第34話 2703(12)
先輩の左手が、
その手首を握ると、先輩はどう反応するだろうか?
「気やすくさわらないで」とどなって、振り払う?
大声は出さないけど、振り払う?
どちらもしない?
晶菜が先輩なら、どなって、振り払う。
試してみよう。
外が明るいので、ガラスに映った先輩の姿はほのかだ。
手の場所を探って、晶菜は握る。
柔らかい、優しい手だ。
いつもマーチングの指揮者のバトンを握って練習していたら、手はもっと硬くなっているだろう。
いや、左手は使わないのだろうか?
この柔らかさこそ、
向坂先輩は、握らせておいてくれた。振り払わない。
少しの抵抗もしない。
「いいです」
晶菜は言う。声はこわばっていただろう。
「わたし、たった一人でなくても」
それだけのことだ。
たぐる。右手で手のひらを握りながら、左手で先輩の腕をそっと握り、右手を
少し湿っぽい。先輩も汗をかいているのだろう。
先輩は、やっと、晶菜のほうを見下ろす。
その目線を見上げる。
左手を、その黄色に近いベージュのポロシャツの袖へ。
右手を、先輩の背中を回して、その右の胸の下に届かせる。
感じる鼓動は、先輩のものではなく、晶菜自身のものだ。
残念だけど。
でも、拒まないんだ。
右手を胸の前まで回して、きゅっ。
柔らかい。
髪の毛も茶色、瞳の色も茶色で、肌の色もそこまで白くない。声も柔らかい。
自分と、自分のまわりとのあいだに、はっきりとした線を引かない。
それが、向坂
でも、それは、先輩が、だれにも冒されない自分というのを、その芯のところに持っているから。
その自信があるから。
自信があってこその柔らかさだ。
その芯の部分はだれも支配できない。
宮下先輩も、郷司先輩も、晶菜も。
それに、確実にその部分を支配しようという野望を持つ
だから、感じたい。
柔らかい向坂先輩を感じたい。
晶菜は、右手をもっと前に回し、肘を放した左手をその右手に重ねて、もっと強く、きゅっ。
そして、体を先輩にもたせかける。
先輩の体に、振り払おうという動きが起こりかけ、それが消えて行く。
受け入れてくれたんだ、と判断する。
首筋の右側を、先輩の肩にすりつける。
ポロシャツの地は意外にざらざらしている。
もう先輩は振り払おうとしない。逃げようともしないし、逆に先輩から抱いてきたりもしない。
とらえた。
先輩の芯は、もう晶菜の腕のなかから逃れることはできない。
乱れる呼吸……これは先輩のものだ。
激しく呼吸しているのではない。吸うか吐くか、そのたびにためらってから呼吸している。
先輩の呼吸と先輩の柔らかい体を感じ、自分の体の感覚は遠ざかって行く。
でも、それは晶菜が「たった一人」であることの証しではなかった。
先輩の、嘘……。
晶菜は、自分の右の胸を先輩の左の肩の後ろに押しつけた。
だれであれ、これ以上を望む者は、許されない。
ここが限界と思うと、晶菜は寂しい。
郷司先輩が晶菜に感じさせてくれた「あきらめ」は、きっとこれのことなんだろう。
だれより好きな人を腕のなかに感じながら。
自分の体の感覚なんかどうでもいいくらいに感じながら、ほかの少女のことを思い出している。
それを裏切りというなら、それでいい。
恒子先輩は裏切ってすらいない。
恒子先輩のなかには、「たった一人の晶菜」なんて、最初からいないのだから。
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