第2章-4 夕暮れの帰り道

 その日の夕方。


「お兄ちゃんおにいちゃん、真理恵ちゃん帰るって!」

 そう言って、芽衣と笹谷さんが一緒に降りてくる。

「ありがとうございました」


「待って」

 一礼して出て行こうとする笹谷さんを、僕は呼び止めた。


「……家、どの辺?」

「西町の方です」

 ここからはちょっと離れている。

「送って行くよ」

 そう言うと、答えを待たずに僕は靴を履いた。




 西に傾いた太陽が辺りを朱く染める。

「遅くなっちゃいましたね」

「……もう少し早く声を掛けるべきだったかな、ごめんね」

「いえ、私が居座っただけですから」

「お母さんが心配するかな」

「そういうのは大丈夫だと思います」


 なんとなくその言い方に引っかかったけど、僕は黙って自転車を押していく。

 からからから、と自転車の車輪が回る音だけがする。


「分かってます」


 笹谷さんの言葉に僕は足を止めた。

 チェーンの音も同時に止まる。


「芽衣ちゃんが死んだことは、分かってます」


 足を止めて、はっきりと言った。


「お葬式も行きました。芽衣さんの顔もお母さんに見せてもらいました。とても綺麗な顔でした」


 数秒黙ってから。

「それなら」

 言いかけたところで、笹谷さんは目を逸らすように前を向いた。


「でも、今日芽衣ちゃんはいました」


 ゆっくりと歩き出す。ほんの少し後ろから付いていくように、僕もまた歩き出す。


「あの日、お葬式の日、私はすごく泣いてました。芽衣ちゃんにはもう……もう二度と会えないはずだった」

「覚えてる」

「なのに、――本当に偶然だったんです。スーパーでお兄さんと二人で歩いているのを。他の子は気付かなかったかもしれないけど、親戚の女の子だと言われたら信じたかもしれないけど、でも私には分かったんです。あの子は芽衣ちゃん以外の何者でもないって」

「親友だったんだね」

「親友です」


 後ろからついていく僕には笹谷さんの顔は見えない。だけど声は少し上擦っていて。そして一度、天を仰いだ。


「……お兄さんが次に言いたいことは分かってます。なんで芽衣ちゃんが今家にいるのか訊かないの、ってことですよね」

「……ああ」

「訊いてもどうしようもないからです」


 そこで僕は立ち止まった。


「芽衣ちゃんが幽霊なのか、幻なのか、夢なのか、タイムマシンを使ったのか、ロボットなのか、魔法なのか、ドッペルゲンガーなのか……なんなのか」


 少し早口で言ってから俯く。


 ロボットという言葉に心臓が激しく脈打って、僕は少し顔をしかめた。だけど笹谷さんはそれに気付かない様子で、俯いたまま何歩か歩いて、そしてゆっくりと言った。


「そんなことは、どうでもいいんです」


 そう言うと、笹谷さんは僕に向き直った。


「芽衣ちゃんが帰ってきたのなら、それで私はいいんです」

 後ろから夕日に照らされて、笹谷さんの表情はよく分からない。


「私は狂ってるのかもしれない、です」


 その声は上擦って、泣いてるようにも、笑ってるようにも聞こえた。


 僕は自転車を押して、また歩き始める。

 笹谷さんと並んだ辺りで小さく呟いた。

「……きっと僕だって、とっくに狂ってるんだと思う」


 笹谷さんは無言で横に並んで歩く。


 誰かに話を聞かれたくない気がして、あと少し長く話したい気がして、狭い道に入る。少し遠回りにはなるけど。

 一瞬ちらっと僕の顔を見てから、笹谷さんも僕のほんの少し後をついてくる。

「家族だからね」

 喉の奥から出てきた言葉をそのまま呟いてから、なんだか全然理由になっていないなと思った。国語の作文だったらきっと零点だろう。


 道の脇には小さな用水路が流れていて、確か小さい頃にはここでザリガニを見かけたような気がする。いつしかいなくなった気がするけど、いや、自分が気にしなくなっただけなのかもしれない。

「笹谷さんは、今なら戻れるかもしれない」

 少し無言になる。


 この話を続けるのがしんどくなって、僕は強引に別の話題を出す。


「西町から小学校って遠いよね」

 小学校へは今向かっているのとちょうど逆方向だ。子供の目から見ても分かりやすく新しい家が多いので、多分昔はあんまり家がなくて、後から家が建ってきたんだと思う。小学校は昔から今の場所にあったらしく、校庭には大きなくすのきが立っている。

「そうですね。遠いです」

「何分ぐらいかかるの?」

「十五分ぐらいです」

「そんなに」

「はい」

「雨の日は大変だね……」

「まぁ、慣れてます。それに同じ方角に帰る子もけっこういますし」

「今でも新しい家がどんどん建ってるもんね」

「でも、もっと近かったら嬉しいんですけどね」

 それっきり会話が途絶える。


 しばらくして、笹谷さんが言った。

「ずるいですよ、それは」


 それが一つ前の話題の続きだと気付くのに、少し掛かった。

「私だって、友だちです」

 少し強い口調で言う。

「生まれた時から一緒のお兄さんには負けるけど、女の子には、女の子の世界があるんです。お兄さんも知らないような」

「そっか」

「毎日学校に向かいながら、そんな話をしてました。かわいいキーホルダーの話とか、好きな芸能人の話とか、クラスの男の子の話とか」

「……芽衣は僕のこと何か言ってた?」

「ヒミツですよ、そんなの言えません」

「……そりゃそうか」


 再び表通りに戻る。

 夕日が僕たちを照らし出して、長い影が伸びる。


「……ごめんなさい、言い訳です」

 急に申し訳なさそうに、小声の呟きが聞こえた。


「おかしいと思います。おかしいと知ってます」

 ほんの少し歩幅が大きくなる。何かから逃げるように。

「お兄さんが言いたいことはよく分かってます」

「だけど私は、まだ芽衣ちゃんと一緒に過ごしたいんです」

「分かりますよね。……だって、お兄さんもそうですよね」

「……だね」


 その二文字を呟くのが精一杯で。

 あとはまた、黙って歩いて行く。


「あ、ここです」

 笹谷さんが足を止める。

「……この家なんだ」


 人の家をあまりじろじろと見る趣味はないつもりだけど、ちょっとヨーロッパの旧家風にも見える石積み風の塀は付近でも目立つ。そして広い庭に、塀と同じように洋風のおしゃれな感じの家。小さな出窓が付いてたりする。

 上手く言えないけど、「道案内の目印になるようなりっぱな家」だ。


 だけどその家には明かりは付いていない。

 ただ、玄関灯だけが自動で点いた。


「誰もいないの?」

「はい」


 その光の下で立ち止まって、家の鍵を確かめながら、笹谷さんは頷いた。

 さっきの何気ない会話を思い出した。母親が心配するかなと言って、「大丈夫です」と答えていたことを。


「……それじゃ」


「はい。ありがとうございました」

 小さく礼をして、家の中に入っていく。

 ドアが閉まって、玄関の明かりが灯るまで、僕はその場にたたずんでいた。


 太陽はいつの間にか沈んでいた。

 どこかでセミが鳴いていた。

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