偶然 (Hi-Sensitivity)
春嵐
偶然
左耳の奥が、痛む。
感覚として痛むというのが近しいだけで、実際は違う。何かが膨れ上がって、そして急速に縮む。それが何回も高速で、それこそ心臓の拍動よりもはやく繰り返されていく。その結果、いちばん近い表現が、痛み。それだけ。
原因は色々だった。
喧騒。
光。
雨の音。
静寂。
自分の心や身体の
どれをとっても、
「はい」
通信。
右耳に当てる。左耳には当てない。痛むから。
「はい。分かりました。では来週までに」
今どきはもう絶滅危惧種の、サラリーマン。商社ですらなく、どこかの知らない若造の作り上げた巨大ベンチャーの下請けの下請け。その経理と雑務担当。
通信を切った。
べつに難しい仕事でもない。簡単なところは、多少区別して自分で少し小難しくする。
暇なサラリーマン。これも、絶滅危惧種だろうか。右にも左にも、クリエイティブだのインセンティブだのが飛び交っている現在。
仕事に興味のないやつは勝手に表舞台から出家して、気ままに暮らしている。だから、仕事社会には忙しいやつしか残らない。
少しずつ、左耳の痛みも収まってきた。
今週行う予定だった諸々の評議が、上のほうの都合で延びた。仕事が延びた分、ストレスが軽くなったということだろうか。
分からない。痛みの根源も、なぜ痛むのかも。勝手に理由をつけて、それとなく抑え込んでるだけ。
「あ」
綺麗そうな女。目の前で転んだ。
「お」
同時に。乗るはずだった交通機関も来た。
どちらにしようか。
「大丈夫ですか?」
ちょっと歩き、綺麗そうな女に声をかける。
思ったほど綺麗じゃなかった。やさしさを引っ込めるわけにもいかないので、手をさしのべる。
「ありがとうございます」
女が、立ち上がる。胸は大きくない。尻は大きい。腹も出てない。
こういう、女の見た目からまず確認しないといけない事実に、うんざりしている時期もあった。いまの女は、女というだけで強い。
まず綺麗かどうかを確認して、綺麗ならば警戒を解く。見た目について言う必要がないから。
綺麗ではない場合、胸と尻と腹を確認する。そして、その三ヶ所をとにかく警戒し、そのうちひとつでも危険な部分があれば、それに関する言及を厳に避ける。この女は胸が少ないので、たぶん胸だろう。
そうしないと、各方面から叩かれて死ぬ。
上司にも部下にも、それで死んだやつがそこそこいた。交通機関に座るとき尻の小さな女を優先したやつ。すれ違うときにバランスを崩してたまたま大きな胸に身体が
みんな死んだ。例外はない。女も男も死んだ。次生まれるなら、やはり女がいい。強いから。
「ありがとうございます」
女が立ち上がる。わずかに繋がれた手。しっとりしていて、傷もない。爪はしっかり手入れされている。
なのに、なぜ。
少しこわばっている。
爆発音。
「うわっ」
爆発音というのは、本当に、爆発したときの音なのか。どこか新鮮だった。左耳だけではなく、右耳の奥も、きゅっとしている。痛い。
「あ」
さっき、女を助けて乗り過ごした交通機関。
よく分からないが、とにかく、燃えている。黒いあれは、煙、だろうか。よく分からないし、なんか見分けがつかない。ただ、なんか、ひしゃげているような。
「命拾いしましたね」
女の声。
振り向くと。
もう女はいなかった。
あの女。
指がこわばっていた。
あの女が、仕掛けたのだろうか。
あの交通機関から逃げるために、走っていて。それで転んだのだろうか。
左耳が、また少し、痛んできた。
「まぁ、いいか」
ここから立ち去ろう。ここの喧騒は、左耳の奥に響くかもしれない。
「たまたま、偶然、か」
べつに、死んでもよかったのに。
まだ若いけど、これから特に何かするわけでもない。サラリーマンとして生きて、老いる前に、どこかで死ぬ。そう思っていた。
偶然乗った交通機関が爆発して死ぬとかなら、そこそこ悪くない死だとは思う。若くして死ぬから、同情するばかも多少いてくれるかもしれない。それぐらいには、無味乾燥で人との関わりも薄い人生だった。
人といると、左耳の奥が、やはり
「酒が呑みたいな」
成人しているが、酒の呑める年までは、あと半月ぐらいあった。
酒が呑めたら。
こんな偶然も
偶然死ななかった。偶然生きている。それだけの、人生。
偶然 (Hi-Sensitivity) 春嵐 @aiot3110
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