第4章-2 何も考えなくても、大丈夫よ
六年生にもなるとすべり台なんてあまり使うことはなくて。
だから正直、芽衣と違って、僕はなんとなく気恥ずかしかったりしたんだけど、でも滑ってみると気持ち良くて、ライオンの口に吸い込まれるところはやっぱり迫力があって、体の中だとライオンの吠える声はとてもよく響いて、でも内側はわりと作りが甘くてコンクリートが剥き出しだったりして、改めて見るとちょっとハリボテだなぁと思うけど。
簡単に言えば、わりと楽しかった。
滑り終わった後に芽衣とお母さんの待つところに駆け寄ってライオンを見ていると、なにやら歓声めいたものがかすかに聞こえて。
「あー、楽しかったー」
にこにこしながら、僕と違って大人になっても気恥ずかしさの欠片もない人が戻ってくる。
「秋山さんもうんちになりましたか」
さっきの言葉を返してみる。
「完全にうんちだね」
そう言いながらお母さんの方をちらっと見る。聞いてない。
「お母さん、もう一回行ってくる!」
芽衣がそう言うと、返事も聞かずに歩き出す。
「じゃ、私も」
秋山さんもそれを追いかける。……芽衣を一人で行かせないようにしているんだと思いたいけど、単にもう一度滑りたいだけの可能性もなくはない。いや、きっとそうだ。
少し進んでから芽衣が立ち止まって、僕の方に振り向く。
「お兄ちゃんは来ないの?」
「今回は写真係になるよ。行っておいで」
芽衣はほんの少し不満そうな顔をしたけど。
「はぁい」
そう言って、追い付いた秋山さんと一緒に丘を登り始めた。
お母さんは黙って、じっと芽衣を見ていた。
幸せそうな顔だな、と思った。そう言えばこういう優しそうなお母さんと二人っきりって久しぶりだな、と思う。
お父さんが死んでからは仕事に一生懸命だったし、芽衣が死んでからはもう、表情がずっと強ばっていたような気がする――多分僕もそうなんだろうけど。もちろん家族だから一緒にいることなんていくらでもあるけど、こんな幸せそうな顔はすることは少なかったし、芽衣が帰って来てからは帰って来てもいつも芽衣と三人で過ごしていたような気がする。
だから、そういうお母さんの表情を見るのは幸せなはずだったけど。
根拠もなく、すごく不安定なように思えた。
「お母さん」
僕が呼びかける。
「芽衣は本当に大丈夫なの?」
「……どうしたの、急に」
「秋山さんがこの前、芽衣の調子を確認しに」
「ああ、健康診断ね」
僕が言いかけたのをお母さんが遮る。
僕は一瞬黙ってから、言い直した。
「……秋山さんがこの前、芽衣の健康診断に来たんだけど」
そこで少し口ごもる。
「秋山、何を言ったの?」
お母さんの顔が強ばるのが分かった。
「芽衣の数値が、微妙に想定されている数字とずれてるって……」
「なんだ、そんなこと」
急に頬が緩んでにこっとする。
「大丈夫よ。和広だって健康診断で本当に何の問題もないわけじゃないでしょ? 風邪を引いたり熱を出したりすることだってあるし、目が悪かったり聴力検査で引っかかったりするでしょ、人によっては。それと同じことよ」
そう言われるとそうなのかもしれないけど。
「……でも、不安だよ」
「大丈夫。芽衣はあんなに元気でしょ?」
お母さんはにこっと笑う。
「戻って来て最初はまだ調子がいまいちだったけど、本調子じゃなかっただけよ」
だけど、そのお母さんの笑顔は、一〇〇%のものとは思えなくて。
何が違う、と言われたら説明はできないけど。多分普通に見ていたら分からないんだろうけど。……家族だから。
何かが違う、と気付いてしまった。
その笑顔は、何かを無理しているものだと。
「お母さん」
だから、芽衣がいない今じゃないと聞けないと思った。
「僕たちは、これでいいの?」
……それは、今まで言えなかった言葉。
お母さんは一瞬だけ、笑みを崩してとても真面目な顔をして、それからすぐに元の優しいお母さんの顔に戻った。
「大丈夫よ」
ほんの少し早口になった気がした。でも、その続きはもう元の口調に戻った。
「和広は何も考えなくても、大丈夫よ」
僕の目を見ながら言う。
「心配しなくても、大丈夫よ」
ああ、でも気付いた。お母さんが見ているのは僕の目じゃない。お母さんが言い聞かせているのは、僕の目に映っている、お母さん自身だ。
「芽衣が帰って来たんだから、大丈夫。色々あるけどどうにかなるわよ」
大丈夫、という言葉を口にしたのは何度目だろう。
「……お母さん」
もう一度呼びかけてみたけど。
「あ、それよりそろそろ芽衣が滑ってくる頃よ、カメラカメラ」
そう言うと、お母さんは慌ててカメラを構えている。
僕は黙ってそれを眺めた。
がおー、とまたライオンが吠えて、芽衣が歓声とともに今日二回目のライオンの排泄物になった。
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