(6)王家の谷へ続く道
結論から話すと、私は『王家の谷』に行くことはできなかった。
しかし私自身は『王家の谷』に行ったと思っていたのだ。
何を言っているのかわからないかと思うが、とにかくその日起きたことを聞いてほしい——
* * *
ルクソールという町は、ナイル川を挟んで大きく西岸地区と東岸地区に分かれている。
東岸地区にはルクソール神殿やカルナック神殿といった観光地や鉄道の駅があり、中心地として栄えているのはこちら側だろう。私の泊まる安宿も東岸地区にある。
しかし、ルクソールを訪れた旅人は、ほぼ全員が必ず一回は西岸地区へと渡ることになる。
なぜか?
そこには古代エジプトのファラオたちが眠る『王家の谷』があるからである。
私もその日、朝早くに宿を出発して西岸地区に向かおうとした。
川沿いにはいくつか渡し場があるのだが、ルクソール神殿裏にある一番アクセスがいい渡し場では料金は20ポンド、つまり約140円だった。しかし、色々話を聞いてみると2キロほど北に行った渡し場ではなんと5ポンド(35円)で対岸に渡ることができるらしい。
——2キロ歩けば15ポンドの節約か……
散々迷ったが、神殿裏の渡し場で船に乗ることにした。うかうかしていると、日が高くなって気温が上がってしまう。今は多少の金より時間が大切だ。
私が乗った船の船頭は、まだ中学生くらいの少年だった。少年は景気のいい声で客を呼び集めていたが、途中で同じ年頃の友達を見つけたのか船を離れて談笑を始めてしまう。立派に働いているといっても、やはりまだ遊び足りない年頃なのだろう。
少ししてこれ以上客が集まらないと判断したのか、少年がエンジンを吹かせて船を出した。
エンジンは今にも壊れそうな不穏な音を立てているが、船は軽快に水面を進んでいく。残念ながら“風を切る”ようなスピードではなかったが、さやかに吹く風が心地よかった。
2分ほどで対岸に着き、私のちょっとしたナイル川クルーズは終了した。
やはりここでも寄ってくるのはタクシーの客引きたちだ。船着場から王家の谷までは約7キロ。タクシーで移動するのが手っ取り早くて楽なのだろうが、私は客引きたちの間を通り抜けて街中へと入っていった。
いつもは考えなしに歩き出して後悔することがほとんどなのだが、今回はあてがなかったわけではない。東岸地区では自転車を借りることができると聞いていたので、それを利用する予定だったのだ。
レンタサイクルをやっている店は軒先に何台も自転車を置いているのですぐにわかる。店の親父に70ポンドと言われたのを50ポンドにまけてもらい、私は意気揚々とマウンテンバイクを漕ぎ出していった。
エジプトと言うと砂漠だらけの不毛な地のイメージを抱きがちだが、ルクソールはナイル川の恵みの賜物か農業が盛んだ。私は自転車で緑が広がる田園地帯を気持ちよく駆け抜けていった。
途中、この国に来てから聞き飽きるほど聞いたクラクションの音が後ろでプップーと響いた。私が自転車を端に寄せると、その横を車が通り過ぎていく。
——なるほど。
エジプトのドライバーには挨拶のようにことあるごとにクラクションを鳴らす習慣がある。歩行者の立場ではやかましいことこの上なかったのだが、いざ車道を走る側になると「ちょっと車が通りますよ」と教えてくれるのはありがたいかもしれない。
交通ルールがあってないような国では、事故を極力減らすためにクラクションで車の存在を知らせることが必要なのかもしれない。
やかましいことに変わりはないが。
10時を回って太陽がじりじりと高度を上げる頃になると、どっと疲れが押し寄せてきた。何しろ40度近い気温の中で、自転車を漕ぎ続けているのだ。平坦な道や下り坂はともかく、少しでも上りの坂になると体がオーバーヒートしそうになった。
周囲の景観も田園地帯から草も生えない荒野に変わり、ますます暑さから気を逸らすことができなくなる。
観光バスに乗る欧米の旅行客からの「あいつは何をやっているんだ?」という視線が痛かった。
しかしそれでも、自転車という乗り物は漕がなければ前に進めないのである。私はへろへろになりながら、炎天下の中を「オイッチニ、オイッチニ」と足を動かしていった。
ようやく王家の谷らしき場所に着いた時には、すっかり疲労困憊の状態だった。検問所のそばに自転車を置くと、カウンターでチケットを購入して入場した。
入り口から遺跡らしき場所まで200mほど離れており、その間を小型のシャトルバスが走っている。しかし、それに乗るためには5ポンド(約35円)を払わなくてはならないので、私は歩くことにした。
周囲は切り立った岩山に囲まれており、特別な聖域のような雰囲気が感じられる。神殿に辿り着くと、暑さでへばっていた私は日陰で休みながら内部を見学した。
何を見たかをよく覚えていないのは、頭があまり回っていなかったからだと思われる。私は早々に遺跡を後にして、帰路に着いた。とにかく早く宿の部屋で休みたかったのだ。
敷地内にはカフェがあり、そこで一息つこうとしたのだが、飲み物が軒並み定価の10倍以上はしたのでやめておいた。観光地プライスとはいえ、あまりに足元を見られすぎている。
* * *
かくして私はルクソール西岸の観光を終えて、這々の体で東岸に戻ってきたのだった。
宿に戻って冷たいコーラを一気飲みすると、体に活力が戻ってくる。同時に頭も正常に回り出して、疑問が浮かんできた。
——そういや、王家の谷に行ったはずなのに墓らしきものを一回も見なかったな。
気になって調べてみると、どうやら私が訪れたのは『ハトシェプスト女王葬祭殿』という場所で、王家の谷は私が見上げた崖のさらに向こうにあるらしかった。
観光バスが次々と入っていくのを見て勘違いをしてしまったのと、暑い中を自転車で走って疲れていたせいで、判断を間違えたらしい。
——なんだ、そういうことだったのか。
私は王家の谷を見ることなく西岸地区を去ってしまった悔しさよりも、自分の滑稽さを愉快に感じた。
王家の谷は墓荒らしから逃れるために、谷深くに墓を隠したことが誕生の由来とされている。しかし、結局は多くの墓が盗掘の被害に遭ってしまった。
墓荒らしたちが全員私のような早とちりだったなら、発見されずに済んだろうに……なんてことを考えて、1人で笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます