第7章-3 コーヒーと写真立て

 昼間に来た時に研究所の雰囲気は病院と似ているなと思ったけど、病院とは一つ大きく違いがあることにふと気付く。


 いわゆる待合室とかそういう場所がない。

 だから、僕たちが待つような場所もなかった。


 玄関の近くに椅子と机があったので、そこまで戻った。

 大きなガラスの窓の向こうには駐車場があるけど、今は街灯が点いているだけで、とても静かだ。明かりに誘われてか、虫が窓ガラスにいくつも張り付いていて、正直ちょっと気持ち悪い。


「ここにいたんだ」


 秋山さんの声に振り向く。いつになく疲れたような表情をしている。


「寝た方がいいよ……とか言っても、眠れないよね」


 そう言って、隣の椅子に腰掛けて、机に肘をついてため息を吐く。


「私も」


 窓の方を少し向いてから、一瞬まぶたを見開いて視線を逸らした。見ていた先には蛾が羽を広げて張り付いている。


「……少し話さない?」


 秋山さんが僕に言った。


「何か飲みながら」

「ナンパですか」

「そう、ナンパナンパ」


 冗談めかした内容にしては口調はそれらしくなかったけど。


「お願いします」


 僕は椅子から腰を上げた。




 僕を連れた秋山さんは、階段を二階分上がって、並んでいる部屋の一つに案内する。


「企業ヒミツとかもあるから、あんまりキョロキョロしちゃダメだよ」


 冗談めかして言いながら扉を開けた秋山さんが、手前の方の電灯だけをつける。


「……お茶がいい? コーヒーもあるけど」


「コーヒーがいいです」


 普段はコーヒーなんて飲まないのに、何故かそう答えていた。


「おっけ」


 秋山さんが部屋の奥に向かう。


 僕は入口のあたりに立ったまま、部屋を見回した。


 小学校の職員室に似ているかもしれない。でも、先生がほとんどいない職員室はあまり見たことないので、なんだか変な感じだ。


 研究所の部屋というイメージでもっとすごいものを想像してたけど、普通なんだな、と思った。


 奥の方で何かが唸る音がした。コーヒーを作る機械だろうか。その音が二回したところで、秋山さんが戻ってくる。


「その席がいいよ。……お母さんの席だから」


 秋山さんが、周りと比べても片付いた感じのする机を指さして、そこにマグカップを置いた。

 ……見覚えのあるマグカップだ。家に同じマグがあったような気がする。

 椅子を引いて腰掛けると、コーヒーをひとくち、口に含んだ。


「う」


 変な声を上げる。


「……砂糖もミルクもあるよ」


 秋山さんがくす、と少し笑って、フレッシュと砂糖のスティックをどさどさと置く。


「ありがとうございます」


 まずは一つずつ入れて、一口飲んで、砂糖をもう一つ入れる。


「砂糖が多いの、お母さんと一緒なんだね」


 もう一度、くす。


「お母さんもいつもここで仕事してるんですか?」

「研究室にいることも多いから、時々しか来ないんだけどね」


 そう言いながら、慣れたような雰囲気で隣の席に座る秋山さん。ノートパソコン

をすっと横に移動させて、そこに肘をつく。


「秋山さん、隣の席で仕事してるんですね」

「いや、違うけど? ここヤマダさんの席。私の席は向こう」


 指さす先には、物が多い――というより、単純に汚い机。


「えー」


 思わず口を尖らせて、少しだけ笑って、気が楽になった気がした。


「お母さんに、ひどいこと言っちゃいました」


 顔を見ると、秋山さんは少しだけ微笑んで言った。


「ほら、お母さんの机を見て」


 そう言われて机の上を見る。


 そこには二枚の写真立てが置いてあった。


 一枚は、お父さんと、僕と、芽衣と、お母さんと、四人が写った写真。僕も芽衣もまだかなり小さくて。背後には大きなライオンの像が映っている。見覚えがある、というのか家に飾っているのと同じ写真だ。

 もう一枚は秋山さんと、僕と、芽衣と、お母さん……。ほとんど同じ構図。お父さんが秋山さんに代わっただけで、並びも全く一緒だ。初めて見る写真だけど、これを撮ったのがいつかは分かる。この前のピクニックの時だ。


 秋山さんに肩を寄せられた僕は、カメラから視線を少しずらして、照れたような怯えたようななんとも複雑な表情を浮かべている。そして芽衣は、ピースサインに向かって少し首を傾げて、いつもの通りにこにこと快活に笑っている。


「仕事をしながら手を止めては、写真を見てたよ」


 その時の視線より少しだけ高さは低いんだろうけど、多分それ以外はいつものお母さんと同じように、僕は写真をじっと見つめる。


 秋山さんがカップを机に置く音がした。

「いつもきょうだい二人きりで、寂しい思いをさせるお母さんでしょ」

「そんなことは!」


 とっさに強い口調で言いかけたけど、秋山さんはそのまま言葉を繋げた。


「お母さん、いつもその写真を見ながら、私にそう言ってたよ」


 黙る。


「和広くんや芽衣ちゃんがお母さんのことを嫌っていたとは思ってないよ。ピクニックの時の様子を見てたら分かってる」


 そう言いながら秋山さんも写真の方を見た。


「お母さんのこと、好きだよね」

「はい」

「いいなぁ。私はそんな風に間髪を入れず答えられなかったかも」


 しみじみとした口調で僕に言う。


「だからお母さんのことを疑ってなんていないと思うけど――でも、改めて言っておかないと駄目かなと思うから」


 そう言って、机に肘をついた。


「お母さん、いつも和広くんや芽衣ちゃんのことを話してたよ」

「……どう言っていました?」

「それは本人には言えないかなぁ」


 口の端を少し上げて首を傾げる。


「そうだね……。芽衣ちゃんの具合を見に初めて家に行った時、初対面だけど、ああ和広くんだ、と思ったかな。初めてなのに初めてって気がしなかった」


「思った通りでしたか」


「うん。聞いていたとおりだった。優しくて、一生懸命で、強い子だって」


「そう、ですか」

 自分が優しいとも、一生懸命だとも思えない。そして何より、こんなに弱虫なのに。


「お母さんとそっくりだなぁ、と思った――本当は弱いのに、優しくて、一生懸命で、強くあろうとする人だって」


「お母さん、弱いんですか」


「うん」

 秋山さんはすぐに頷いた。


「そのくせに和広くんの前では弱さを見せないように、ずっと頑張ってた」


「……頑張ってるのはよく分かります」


「いつだったかな、私にぼそっと言ってた」


 そこで少し考えて、結局その続きは言わずに、別のことを言った。


「お母さんは和広くんのこと、大好きなんだよ」


「よく知ってます」

 その答えは何の迷いもなく、出てきた。


「さっきはお母さんに悪いことをしました」

「だね」


 否定もせず、叱りもせず、ただ僕の言葉を肯定する秋山さん。そして一言だけ付け足す。


「でも、仕方ないよ」


 そう言われて、なんとなく楽になった気がしたから。


「お母さん、ああ見えて結構抜けてるところがあって。小さい頃のことなんですけど……」


 それから、多分会社では見せないであろうお母さんの姿を、秋山さんに話す。

 秋山さんも僕の知らないお母さんの様子を教えてくれる。


 少しだけ、自分も秋山さんも笑えた気がした。


 ――芽衣の話はしなかった。

 それもまた、二人の無言の約束になっていた。

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