第6章-4 待ち人

 秋山さんの車が走り去るのを、じっと見送って。


 さっき玄関に鍵を掛けるのを忘れていたな、と思った。泥棒とか入らないよね。

 そう思いながら玄関を入ろうとした時に、門柱の影にしゃがんでいる女の子の姿に気付いた。


 長く伸びた髪に、丸っこい眼鏡。


「……真理恵ちゃん」

 僕は彼女の名前を呼んだ。


「……なんでこんなところに」


「芽衣ちゃんはいないんですか」

 一方的に飛んでくる質問。


「……いないよ」


 説明する言葉が浮かばなくて、ただ事実だけを答える。


「そうですか」


 息を吐き出す。


「芽衣ちゃんのことが心配で、ずっと待ってたんです」

 眼鏡の奥の瞳が、僕を見つめる。


「芽衣ちゃん、何かあったんですか」


「……別に何もないよ」

 一瞬迷った末にしらを切った。


 だけど真理恵ちゃんは畳みかけるように言葉を重ねる。


「今日の朝、大きな車で、担架に乗せられて運ばれていきましたよね」


「何故それを」

 言ってから、真理恵ちゃんの言うことを認めてしまったことに気がつく。


「……とにかく、上がって」

 そう言うと、ポケットから家の鍵を取り出して、ドアを開けた。




「何か飲み物でも出すよ」


 リビングに座ってもらった真理恵ちゃんに話しかけながら、僕は冷蔵庫をのぞき込んだ。


 冷蔵庫の袖には水出しでティーバッグが入ったままの麦茶が冷えているけど、いつ淹れたか分からないような気がして、お客さんに出す気がしなくて。


「スポーツドリンクでいいかな」


 大きなペットボトルがあるのを見て声を掛けた。


「はい」


 頷く真理恵ちゃんのシャツはびっしょりと濡れていて、透けてはいないと思うけど、体に張り付いているのは男の子があまり見ちゃいけないもののような気がして。


 洗面所に行って、いちばん上に置いてあったバスタオルをつかんで持ってくる。……スポーツタオルがあれば良かったけど、探すのも面倒だった。


「汗、拭いて」


 そう言ってタオルを置いてから、台所に戻る。この短い時間なのに、ペットボトルの表面にはもう水滴が付いていた。2つのコップにそれぞれ半分ちょっと上まで注いで、氷を入れて、お盆に載せてリビングに戻る。


 真理恵ちゃんは眼鏡をテーブルに置いて、俯いて、顔をタオルで覆ってごしごしとこすっている。


 何故だろう。


 あれだけ自分がいっぱいいっぱいだったのに、目の前でもっといっぱいいっぱいになっている子がいると、不思議なくらいに冷静になる。


 でも、何を言えばいいのか分からなくて。何か言えば自分の感情がまた溢れてしまいそうな気がして。何も言わずに、コップに口を付ける。


 真理恵ちゃんは汗を拭っているのか、それとも他のものも一緒に拭っているのかよく分からない。


 コップの中は既に半分ぐらいになっていて。足りない気がして、台所に行ってペットボトルそのものを持ってきた。

 重いペットボトルをテーブルに置くと、その衝撃に反応するかのように、真理恵ちゃんが顔を上げた。


「お兄さん、芽衣ちゃんは、帰ってきますか」

 僕は黙ってペットボトルを傾ける。とくとくとくと音を立てて、うっすらと濁った液体がコップに注がれる。


「分からない」

 僕は首を振って、スポーツドリンクを一口。


「……いなくなりませんよね」


 バスタオルを胸に抱える。


「祈って待つしかないよ」


 どこかから蝉が一匹飛んで来て鳴き始める。

 ツクツクホーシ、ツクツクホーシ。


「もうツクツクホーシの季節なんですね」

「今年初めて聞いたね」


 そう言えばクーラーさえ付けていなかったことに、今更のように初めて気付いた。

 

 リモコンのスイッチを押すと、ぴぴっ、と機械的な電子音が鳴って。

 賑やかなセミの声と、クーラーの無機質な音とが、すごく対照的に感じて。


「芽衣ちゃん……」


 真理恵ちゃんが小声で呟く。


「……何かあったら電話があると思うから、いったん家に帰って休んだ方が」


 そう言って、僕はテーブルの隅に置いた携帯電話を持ってみせる。


「しばらく待たせてもらって、いいですか」

「いいけど、家に電話しておこうか?」


 僕が言うと、真理恵ちゃんはぶるぶると大きく首を振った。


「今電話しても、家には誰もいないです」

「夕方までには」


「うちはお父さんもお母さんも帰りが遅いし、私がいてもいなくても気にしません」


 そう言えばこの前送っていった時も、真理恵ちゃんの家は暗かったなと思った。


「二人とも、仕事で忙しそうですから」

「そっか」


 それは自分も経験があることだったから、敢えて何も言わなかった。


 電話をテーブルに置こうとして、電池がかなり減っていることに気付いて、充電器に携帯をセットしておく。


「いつも芽衣ちゃんと遊んでたから、芽衣ちゃんがいないとひとりぼっちです」


 寂しそうに言った。


「お兄さんだって」

「氷、交換してこようか」


 僕は話を遮って、コップを2つとも持って台所に行く。

 冷凍庫からあふれ出す冷気が、自分の気持ちも少しだけ冷静にさせてくれる気がした。


 からころと氷の音をさせながら、コップを置く。


「すいません」


 真理恵ちゃんが小声で言った。


「多分僕も真理恵ちゃんと気持ちは同じだよ」

 そう言って、テレビを付ける。じっと静かな中で不安に耐えているのも限界だった。


 ちょうど高校野球を放送していて、バッターが思いっきり空振りした。


「芽衣ちゃんは、帰ってきますよね」


 外では蝉がうるさく鳴いている。


 鳴いているんだろうか。


 蝉が地上に出てからの寿命はとても短いらしいけど、もしかすると、その短さが辛くて、泣いているんだろうか。

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