(5)黄昏の神殿
ルクソール神殿はその名の通りルクソールの中心部に位置している。
周辺にはホテルや土産物屋が並ぶスーク(市場)があり、ほとんどの旅人はこの神殿を起点に町を歩くことになる。
大通りから一本裏の道に入った場所に一泊180ポンド(約1200円)の宿を見つけた私は、部屋に荷物を置いてルクソール神殿へ向かった。太陽は大分傾いてきたが、まだまだ厳しい暑さが残っている。少し歩いただけで体が火照ってくるのを感じた。
ルクソール神殿へ続くメインストリートは観光客向けの飲食店や土産物屋が目立つが、町に住む人が出入りするスーパーマーケットやカフェも並び、賑やかな通りだった。
入場料の160ポンド(約1100円)を支払って中に入ると、まず6体の巨像と1本のオベリスク(記念塔)が立つ門が現れる。オベリスクは門の左側にだけ不自然に立っているが、これはもう1本がパリのコンコルド広場にあるためである。
——あの時に見た塔の正体はこれだったのか。
私はパリを訪れた時の記憶を思い出した。当時まだ学生だった私は、なぜフランスらしからぬ意匠のモニュメントがここに立っているのだろうかと、不思議な気持ちでオベリスクを見上げていた。
門から神殿の内部へと入り、高い円柱に囲まれた道を歩いていると妙な違和感を覚えた。
当時の姿を残す古代神殿の美しさに触れて心が浮ついた、というわけではない。
むしろ逆だ。
こみ上げてくるものがないのである。
神殿は確かに素晴らしい。3000年以上前の建造物がここまで綺麗に現存しているなんてことは、奇跡としか言いようがない。
だが、なぜだか私の心はピラミッドを前にした時のような興奮を覚えなかった。
——もしかしたら、おれの心は疲れ始めているのかもしれない。
久しぶりに海外の旅に出て、ここまで忙しなく動き続けてきた。短い間に何度も感動を味わってきたことで、どうも私の心は大抵のことでは揺さぶられなくなってきたようだった。
好奇心の磨耗。
あるいはそう表現してもいいかもしれない。
今までも長い旅に出た時は同じような状態になったことはあったが、いくらなんでも今回は早すぎる。まだエジプトに来てから1週間も経っていないというのに。
だからと言って、すぐに神殿を出てしまうのももったいない。私は空虚な心を抱えながら、石の回廊を歩き回った。
途中、王族の夫婦と思われる石像を見た時にだけ、胸に響いてくるものがあった。
その像は王と王女が並んで座っているのだが、王女の像がほとんど朽ちかけていた。そんな状態になっても寄り添い続ける姿に、なんとなくロマンチックな想いがこみ上げてきた。
だが、それも少しの間のことだけだった。像から離れて別の場所へ歩き出すと、私の心はまた冷たい石のように固まってしまった。
なぜだろう。目の前にあるのは、世界に二つとない美しさを残す古代の神殿だというのに。
古代エジプトについての造詣が深ければ、歴史に思いを馳せて楽しむことができたかもしれない。
あるいは建築についての知識があれば、細かな意匠や当時の技法について考えを巡らせることができたかもしれない。
とにかく、何も感じることができていない自分が悔しかった——
似たような悔しさを以前も感じたことがある。確かそれも、学生時代に訪れたパリでの出来事だ。
ルーブル美術館で世界的名画『モナ・リザ』を鑑賞したにも関わらず、こみ上げるような感動がなかったのだ。
その時も自分の感性が情けなくなり、日本に帰ってから美術館や美術展に積極的に足を運んで自分なりの芸術の楽しみ方を探そうと躍起になったものだった。
* * *
——日も暮れてきたし、今日はここまでかな。
私はある種の“敗北感”を味わいながら、元来た道をとぼとぼ歩いていった。
門を抜けて正面の広場に戻った時、西の空が真っ赤に燃えていることに気がついた。
私はハッと顔を上げた。振り返ると、夕焼けの光を受けて神殿が赤く色づいているではないか。
美しかった。
神秘的、ともまた違う。
何かの“終わり”を感じさせる夕陽の光が、古代の神殿にはとてもよく似合っていた。
黄昏の中で佇む神殿を見ていると、心の底から感情が湧き上がってくる。石像たちが夕焼けの赤い光を受けて命を吹き込まれたように、私自身も生き返ったかのような心地だった。
私はしばらく夕焼け空と神殿を眺めていたが、突然ライトアップが始まり人工的な光が石像と石壁を照らした。
途端に神殿は生き生きとした輝きを失い、映画のセットか何かのような作り物の表情を浮かべるようになった。
同時に私の心も感情を失い、冷たい石になった。
バスから降りてきたツアー客たちの流れに逆らい、私は一人出口を目指す。
私が黄昏の神殿を拝むことができたのは、時間にしてほんの短い間だけだった。一瞬の出来事だったと言ってもいいかもしれない。
だが、その一瞬を味わうことができただけでも、ルクソール神殿に来てよかったと思う。
——おれは、その“一瞬”を探すために旅をしているのだ。
不思議な充実感とともに、私は神殿を後にするのだった。
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