第7章-4 目覚め
芽衣のいる部屋に戻ると、ほとんど誰もいなくなっていた。
処置は終わったんだろう。さっきよりは機械の数も減っていて、測定機器みたいなものだけが枕元にいくつか並んでいる。
そして、入口の脇の長椅子で、お母さんが横になって寝息を立てていた。
「鳴元さん、起きてください」
秋山さんがお母さんの肩を軽く揺すったけど、起きる様子は全くなかった。
「お母さんのこんなぐっすり寝てる顔って、初めて見たかもしれないです」
今更のように気付いた。
どんなに夜遅く帰って来た時も、疲れていた時も、お母さんは僕たちが眠るのを見届けてるまで必ず起きていたことを。
「今晩は大丈夫だよ」
秋山さんは僕の肩に両手を置いた。
「お母さんがこうして寝ているってことは、取り敢えず今は芽衣ちゃんも落ち着いているってことだよ」
名前を呼ばれて、お母さんから芽衣の方に目を向ける。
僕の目には細かいことは分からないけど、芽衣の顔は安らかに夢を見ているように見えた。
寝ている姿がお母さんと似ているな、と思った。
「さて、と。私はそろそろ戻って、芽衣ちゃんのために最後までできることをしてみるよ」
そう言って、秋山さんは席を立った。
「和広くんも寝た方がいいよ。この研究所、ちゃんと仮眠室もあるから。えっと、廊下を左に出て……」
そう言って、道順を説明しようとした秋山さんの言葉を僕は遮った。
「もう少し、いさせてください」
強い口調で言って、秋山さんの目をじっと見た。
「……あんまり夜更かししちゃ駄目だよ」
口ではたしなめるようなことを言いながら、秋山さんは黙って扉を閉じた。
かち、かちと時計の音だけが妙に大きく響く。
部屋に窓があることに今更のように気付いた。分厚いカーテンを少し開けると、正面に大きな月が見えた。多分満月なんだろう、きれいな丸を描いている。
外を見たくて、自分の後ろでもう一度カーテンを寄せる。部屋の灯りが自分の周りから去って、代わって月の光と星の光が僕を射す。
阿賀里が言っていた宇宙ステーションとかはどの辺にあるんだろう。
僕だったらやっぱり月基地に行きたいかもしれない。
そんなどうでもいいことを考えてみてから、阿賀里の言葉を改めて思い出す。
『和広は何になりたいんだよ』
小さい頃は電車の運転手とか言っていた気がする。
訳も分からずに総理大臣とか言ってたこともあったような気がする。
ゲームクリエーターになりたいとか適当に格好付けて言ってみたこともあったような気がする。
でも、どれを口にしても、すごく嘘くさい気がして。
そしてあの事故の日から、夢とかそんなことを考えることもなかったな、と改めて思った。
取り敢えず学校には行くし、宿題は毎日出るし、だけど、それ以上は――芽衣がいない間はもちろん、芽衣が戻って来てからも、何も考えずに、ただ流されていたような気がして。
「――お母さんみたいに、なりたい」
正直お母さんの研究も、仕事も、詳しくは知らないし、何の具体性もないのに。
なんとなく、その言葉だけはすっと浮かんで。
そして僕の心の中にすっと染み込んだ。
基地で使うロボットでも開発して、阿賀里に月で使ってもらうとか面白いかな。
そう思って見上げた月のうさぎは、吸い込まれそうにきれいで。
気がつけば背後のカーテンがまた少し開いていて、月の光が芽衣を照らしていて。
芽衣が吸い込まれていきそうな気がして、なんだか少し不安になって。
カーテンをしっかり閉め直すと、僕は椅子を持ち上げて、芽衣のそばに移動した。
朝は見るからに様子がおかしかったけど、今は静かに寝息を立てている。
最近は別々の部屋で過ごしていたけど、小さい頃は二人一緒に並んで寝ていた。芽衣が横になって寝ている様子を見るのは久しぶりだけど、なんだか、小さな頃とあんまり変わらないような気がした。
昔と変わらないことにほっとした。
芽衣は変わらないから、いつもの芽衣だから、月に吸い込まれたりなんかしないだろう、きっと。
そう祈りながら、僕は少し、目を閉じた。
*
夢を見ていた。
「おにいちゃんおにいちゃん、おにーちゃんー!」
元気な声とともに、芽衣がいつものように、階段をどたどたどたと勢いよく駆け下りて来る。
「一度呼べば分かるよ」
口を尖らせながら、台所にいた僕は答える。
でもそんないつもの文句を、芽衣が聞かないことも僕は知っている。
「和広お兄ちゃんっ! おひるごはんまだーっ?」
台所のドアが勢いよく開いて、芽衣が飛び込んでくる。頭の上のリボンと、それに縛られた二つの大きなしっぽがぽんぽんと揺れて、いつもの明るい笑みと、ぱっちりとした目と、実はちょっとだけ本人が気にしているらしい大きなおでこと。
「これから作るっ」
そう言いながら、棚からインスタントラーメンを取り出す。
「芽衣はいつも通りしょうゆラーメンかな」
「うん!」
いつも通りの元気な声で。
「今日は僕もしょうゆでいいかな」
そう言いながら、二袋一緒に茹でる。
ネギとかもやしとか、いつもよく入れるようなものは切らしていて、ちょっと考えてから缶詰のコーンを載せてみて。
丼に盛り付けて出すと、いつもそうだったように、芽衣は勢いよく、いかにも美味しそうにラーメンをすすり始めた。
僕は黙って、芽衣のその姿を見ていた。
夢のような時間だとか、自分に嘘をついて生きているとか、そういうのじゃなく、僕はこれが夢だと、自分が夢の中にいることに、最初から気がついていた。
「おにいちゃん、何ぼぉっとしてるの? ラーメンのびちゃうよ?」
「あ、うん。早く食べなくちゃね」
ちょっと……どころか明らかにぎこちない声で、はっきり言えば泣きそうなのを必死に我慢しながら、僕は答えた。
麺を一口食べて、それから少しスープをすする。
なんだか味がしないのは、夢の中だからなのか、それとも別の理由があるのか。
そう思った時、夢の中だと気付いた時、この夢は覚めてしまうんだと気付いた。
まぶたを開くと、少し首に痛みを感じた。
俯いていたのでまずタイル型のカーペットが目に入ってきて、なんだろうこれ、と見覚えのない景色について少し考えて、それから自分が今いる場所について思い出す。
ベッドの横で椅子に座ったまま、眠ってしまっていたらしい。
「夢か」
誰も聞いていないのにそんなことを独り言で呟く。
怖い夢を見た時にはよく、そうやって「ゆめだった、ゆめだった」と一人で言い聞かせることで、自分を安心させたりもするけど。でも、今回はそれとも違って、自分がいる場所を確認するような、そんな言葉だった。
その時、芽衣の寝息のリズムが少し変わったのを感じた。
大きく一度息を吸う様子に、僕は浮かせていたお尻を椅子に戻す。
まぶたをゆっくり開いて、
「お兄ちゃん」
芽衣が僕に、呼びかけた。
「……お兄ちゃん?」
どこにいるのか分からないような表情で辺りを見回す。
「……ここ、研究所?」
僕は黙って頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます