第1章-4 あたらしい朝が来た
「お兄ちゃん、おはよっ!」
次の日の朝、階段を下りていくと、いつも通りの……正確にはいつも通り“だった”声が聞こえてくる。
だいたい僕が夜型なのに対して芽衣は朝型で、起こしに来るのは芽衣の方と決まっていた。
そんなところまで再現しなくても良いのに、とか思いながら、僕は取り敢えず欠伸を噛み殺す。お風呂に入った後もなかなか眠れなくて、なのにちゃんとラジオ体操の時間には目を覚ます自分がつくづく不思議だ。
「早く行かないとラジオ体操始まっちゃうよっ!」
その声ではっと気がついて、“芽衣”の胸を見る。そこには既に、あの日のまま残っていたラジオ体操のカードが掛かっていた。
「駄目!」
僕は叫んだ。
「何が駄目なの?」
きょとんとした顔で僕を見て、“芽衣”は小さく首を傾げた。
「今は外に出ちゃ駄目。ラジオ体操は休んで良いから」
「えー、休んじゃ駄目だよ! ちゃんと毎日通って、裏のスタンプをいっぱいにしなきゃだめなんだよ!」
何も分かってない様子でまた首を傾げる。
「お兄ちゃん、怠けないで行こうよ! 新しい朝は希望の朝なんだよ!」
「とにかく今日のところは休まなきゃ駄目。どうしてもっ!」
ちらっと玄関を確かめる。……お母さんは朝早くから研究所に行ってしまったらしく、靴はない。
「じゃ、私一人でも行くよ。もう遅刻しちゃうよ」
「駄目だったらどうしても駄目!」
そう言って僕は“芽衣”の手首をぎゅっと握り締めた。温かみだけはあるし、感触は生きてるみたいに柔らかい。でも、本来なら感じるはずの血管の鼓動は、どこからも感じられない。
ちょうどその時、時計が一度電子音を立てた。……六時三十分の時報。
「お兄ちゃんの意地悪……なんで行かせてくれないの?」
僕を見上げるその大きな瞳が、うるみ始める。
その瞬間、僕は叫び声を上げていた。わぁっとかぎゃぁっとか、多分そんな声を上げたんだと思う。
握っていた“芽衣”の手首を乱暴に離した。
「おにいちゃん?」
慌てた声で言う“芽衣”の声を背に、僕は階段を駆け上がると、自分の部屋に飛び込んだ。内開きのドアにくっつけて学習机の椅子を置いて、部屋に誰も入れないようにする。
そして僕は、ベッドに突っ伏した。
……どうすればいいんだよ……。
『MAY-10X』は、嫌気がさすくらい芽衣だった。
全く同じ姿、全く同じ記憶。ご丁寧に、肌触りとか体温とかまで可能な限り再現されている……。芽衣は実は死んでませんでした、ここにちゃんといます、と人に言えば、多分ほとんど疑われることはないと思う。
……それでも僕は、どうしても、どうしても『MAY-10X』を芽衣と認めることなんてできなかった。
ずっと帰ってきて欲しかった。
もう一度「お兄ちゃんお兄ちゃんっ!」と元気な声で呼びかけて欲しいとずっと思い続けていた。
その願いは叶ったのかもしれない。でも、『MAY-10X』が芽衣にそっくりであればあるほど、僕の心は強く強く痛んでいた。
「おにいちゃん、昨日からなんだかおかしいよ。一体何があったの? お兄ちゃん、なんだか冷たいよ」
おろおろとした口調で言ってる声が聞こえる。“芽衣”が押しているらしくドアもがたがたと動いているけど、椅子が邪魔になって人間(いや、もしくはそれに類似するもの!)が通ることができるほどの空間は作れない。
元気な声で呼びかける女の子、のようなもの。
でも、それは決して芽衣じゃない。
……芽衣はもうこの世にいないんだから。
この世のどこにもいないんだから。
ドアの外では相変わらず女の子の声が騒いでいる。
僕はティッシュを丸めると、両の耳に詰めた。
声が遠のく。同時に蝉時雨もどこかに消えていく。
机に座って、ドリルを開く。夏休みの宿題をしなくちゃ。一日一ページ。既に十ページぐらい遅れてる。
その視界がすぐに涙で何がなんだか分からなくなる。
どうすればいいんだよ。
どうしろって言うんだよ。
僕はどうなってしまうんだよ。
……壊れかけてるのは、お母さんじゃなくて僕の方かもしれない。自分の心がずたずたになってぼろぼろになっていくのが分かる。
『MAY-10X』なんて消えちゃえば良いんだ。二階から思いっきり突き落とせば、人間だって怪我するんだから芽衣だって壊れるに決まってる。
壊れてしまえば良いんだ。
何もかも壊れてしまえば良いんだ。
僕はドアにいったん体重を掛けて、椅子をどけてから、体重を少しずつ抜いてドアを開けた。
そこには『MAY-10X』が立っていた。
僕はぎゅっとその両肩をつかんだ。
ひと思いに、このまま階段から突き落とせば……そう思った時、ふと“芽衣”と目が合った。
昔と同じような、純粋で大きな瞳。
両手から力が抜けて、僕はその場にへたり込んだ。
涙が零れ落ちる。
“芽衣”は呆然と僕を見つめていた。
「お兄ちゃん、しっかりしてよっ! 泣いちゃ駄目だよお兄ちゃんっ」
いたたまれなった僕は、“芽衣”を押しのけると、階段を駆け下りてそのまま外へと飛び出していった。
どこをどう走り回っていたのか、ほとんど覚えていない。自転車にまたがった僕は、気がつくと家から三つぐらい離れた駅の前まで来ていた。太陽もすっかり高く登っている。
長い道のりをへとへとになって家に戻る。
玄関に入ると、途端に“芽衣”が飛んできた。
「お兄ちゃんの馬鹿、心配したんだよ、すっごく、ばかばか馬鹿っ!」
僕の胸に抱きついて、ぼろぼろと涙を流す。
僕はどうしていいか分からず、ただ“芽衣”の髪の毛を撫でていた。
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