もう彼女のことを母とは呼べなくて。



 だけど、今まで自分に惜しみない愛情を注いでくれていた詩織に、急に他人行儀になるのも申し訳なくて。



 どうにも消化できない気持ちを持て余していると、詩織が微笑んで肩を叩いてくれた。



「どうしてそんな顔をするの? 呼び方が変わったって、私は何も変わらないわよ?」

「うん……」

「なかなか、元通りとはいかないものだね。」



 穏やかながらもどこか寂しそうに苦笑するエリオスは、実とは違っててきぱきとコーヒーの準備を進める。



「実。今日は、ミルクを入れるかい?」



 コーヒーメーカーのスイッチを入れたエリオスが、戸棚を探りながら実にそう訊ねた。

 しかし、実からの返事はない。



「実?」



 不審に思って実の方に視線を向けたエリオスは、パチパチと目をしばたたかせることになる。



 実が、ひどく悲しそうな顔でエリオスを見つめていたのだ。



「実……どうしたんだい…?」



 思いもよらない展開だったのか、大いに狼狽うろたえるエリオス。

 実は思わず、そこから顔を背けてしまった。



 本当は、事情をんで黙って受け入れるべきなのだろう。



 そう思っているはずなのに、父には―――父にだからこそ、この気持ちをぶつけずにはいられなくなる。



 これまでは難なく抑えられた衝動が、今となってはこんなにも我慢することが難しい。



 聞いてもらえないとつらい、なんて……



 拓也に胸中を吐露した時のような泣きたい気持ちが、せきを切ったようにあふれてしまう。



「なんだろうね……俺のわがままなのかな? 実って呼ばれてた時間の方が圧倒的に長かったはずなのに……父さんにそう呼ばれるのは……なんか嫌だ。」



「―――っ!!」



 小さな独白に、エリオスが両目を見開く。



「分かってるよ。地球で暮らしていくなら、その名前を使っていくことなるって。でもさ、父さんにまでそう呼ばれたら……今度こそ、母さんがいたっていう証拠が、跡形もなく消えちゃいそうで…っ」



 胸を埋め尽くす寂寞が荒れ狂う。



 都合がいいと、何もかも今さらだろうと、そうののしってくれて構わない。

 でも、どうしても受け入れられないのだ。



 母がくれた本当の名前の価値が、あまりにも尊すぎて。



 名前に込められた母の願いを語った父の誇らしげな顔が、脳裏に焼きついて離れなくて。



 もしも二度とあの世界に戻れないのだとしたら、この名前だけが母と自分を繋ぐ唯一の絆。



 だから怖い。



 この名前を呼んでくれる人がいなくなったら、母の存在もその願いも、どこへ消えていってしまうのだろうかと。



「………ルティ……」



 表情を曇らせたエリオスの手が、そっと実の肩に触れる。

 完全に弱りきった実を見つめるその瞳が、複雑な色をたたえて揺れる。



「―――エリオス様。」



 その時、ふと別の声が二人の間に割り込んだ。


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